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act.0 芽生え

 兄ちゃん兄ちゃんと、実の姉よりもよっぽど懐いて会う度に後ろをひっついて回った。  従兄弟であるその人に会えるのは夏休みや冬休みで母方の実家に帰省する時であることが多く、だからこそ会えたらここぞとばかりに甘えて、甘やかされていた。  それが素直に出来なくなったのは、11歳の歳の差がある従兄弟が、姉よりも早く大学生になった年のことだ。休みの期間が微妙に合わなくなって、会えるのが冬休みだけになって不貞腐れて夏休みを過ごしたのを今でもよく覚えている。  待ちに待った冬休みにせっかく会えたのに、向こうは随分大人びた顔で笑って、自分よりも大人側に近くなっていた。大人達からももうほとんど子供としてではなく大人としてカウントされていて、ただのお兄ちゃんから保護者の位置付けに変わっていた。  大好きな兄ちゃんが知らないおじさんに変わってしまったような淋しい気持ちを、ぶつけようにも恐くて、いい子のフリをして壁を建てた。  我が儘も甘えて抱きつくのも、手を繋ぐのさえ我慢した。  我慢して我慢して我慢して──帰り際に爆発してぎゃんぎゃん泣いた。兄ちゃんの意地悪兄ちゃんなんか大っ嫌い兄ちゃんなんかもう会いたくない。  小学1年生の語彙を尽くして泣き喚いて、気付けば傷付いた顔を隠さない従兄弟に頭を撫でられていた。 『ごめん。ごめん、結太(ゆうた)。もう会わないから、泣くな』  壊れ物でも扱うみたいな不器用で優しい抱擁。ごめんな、と震えた声が耳元で囁いて離れていった温もり。違う違う違う。そうじゃない。いつもの兄ちゃんに会いたかっただけなのに。いつもの兄ちゃんに甘えたかっただけなのに──。  空回って裏返って、投げた言葉は取り返せないままで10年経った。  1年半後に大学受験を控えて、塾に行った方がいいんじゃない、なんて軽い一言と一緒にチラシを手渡された。個人が開いている割には規模がそれなりに大きくてしっかりした所らしい、と母親に言われて入塾資料を取りに行かされた暑い日。 『……お待たせしました。見学の方……で、す……』  尻窄みになった声に、体が震えた。 『…………俊兄(しゅんにい)』 『……結太か……?』  泣きたくなった。あの日、取り返しのつかなくなった関係を思い出したら、苦しくて悔しくて。 『っ、俊兄……!!』  駆け出して、体当たりするみたいに抱きついて、あの日のようにわんわん泣いた。 『なに!? ぇ、なに!? ちょっ!? 待て待て待て! 結太! 落ち着けって! ごめんごめん! 泣くな! な!?』  はわはわと慌てる俊兄が、随分躊躇った後にぎこちない手付きで頭を撫でてくれる。 『どうした? ん?』  ひくひくと喉が鳴って、ぅぇうぇとしゃくり上げるオレの顔を覗き込んだ俊兄の顔も泣き出しそうに歪んでいた。 『ごめ……っ、ごめ、なさっ……あれっ、は、違くて……(きら)っ、じゃない! ぁいたかった……ずっと……会いたかった……!!』 『ゆうた……』 『俊兄に、会いたかった……!!』 「じゃあ、本っ当に母ちゃんが言った訳じゃないんだな?」 『もう、珍しく電話してきたと思ったらしつっこいわねぇ。言ってないってば。結ちゃんの前ではあんたの話はなるべくしないように心掛けてたし、聡子(さとこ)と話す時もあんたの話はしてないわよ。お父さんの愚痴はいっぱい喋ったけど』  そんな報告はいらん、と思いながら、不意打ちの再会で高ぶっていた鼓動が落ち着いてきたのが分かる。  結太に散々泣かれたのは10年近く前だと思う。あれ以来本当に、結太のことを慎重に避けてきた。祖母のところへ帰省する際には、必ず結太が来ないことを確認したし、一人暮らしを始めて母の妹である叔母が急に家を訪ねてきても結太と顔を会わせないで済むようにもした。  正直なところ、なぜ急にあんなにも嫌われてしまったのかは、分からなかったし傷付かなかったといえば嘘になる。それでも、あんな風にわんわん泣かれてしまったことが、堪えに堪えた。しばらくは食事さえ喉を通らなかったくらいだ。  兄ちゃん兄ちゃんと舌足らずに呼び、小さな手でオレの手を必死に掴み、じゃれつくように小さな体で抱きついてきては、きゃっきゃと幸せそうに笑ってくれていた結太が。急によそよそしい態度を取ったかと思えば、別れの間際に大嫌いだと大泣きされたのだ。傷は深かった。  それがいきなり勤め先である学習塾に姿を現したかと思ったら、顔を会わせるなり号泣されて必死の体当たりをされて、動揺するより他ない。  とにかく落ち着けと宥めすかして、入資料を取りに来たのだと泣きべそかきながら切れ切れに呟いた結太に資料一式を持たせて家に返すまで、今にも胸を突き破って飛び出してきそうなほど煩く鼓動が鳴り響いていた。どうにか送り出した後はどっと疲れてその場にしゃがみこんでしまった程だ。  冷静さを取り戻す時間ももどかしく、ズボンのポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出して母親に電話をする頃には、鼓動はたぶん打ち鳴らしすぎて止まるんじゃないかと思うほどに大きく不規則に脈打っていた。 『で? 結ちゃんは、どんなだった? 元気そうだったの?』 「あぁ、うん……まぁ……」  泣いてたけど、とは言えずにもにょもにょと口ごもる。 『まぁでも良かったじゃない。あの後聡子に話聞いてたら、どうも結ちゃんが大人っぽくなっちゃったあんたに人見知りしちゃった感じだったみたいだし。本当はあんたもずっと仲直りしたかったんでしょ? お互いちゃんと冷静に話せる歳になったんだから、ちゃんと仲直りしなさいよ』 「……仲直りって問題か……?」 『痴話喧嘩みたいなもんでしょ。あんた達仲良かったんだし』 「痴話喧嘩って……」 『ほらほら、もういい? ちょっとお母さん、再放送の火サス見ないと』 「……」  息子の電話より火サスが大事かよ、と思わなくもなかったが、自分も仕事中だ。そろそろ戻らねば授業にも差し支える。 「……じゃあ、またなんかあったら電話する」 『はいはい、じゃあね』  ふつん、と潔く切れた通話。  くそっ、と頭をがしがし掻き回して溜め息を吐いたら、頭を振って立ち上がった。  *****  再会したあの日を思い出すと、未だに恥ずかしくて顔から火が出そうになる。  だけど俊兄はそのことをちゃんと理解してくれていて、ただの一度もあの件でオレをからかったりはしなかった。  だけど同時に、ほんの少しだけ溝も作られているような気もしている。  従兄弟としての関係は確かに復活したけれど、断絶する前までは本当の兄弟のような──むしろたまにしか会わないからこそ過剰に甘やかされていたような関係だったことを考えると、1歩も2歩も間を開けられているような気がするのだ。 (……なんだかなぁ……)  今さら手を繋いで歩きたいだとか、抱っこして欲しいだとか、そんな幼稚園児みたいなことを言いたい訳じゃない。ただ、薄いようで厚い、こちらを拒絶する壁を取り払って欲しいのだ。  あの日散々傷付けておいて虫のいいことを言っていることは自覚しているけれど、せっかく再会出来たのにこれじゃあんまりだ。  他の塾生の方がよっぽど俊兄と近いなんて、ずるい。 (…………ずるいってなんだ……?)  はた、と我に返って思い浮かんだ単語に首を傾げながら、ぱったりとベッドに倒れ込んだ。  明日は塾で俊兄が授業をする日だ。俊兄の担当は社会科全般で週に3日しか講義がない。その割には、元来の人当たりの良さが生徒に人気らしく、事務室でしょっちゅう質問攻めにされている姿をよく目にする。  英数を担当する講師達が生徒から不人気なせいで、社会科以外にも質問を受けているらしい。事務室でよく俊兄にまとわりついている女子二人から、聞いてもいないのに教えてもらった。  本当は自分も他のみんなの様に、用もないのに質問の振りして俊兄の所へ行きたい。けれど、塾で顔を会わせても講師の顔しか見せてくれない俊兄が、どれだけじゃれても従兄弟扱いしてくれないことはもう理解している。  そんな淋しいことになるくらいなら、質問になど行かない方がマシだと早々に諦めた。  いつかまたあの頃のようになんの屈託もなく笑って話がしたい──ちっぽけで切実な願いを胸に浮かべながら、睡魔に引きずられて眠りに落ちた。

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