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6:悪意

 カランカラン、と『la() maison(メゾン)』のドアが開くと、金木犀の甘い香りが緩やかに流れ込んでくる。 「いらっしゃいませ。お席はカウンターでよろしいですか?」  初めて玲司(れいじ)と出会った時と同じ、白いワイシャツと黒のスラックス、ロングタブリエを纏った桔梗(ききょう)が、匂いに誘われるように振り返り、にっこりと笑みを浮かべた。  あの嵐のような出来事と出会いから二ヶ月。すっかり秋の気配が濃厚となり、夜は何かを羽織ってないと肌寒い位だ。  桔梗は意思疎通の出来ていない元上司から逃げるように古びたマンションを出て、以降は玲司の自宅で生活をしていた。  それも、玲司や玲司の兄である総一朗(そういちろう)の希望もあったのだが、寒川家の専属医師である藤田(ふじた)の苦言もあったからだ。  運命の番が契約を結んだ後は、あまり離れるのは得策ではない、と。  特に番ったオメガは、精神的にも肉体的にも番であるアルファに依存し、バランスを保ってるそうだ。桔梗は当初そんな都市伝説的な、と軽く見ていたものの、変化はすぐに現れてしまった。  玲司と一緒に暮らし始めてすぐ、桔梗の体に異変が起こった。  最初は眠れなくなった。  桔梗は玲司の寝室の隣の空き部屋を間借りし、そこで至れり尽せりな生活を送っていた。不当解雇も寒川家の弁護士によって、予告の無い当日解雇だった為、一ヶ月の給料まるまると、他の社員からの証言で桔梗がずっと元上司からセクハラを受けていた事も加算され、相当の金額が桔梗に入ったのだ。  しかも、総一朗が代表をしている「K・Fコーポレーション」の下請けだったY商事は、契約を打ち切りとなり、元上司も寒川家の弁護士によって桔梗への接見禁止が言い渡されたのである。  桔梗を解雇したら、何故か大元の会社の弁護士は出てくるは、契約は打ち切りになるは、社長にとっては寝耳に水だった事だろう。元上司に関しては当然の措置ではあるが……  会社に登録していたマンションの方も解約をして、玲司と出会った時に持っていた携帯も雨で復活不可能となってた為、新しく契約しなおしたおかげもあり、元上司からの付きまといもなかったのは僥倖だろう。どちらにしても『四神(ししん)』の寒川家が出てくる以上、下手に出てこれないのが当たり前なのだろうが。  安全である、と頭は納得しているにも拘らず、桔梗の眠りは浅く、次第に眠る事自体ができなくなっていた。  そんな事もあり、玲司からの申し出で、絶対に何もしないからと、一緒に寝るようになったのだ。 「あれから、玲司さんとの肉体交渉はありますか?」  明らかに体調を崩していく桔梗を心配し、玲司が手配してくれた医師の藤田は、開口一番そう尋ねてきたのだ。  あからさまな質問に、桔梗の顔は真っ赤となる。言葉にするのも躊躇われて、首を横に振って返答するしかできなかった。  意識の殆どない桔梗へ、玲司はフェロモンに充てられたとはいえ、無理やり番契約を結んだ。だから、どれだけの非道が成されたか記憶にないのは良かったが、それでも翌日の腰の怠さや項の噛まれた痛みは色濃く残っていたのだ。  その後総一朗の登場や何やらでうやむやになってしまったけども、償うと言った玲司は言葉通り、現在も桔梗に対して指一本も触れなかった。  だからといって不当な扱いを受けている訳ではない。むしろ桔梗自身が気づかない変化にもすぐに見つけてくれ、こうして藤田を手配してくれたのも玲司だ。 「……いえ」  彼が時折、情欲に滲んだ目で桔梗を見ているのは知っていた。  本音を言えば、桔梗も玲司に触れたい。記憶になかった行為を上書きして欲しいとさえ思っていた。  そう告げればここまで拗れる事もなったのかもしれないが、桔梗は性的な気配を玲司から感じ取る度、すっと目を逸らしてしまっていたのである。その結果が不眠症とは、身から出た錆もいいところだ。 「まあ、いいでしょう。とりあえずは、睡眠導入剤を処方しましょう。ですが、これはあなたの体の解決にはなりませんよ。分かっていますよね?」 「ええ。でも……」 「総一朗さんから聞いてますよ、玲司さんからプロポーズされてるそうですね」 「……」  桔梗はコクリと項垂れるように頷く。  実家の教育のせいか、貞操観念を植えつけられた桔梗の体を暴いた玲司は、責任を取るつもりなのか一緒に住み始めてすぐにプロポーズをしてくれた。 「桔梗君、僕と結婚して欲しいと願っています。始まりがあのようになってしまったから、僕を信用していないのは理解しています。ですが、あなたを心から愛しているのです。あなたが僕を本当に求めてくれるまでは待ちます。考えてはくれませんか?」  早咲きの秋薔薇とアイビーの小さなブーケを手に、騎士のように跪いた玲司の真摯な眼差しと共に告げられた言葉。彼が嘘を言っている訳ではないと、その真っ直ぐな目が桔梗に教えてくれる。玲司が生涯の伴侶として桔梗を選んだという事も。  だけど、桔梗は答えられなかった。玲司の事は信じたい。でも、ヒートのフェロモンに充てられて交わってしまった事が枷となって、言葉が出なかったのである。  揺れる心のせいで、不眠になっているのは理解している。  本当の意味で玲司と番えば、何もかも片付くというのも。  しかし、香月の家を出されたとはいえ、婚姻ともなれば実家も無視できないだろう。  今の桔梗にはあの父親と対峙する勇気はなく、玲司のプロポーズにも目を逸らしたままだ。 「まあいいでしょう。お二人の問題はお二人でしか解決できませんから。ですが、桔梗さん。始まりはどうであれ、お二人は既に番となっているのです。こちらも医療的なお助けはできますが、話し合いは大事ですよ」 「……分かってます」 「それならいいのですが……」  藤田はふうと深い吐息をつきながらも、桔梗の頭をそっと撫でる。優しい手つきは、香月の家で頑張っているだろう兄を思い出し、少し涙が滲んでしまっていた。 「桔梗君、休憩に入ってもいいですよ」  玲司からの声にはっと我に返る。先程桔梗が案内した客はカウンターでひとり、グラスを傾けていた。彼は商店街の本屋の店長で、定期的に顔を出してくれる客の一人だ。  何度か顔を合わせる内に、少しではあるものの言葉を交わす間柄だ。 「あ、はい」 「夕食は用意してますが、食べれそうですか?」 「……多分」  カウンターの中にあるスチール椅子に腰を下ろしながら、桔梗は玲司の言葉に苦笑を漏らす。  不眠のせいか、ここ数日の間食欲が顕著に減少していた。玲司が体調を考えて作ってくれたチーズたっぷりのリゾットも、匂いのせいで嘔吐してしまった為、あっさりとしたおかゆや、出汁の効いたうどんや温麺等を作ってくれた。  その優しさが嬉しい。 「はい。今日は冬瓜と鶏ひき肉のスープ煮と、白菜と豆腐の卵とじです。冬瓜のは餡にしてるから、お粥にかけて食べても美味しいと思いますよ」  コトリと置かれた器は小さく、桔梗が食べ切れる量が入っているのもありがたい。  桔梗は「いただきます」と手を合わせると、玲司が勧めるように挽肉を纏わせた冬瓜をおかゆに乗せ、一緒に掬い口に含む。  冬瓜は舌で潰せる程柔らかく、挽肉の旨みを含んだスープがじゅわりと溢れてくる。生姜を効かせているのか嚥下するとお腹がポカポカしてくる。  白菜も溶けるように煮込まれ、少し弾力のある豆腐と卵の甘味が優しく、するすると胃袋に落ちていく。  一人で生活していた時、体調が悪くなればゼリー飲料で誤魔化し、ひたすら寝てるだけの生活を送っていた。  逆に玲司と生活するようになってからは、少しでも顔色を悪くするだけでもベッドへと寝かされ、体に優しく温かい食事を作ってくれた。  玲司は自分に酷い事をした人。でも、自分を大事に、大切にしてくれる人。  プロポーズをしてくれたけども、果たして愛情からか本能からか、番にしてしまった償いからか。  桔梗は自分が無駄に悩みすぎて体調を崩しているのを自覚している。  玲司がプロポーズをしてから一ヶ月。そろそろ返事をしなくてはいけないと思いつつも、グルグルと悩んではドツボに嵌るを繰り返していたのだった。 「桔梗君、食べながら悩むと消化に悪いですよ」 「……っ」  ふと、桔梗の眉間に寄る皺を伸ばすように玲司の手が触れてくる。思わず驚きで肩が跳ねると、玲司は「ごめんね」と言ってすぐに手が離れる。 (そうじゃない。そうじゃないんです、玲司さん。あなたに触れられるのが嫌なんじゃないです。俺が……俺は……)  気まずい空気は、常連客が退店するのを期に霧散していった。 「片付けは僕がやっておくので、先に部屋に戻っていただいてもいいですよ?」 「いえ、もうちょっとで終わるので、一緒にやります。その後に、庭のハーブを摘んでお茶を淹れてもいいですか?」  冬が近いため店の前のハーブ達は数が少ないものの、越冬できる種については植えたままになっていた。ローズマリーや観賞用のレースラベンダー等、可憐な花が客を出迎えてくれるだけでなく、そのフレッシュハーブを使った料理も提供しているのだ。  桔梗は最近、閉店後に練習として庭のハーブでハーブティを淹れるようにしている。初めて玲司が淹れてくれたハーブティが美味しく、自分でもやってみたいと思うようになったのである。 「ええ、いいですよ。ついでに、ローズマリーを少し剪定していただいてもいいですか?」 「はい。何か作るんですか?」 「白ワインビネガーに漬け込んで、ハーブビネガーを試作しようかな、と」 「お魚に合いそうですね」 「そうですね。ポワレのソースに良いかもですね。あとローズマリーは鶏肉にも合うので、そちらでも試してみたくて」 「ああ……もしかして、クリスマスの試作ですか?」  よく分かりましたね、と玲司が目を見開く。  あと一ヶ月少しすれば、クリスマスがやって来る。基本的に不定期営業の『la maison』だが、クリスマスの二日間は常連客に頼まれて特別メニューにて対応しているのだと、先程帰った本屋の店長が教えてくれたのだ。  二人でやったおかげか、片付けは然程時間がかかることなく終わり、桔梗は玲司にポットに湯の準備をお願いすると、ザルと剪定鋏を持って庭へと出る。  金木犀の甘く芳醇な香りがぷんと鼻に届く。 「桂花陳酒って、白ワインに金木犀を漬けたお酒だよなぁ。自作できるなら、一度試してみたいけど」  ネットなら調べられるかな、と呟きつつ、桔梗が求めていたレモングラスを数本根元で切り、ザルの上に並べる。  一見すると雑草にしか見えない細い葉は、刈り取ると爽やかな柑橘系の匂いが切り口から香ってくる。これと、玲司が夏の間に収穫して乾燥したミントと一緒に、ハーブティにしようと決めていたのだ。  あとは、レモングラスは女性の足りない成分が多く含まれている為、何かデザートに利用できないかとも考えていたのだった。 「グラニテにすれば、クリスマスメニューの方でも出せないかな」  先程の話では鶏肉を使用したものを提供するらしいから、口直しにしてもらえばいいな、と考えていた。そのきっかけのハーブ収穫でもあった。 「とは言っても、作るのは玲司さんだけど」  話題として提供はできるのだが、桔梗は料理下手なのだ。舌は幼い頃から良い物を食べさせてもらったおかげもあって、色々アドバイス的な事は言えるものの、それが料理の技術に繋がらなかったのである。  かろうじてお茶やコーヒーは淹れる事はできる為、無職の桔梗が玲司に店の手伝いを申し出たのだ。  最初は難色を示した玲司だったが、桔梗の熱意に負けたのか渋々ながら承諾してくれたのは、総一朗や藤田の後押しがあったのも理由だろう。  ただし無理はしない事が条件として挙げられたが。  桔梗は深い緑の細い葉を鈴なりに茂らせるローズマリーを数本鋏で切り落とし、ザルの中へと並べると、しゃがんだ脚を伸ばした。 「……う」  クラリと立ちくらみがし、咄嗟に門の近くにあるポストへと手を伸ばす。原因は分かっている。寝不足と食欲不振で貧血状態になっているのだ。  内扉に触れたのだろうか、カタリと音を立てて白い封筒が地面に落ちる。玲司宛の手紙かと拾えば、表書きには「香月桔梗様」と印字された文字が並んでいた。  この場所に桔梗が居るのを知っているのは、桔梗と玲司、それから医師の藤田と総一朗と「K・Fコーポレーション」の顧問弁護士の男性だけだった。  一体誰だろうと、裏を返してみてもそちらには何も書いてなく、不思議と共に不気味さえ感じていた。  意を決して桔梗の指は几帳面に止められた合わせに指を掛ける。ピリリと糊の剥がれる音がして、中身が姿を現した途端、桔梗は「ひっ」と悲鳴を飲み込み、体を凍りつかせる。 「な……なに、これ……」  手が震え、封筒が滑って地面へと落ちていく。  開放された中身が散らばり、その姿を明確にしていく。  細切れにされた写真は、断片的でも憶えがあった。以前在籍していたY商事では、毎年事情がなければ、半強制的に会社の親睦旅行へと参加しなければいけなかった。パズルのピースのように小さくなった紙片に、入社して間のなくの初々しい桔梗の笑顔が写っていた。  そして、寄り添うように一枚のカードには、 『淫乱オメガには死を』  まるで悪意が形になったような赤い文字が綴られていたのだった。

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