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番外編SS:リミット

 『la maison』の前庭には様々なハーブがあり、人の目も舌も満足させる。  とりわけ淡い緑のアップルミントと白い花を付けるカモミールは、初めて間もなくのカフェタイム目当てでやってくる主婦達に大人気だ。 「桔梗君、休憩に入ってください。疲れたでしょう?」  そう言ってカウンターから手招きするのは、桔梗の番となった玲司だった。いつものように真っ白の糊が効いたワイシャツに、黒のスラックス。それから黒のロングタブリエという、如何にもなカフェのお兄さんなスタイルは、体格の良い玲司にとても似合っていて、近所のご婦人達にも大人気だ。  色めきだつ声を耳にする度、桔梗の心中は複雑になる。  玲司はアルファで、桔梗はオメガという性差を持っていて、会社をクビになり突然のヒートになった桔梗を玲司が保護してくれて、オメガのフェロモンに誘発された玲司によって番となった経緯がある。  故に桔梗は項に玲司が噛んだ傷があるものの、心情としては記憶がない為、どうにもしっくり来ない日々が続いていた。  まだ意識がある時ならば、どこか諦観する事もできたのだが、こればかりは過去となってしまった為にどうしようもない。 (いや、あるにはあるけど……)  桔梗はちらりと玲司を見上げ、心の内で溜息を漏らした。  つまり、お互いの意識がある時に交わればいいだけの話だ。  解決の過程は簡単(シンプル)ではあるものの、どうにも気恥ずかしくて桔梗からは言い出しづらい。厳粛な家庭で育ってきた後は、交流のないまま大人になってしまった桔梗には、自ら誘うという事は、かなりハードルの高い行動だったのだ。 (言えない。自分から『抱いて』とか恥ずか死ぬ)  顔が熱くなるのを自覚した桔梗は、俯いたまま玲司が淹れてくれた冷たいミントティーを一気に啜った。炭酸で割ってあるのか、大量に飲み込んだ桔梗は噎せてしまい咳き込む。 「大丈夫ですか、桔梗君。炭酸が入ってると伝え忘れてました」 「い、いえ。俺が喉が乾いて一気に煽ったのが悪いんです」  顔の前で手を振って自分が悪いと言えば、玲司は「ですが」と不安に顔を曇らせる。そんな顔をさせたい訳ではないのに。端緒は自分のせいなので、余計に落ち込んでしまう。  玲司の兄の総一朗曰く。 「お前達は人の事ばかりに気を使ってるからいつまで経っても進展しないんだ」  桔梗が玲司と生活を共にするようになってから、頻繁に顔を出す義兄ポジション──まだ籍を入れていないのに、彼は桔梗に対しても忌憚ない意見を言い放つ──の彼に言われて、桔梗も玲司も何も言えずに黙ってしまうのだ。  理由は簡単だ。  玲司は桔梗の発情(ヒート)に煽られて発情(ラット)し、合意のないまま桔梗の項を噛んだ罪悪感から。  桔梗は何の罪もない玲司を巻き込んだ上に、玲司の罪悪感に漬け込んで世話になってる居た堪れなさから。  この二つの問題を解決する術を、二人は知っているのに、問題のせいで前に進めていないのも事実だった。 (ダメだなぁ。もっと本心を言葉にできるようにならないと)  自虐する言葉を自身に向けて放ち、桔梗は弾ける炭酸が喉に心地よいミントティーを堪能したのだった。 「桔梗君、ゴミを外のボックスに入れてきてくれますか」 「あ、はい」  今日はカフェタイムのみの営業だったので、まだ明るい空がゴミを持った桔梗を出迎える。  『la maison』は自宅に繋がる扉とは別に、裏庭に続く扉がある。そこの一角に設置してあるダストボックスにポイとゴミを投入した桔梗は、ふう、と息を漏らす。  ダストボックスはオートで肥料にしてくれる処理機能がついたもので、できた肥料は庭のハーブたちに還元される。  今年は夏が思っていたよりも短く、空はもう秋の様相を呈している。  暮れなずむ茜色の空の下に、小さな野菜とハーブの畑が赤い光を受けて染まっていた。  この畑は、玲司が趣味でやっているもので、殆どが食卓にのぼる程度を賄える位の規模だった。桔梗の前でゴウンゴウンと始動している処理機が作った肥料の恩恵も、ここでも与っている。  その小さな世界を囲むのは、低木の金木犀の生垣。  まだ蕾すらない濃い緑の葉は、時折吹く風にもっさりと枝を揺らしていた。 「もっと話し合う機会を作れ」と、不意に総一朗の声が蘇る。  これは先日窘められた時に、桔梗に言われた言葉だった。 「桔梗さんが玲司に対して後ろめたい気持ちがあるのを咎める気はない。だけど、いつまでも気にしているのは逃げていると同様だ。君が優しい人間だっていうのも、玲司に対して悪いと思っているのも知っている。でも、それを免罪符に使ってばかりでは、お互いダメな番になってしまうぞ」  総一朗の言わんとすることは理解している。  だけども向き合うだけの勇気が出てこないのだ。  きっと桔梗が向き合えば、玲司も同じように向き合ってくれるのは、短い時間だけど一緒に過ごしてきたから知っていた。  しかし、それはつまり、あの日の出来事を出さなければ始まらない話だった。  目覚めた時に番契約が済んでいた時の衝撃は、今も体に生々しく残っている。  だけども、一緒に時間を共にした事実が、また別の感情を生んでいるのも知っていた。 「もう少しだけ……君が花開く時まで、もうちょっと気持ちが固まるまで」  まだ開花の兆しさえもない金木犀の葉を掬い取り、桔梗は小さな決意を呟いた。 end

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