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プロローグ

 風が通り抜けてゆく。  ざわざわと、地面の緑が揺れた。  誰かが呼んでいる。  伏せていた顔を上げて、声のした方を向くと、春のまぶしい日差しの中に、小さなシルエットがあった。    その黒い影は、こちらへと手を振っていて。  早く来て、と急かしてくる。  立ち上がった途端に、くらりと立ち眩みがした。  ふらついた足の下で、蓮華の花がぐしゃりと潰れた。    あ、と呟きを漏らすよりも先に、するりと右手に絡んでくる温もりがあった。  行こう、と幼くやわらかな手に、手を引かれて歩き出す。    土いじりをしたのだろうか、その指先は黒く汚れていた。    手をつないだまま、二人並んで歩く。  止まりたい。  そっちへ行きたくはない。  そう思うのに、足は意思とは関係なくなめらかに動く。    赤と紫が混じったような蓮華畑では、ミツバチがぶんぶんと飛び回っていた。  ハチを避けながら、畔に上がり、地面を踏みしめてどんどんと進む。    周囲を田んぼと畑に囲まれたような、田舎の一軒家。  日陰になった門をくぐり、縁側に半身を乗り上げて、「ただいま」と幼い声が空気を震わせた。  靴が片方、沓脱石の上から転がり落ちている。それを身をかがめて拾い、きちんと揃えて置きなおした。  そして、自身の履物も脱ぎ、小さな体に続いて縁側から屋内へと入る。  ただいま。    そう言ったのに、家の中は奇妙にシンと静まり返っていた。    パタパタパタ。  白いソックスの足が軽やかに走って、ふすまに手を掛けた。  駄目だ。  そこを開いては駄目だ。  見てはいけない。    あの子の目を。  塞がないと……。  制止しようとしているのに、体はぴくりとも動いてくれない。  成り行きをただ見ることしかできない視界の先で。  勢いよく、ふすまが開けられた。  見ないで。  見ちゃだめだ。    そう叫んだのに、口から漏れたのは悲鳴だけだった。    薄暗い室内で。  太い梁から吊り下げた縄に。  ぶらぶらと揺れる、二つの物体が、あった。    異臭が鼻をつく。  畳には汚物が広がっていた。  ぶらり。  ぶらり。    音もなく揺れるは、両親の姿(かたち)をしていた……。   

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