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第1話

 社会学の講義を終えた大学二年生の乙金公人は、校舎を後にした。この後は部活棟へ向かう予定なのだが、少しだけ気が憂鬱になる。季節は実りの秋を迎えており、部活動周辺の銀杏の木が植わっていた。落ちた銀杏の実が容赦なく踏みつぶされ、漂う香りの質は言うまでもないだろう。公人とほぼ同じタイミングで校舎から出てきたグループは、駅方面へと帰っていく。去っていく学生には見覚えがある。一年生の時に基礎クラスが同じだった学生だ。附属の高校からそのまま進学した生徒で、入学当初からグループを組んでいたはずだ。小中高と展開するこの大学では、彼のような生徒は珍しくない。公人の方が異端者である。  希望する学部が遠方にしかなかったため、地元から離れた大学に入学したのが一年と半年前。当然のことながら、知り合いはおらず、周りはすでにこれまでのコミュニティから外れる気はなく、取りつく島がなかった。群れて行動するのは好きではなかったが、さすがにここまで孤立してしまうと、大学生活が虚しいものになってしまうのではないかと危惧していた。  そんな時たまたま演劇部員に声をかけられた。中高と演劇には無縁の生活を送ってきたために、公人は戸惑いを感じた。では、ほかに何かやりたいことがあるのかと自分に問いかけると、何も浮かんでこない。入学後に何をするか何も考えてこなかった自分に衝撃を受けつつ、話しかけてきた部員へ、言葉を返す。 「まったくの未経験者なんですが……それでも大丈夫ですか?」  どこかに所属しておいたほうがよいかと思い、入部して現在に至る。最初は勝手が分からず、裏方を担当していたが、元々声が通る方だったこともあり、役者として何度か講演を重ねることになった。入部当初より度胸もついたような気がするので、今となっては声をかけてくれた先輩に感謝している。今も二週間後の文化祭での講演を控えているところである。 そういう事情もあって、銀杏が臭いので、やる気が起こりませんとも言っていられないのである。  今回の公演内容は、架空の人物が登場する仮想歴史ものである。歴史に疎い自分が主役を演じてよいものかという戸惑いはあったが、与えられたチャンスは大切にしたいと思い、これまでも練習に打ち込んできた。鞄に入れていた台本を手に取る。表紙には、文化祭名とともに演目名が記載されている。 金断つ別れ  公人演じる厚木宗禮と亡き友人二階堂元直という男の物語である。  元直は棟梁という立場にあったが、劇中前に志半ばで凶刃に倒れる。は、棟梁となった元直の弟である元秋を支え、勢力拡大を図っている。先の戦で宗禮は矢傷を負い、死に瀕している。  残りわずかとなった命を振り絞り、生への執着として、現棟梁への助言をしたためる。そして、その胸の裏で死した後の願いを秘めるといった内容である。  元直を演じるのは、大刀洗俊介という三年生だ。この男こそ、公人に最初に声をかけた先輩である。背が高く華やかな容姿をしており、これまでも演劇部で主要な役を務めてきたという。どういった理由かは分からないが、公人はこの男にいじられることが多い。本人曰く「これは可愛がりだ」ということだ。学部専攻が同じということもあり、気にかけてくれているのだろうと公人は考えている。  宗禮は美男子という設定であり、それこそ大刀洗が務めるべきなのではないかと公人は、配役の打診を受けた時に伝えた。しかし、大刀洗では知将というには目立ちすぎるからと説明された。台本を読んでみると、元直は父亡き後、若くして一族郎党をまとめ上げ、一大勢力を築き上げた快男児であるが、その性急さゆえに恨みを買い、凶刃に倒れたという設定になっていた。そして、宗禮はいわゆる調整役といった立ち位置だったため、納得した。決して、大刀洗が薄命そうな容貌をしているという意味ではなく、その果敢さ、鮮やかさは大刀洗にあっていたように公人には思えたのだ。 今日は本番も近くなってきたこともあり、衣装着用の上で練習がある。   通し練習の前に台本の確認をすべく、練習棟へ向かう。楽器を演奏する吹奏楽部を横目に、部室のドアを開けると、既に先客がいた。演出担当の所沢と元直を演じる大刀洗である。  大刀洗は部室の机に突っ伏している。肩が緩やかに上下するその様は、疲れて眠っているといったところか。 「おつかれ様です」 「金乙君お疲れ」  公人が思わず小声であいさつすると、所沢も同じように返してきた。 所沢は、大刀洗と同学年である。二人は学部こそ違うが、幼馴染ということもあってか、一緒にいるところをよく見かける。ちなみに、今回の台本を書いたのは、この男である。 「大刀洗さんお疲れなんですね」 「最近夢見が悪いんだって。珍しく緊張してんのかな」  夢という所沢の発言に、公人は驚いた。自分と同じだと思ったからだ。公人の場合は夢見が悪いというわけではなく、不思議な夢を見る程度なのだが。しかも、ここ最近ずっと、同じ夢を見るのだ。  大刀洗を見やる。腕を枕に眠る姿。顔は見えないが、何かつぶやいているのか、声が聞こえる。うなされているのかもしれない。うなされている場合は、起こすべきなのか、そのままにしておくべきなのか。ためらっているうちに、アラームが聞こえてきた。音の源は、大刀洗の携帯電話であった。もともと、この時間に鳴るように設定していたのだろう。  大刀洗の体がぴくりと動き、少しのまどろみの後、ゆっくりと起き上がり、その容貌が露わになる。優れた容姿というのは絶大の武器となる。寝ぼけ眼ですら、何らかの強いメッセージを放っているように思えてしまう。 「お疲れ様です。大刀洗先輩」 「公人か……お疲れ。合同練習前に熱心だな。折角だから台詞合わせでもするか」 「お願いしたいところですが、起きたばかりなのに大丈夫ですか」 「寝てたといっても十分くらいだ。水飲んでからでいいか」  大刀洗は机に置いていたペットボトルを手に取り、その中身をゆっくりと飲み干す。息を吐き、咳払いをして、傍に置いていた台本を手に取った。  公人は大刀洗の向かい側に座り、対峙した男を見やる。ただでさえ目鼻立ちがはっきりとしていて、力強い印象があるというのに、文字を読み解くため伏し目がちになると、睫毛が扇のように広がっている様がよくわかる。 「じゃあ、始めるぞ。宗禮の回想からな」 「お願いします」  第一声を発したその時、そこにいる男は大刀洗俊介ではなくなっていた。 『もう、俺は長くないらしい』  憤り、絶望の色を残しつつも、平静を装った声。大刀洗のややハスキーな声が、役の感情を上手く表している。最初に合わせた時は、悔しさの色が強く出ていたように公人は記憶していたが、解釈を変えてきたということだろう。声色と、形の良い眉が歪められる様に、演技だと頭では理解しているのに、心が痛む。 『弱気になるなんて、殿らしくありませんよ。父君が敵の奇襲に合い討たれた時でさえ、殿は涙を見せずに立ち向かったではありませんか』  宗禮にも、友の命が風前の灯火であることは分かっている。分かったうえで、友を激励する。 『お前は意地が悪いな。皆が去り、お前と俺だけになった時、俺は泣き崩れただろう』  過去を懐かしむようにどこか遠くを見つめる。  ただの友人であったなら、弱気になった部分も含めて支えることができる。しかし、棟梁となった元直には、弱気になることは許されない。死が避けられないことはわかっていても、認めてはならない。認めてしまえば、宗禮まで折れてしまう。 『殿があの頃の少年に戻ってよいのは、父君の仇を討ってからにございます。まだ早うございます。あなたは、まだ私人として生きることは許されない』  非情な言葉である。死に瀕した友に対する言葉ではない。 『仇は、元秋に任せる。仇だけじゃない。今後、棟梁として俺の後を継ぐのは、ヤツだ。お前が、あいつを支えてやってくれ。俺がお前を必要としたように、あいつにはお前が必要なんだ。俺の後を追うことは許さん。たとえこちらに来たとしても、叩き返してやる』  凶刃がその身を蝕んでいる印として、一回、二回と咳き込む。 『意趣返しのつもりか元直。君が私に語った夢は、どうするつもりだ。天下を取るまで共に進むと言った、あの日の誓いは!私と、君の夢だったんじゃないのか……』  いまや、一個人として生きることは許されなくなった二人。この後劇は、宗禮の奮戦、そして最後には宗禮も病に倒れる。最後二人は、死後の世界で出会うという筋書きになっている。最後まで台詞合わせを終え、合同練習へと向かった。  部活内でも、誰と誰が付き合っているとか、そういった話が嫌でも耳に入ってくるが、大刀洗の噂は一切聞かない。公人も学内では、部活動に打ち込む姿と勉学に励む姿しか見たことがなかった。そういったところに好感が持てたので、多少からかわれても、不快に思うことは少なかった。 作品を良いものにするために、他の部員と白熱した議論に及ぶ場面もあったが、自分の思い通りにしようとするのではなく、相手の意見に肯定する柔軟さも持ち合わせていた。 今回も台詞合わせの後、解釈について話し合った。そうこうしているうちに合同練習の時間となったので、練習場所へと向かった。  演劇の醍醐味は、自分ではない誰かになりきるという所にあると公人は思っている。舞台の上では、自分の殻を破って、誰かになることができる。たとえそれが、可笑しなことだとしても、この舞台の上では、認められる。あくまでこれは公人の持論であり、「合法的に他人にコスプレさせられるのが、最高」と豪語する者もいる。衣装係の女学生の言である。  特に今回は、歴史ものということもあって、当然ながら衣装も現代劇とは異なる。恐らく安土桃山時代を想定しているのだろう。しかし、公人は、陣羽織だなということは分かっても、詳細は分からなった。  公人が身に着けるのは、袖のない陣羽織である。白を基調としているが、肩と衿の部分は、青地に金色で鶴が描かれている。長い髪を一つ結びにし、涼しげな印象である。知将ということで、青色を持ってくるのは、戦隊ヒーローと同じだと、少し笑ってしまったのを思い出した。そして、公人は普段眼鏡をかけているのだが、この舞台ではそうもいかず、コンタクトレンズを着用することとしている。 「乙金君って、眼鏡取ると雰囲気変わるよね」 「ずっとコンタクトにしておけばいいのに?」  衣装係の学生が公人に話しかけてきた。コンタクトレンズのメリットを公人ももちろん知っている。 「ドライアイだから、長時間つけたくないんだ」 「そうなの?何だかもったいない気がするな~」  他愛のない会話をしていると、衣装に着替えた大刀洗が現れた。 公人の理屈でいくと、主人公色となっているのが、元直である。西洋風の袖つき陣羽織だという。赤系の色合いに、金を思わせる縁取りがされている。黒を貴重とした着物の上から纏うことで、より鮮やかさが強調されて見えた。黒髪を高い位地で結わえ、いかにも若武者といった出で立ちである。 「公人、この羽織何て色か知ってるか」  何故そんなことを聞いてくるのか。分かるはずがないと思ったのだが、頭で考えていたものとは別の言葉を話していた。 「猩々緋ですね」 「何だ。知っていたのか」 「そうみたいです」 我ながら歯切れの悪い回答だと、公人は思った。何故知っているのか、自分でも分からない。遠い昔にみたような気がする。そんな曖昧な事しか思い浮かばなかったのだ。懐かしいような、酷く寂しいような、公人にとってこの色は、不思議な気持ちにさせるのだ。  一度衣装合わせをしているところを見たので、公人が衣装を纏った大刀洗を見るのは、これが初めてではない。初めてではないことは分かっているのだが、妙な既視感があった。もっと昔に見たことがあるような気がしてならなかった。それだけではない。この台本を目にしてからといものの、共感を覚えるのだ。仮想歴史ものだというのに、実体験のように思えてしまうのだ。  今回の合同練習で、その感覚は強くなった。  練習後、着替えを済ませ、公人が帰り道を歩いていると、少し前を所沢と大刀洗が歩いているのが見えた。何やら話をしているようだ。会話に割って入るような真似をするのは、躊躇われたが、合同練習前の台詞合わせのお礼をしなければと思い、歩みを早める。 「俊介、今回気合入ってるよね」 「いつもと変わらないだろ」 「確かに、そうなんだけどさ。今回は、台詞一つ一つに注文つけてきたよね。衣装も、動きづらい場合には、改善要求出してたけど、今回はデザイン面にこだわってたみたいだし。しかも、宗禮のばっかり」 「……そうか?」 「僕たち付き合い長いんだから、そんな誤魔化し通用しないよ。まあ、憧れの人だから仕方ないよね」 「おい」  これは聞いてはいけない内容だったのではないだろうか。しかし、ここまで距離を詰めてしまった以上、今更離れるわけにはいかない。公人は何とか見つからないようにしようと思ったが、時すでに遅し。ふと後ろを見た所沢と目があってしまった。 「あれ、乙金くんお疲れ」 「!」  所沢の声に公人と大刀洗が同時に体をびくりとさせた。後ろを振り返った大刀洗と目が合う。大刀洗は、一瞬動揺を見せたが、すぐに平常の様に戻る。 「お疲れ。本番までもう少しだから、油断するなよ」 「はい」  その後は、他愛のない会話をして、公人は大刀洗たちと別れた。別れた後で、二人の会話を思い出しては、どういうことだったのかと考えにふけった。  あの会話の流れを考えると、大刀洗にとって宗禮は、憧れの人物ということになる。  憧れの人物を後輩に演じさせるとはいったいどういうことなのか。公人には分からなかった。そして、公人は元直のことが気になっていた。  最初に台本を見た時は、どこかで似たような話を見たことがあったのだろうかと思った。  そんな公人の深層心理を反映してか、しばらくしてから夢を見るようになった。 自分ではない誰かの視点に立って、夢が進んでいく。何故それがわかるのかと言えば、長い髪が首筋を伝う感覚があるからだ。夢だというのになぜ、感覚を理解できるのか。 夢の中は、恐らく秋の夜なのだろう。闇に包まれた空間に、虫の鳴き声が聞こえる。少し歩くと、屋敷が見え、ゆっくりとその中へ入っていく。中に入ると、蝋燭の明かりが差し込む中、誰かに迎えられる。恐らく屋敷の主なのだろうと公人は推測する。 暗がりのため、はっきりとその相貌が見えることはないが、無駄のない顔立ちの男だろうということが分かる。しかし、その相貌には陰りがある、生気が感じられない。弱ってきているのだと肌で感じるのだ。 ひとしきり、話をした後で視界が明るくなり、一瞬だけ確認できるその姿は、大刀洗によく似ていた。最後に夢の中の人物が「元直」と呟いて夢から覚めるのだ。 最初は公人も台本に影響を受けたのだろうと思っていたが、台本には描かれていないような内容も夢に出てくるようになった。 それからというものの、夢は続き、日に日に鮮明になっていくのだった。夢は、少年時代の二人の出会いから始まり、元直の父が討ち死にする件、二人の関係が、友愛から色を変えていった様を、公人に理解させた。いつ死んでもおかしくない戦乱の時代。二人は互いを生きる理由としていたのだろう。国のため、家のためといったところで、己を捨てることは誰にもできない。 公人が二人のすべてを理解したのは、本番当日のことであった。そしてこの記憶が、公人に無関係のものではないことも、悟りつつあった。  文化祭での講演は一日一回である。今公人は、最終講演の真っ最中である。そしてそれも終盤に差し掛かっている。舞台は宗禮が死の淵で、元直と再会を果たす場面である。 「まだ、こちらに来てはならんと言うただろう!」 「殿。少しは弟君を信用して下さいませ。確かに弟君は貴方と違い、決断が遅いだが、堅実だ」 「何だ、随分な言い方ではないか」 「弟君には、もう私は不要です。そして何より……私が君に会いたかった」 「宗禮!」  初回講演から急遽追加された、元直からの抱擁。急遽追加というか、アドリブであった。当初の筋書きと少し変わってしまい、初回時、公人は狼狽した。急な立て直しが必要になった点と、その腕の力強さ。  今回も、同じようにその強さを知ることになった。公人としては、講演をこのまま終わらせてもよかったのだが、どうしても言ってやりたいことがあった。 「もう、今度は離さないでください」 「なっ……」  我ながら何を言っているのか。公人は、頬が熱くなるのを感じた。それだけなら、まだよかったのだが、舞台が暗転する瞬間、少しだけ見えた光景。朱を刷いたような大刀洗のその頬とその顔に浮かんだ笑みを見たら、いたたまれなくなってしまった。  講演を終え、衣装を着替える間もなく、公人はホール内の人気のない場所に座り込んだ。本当は、この衣装から着替えて片付けに行かなければならないのに、こんな状態ではそれもできない。講演後、歓声を受け、気持ちが昂ることはこれまでにもあった。 しかし、今回のこれは、今までの何とも違った。二度の抱擁を受け、思い知らされた。この感情。何故、第三者の記憶が自分の中に眠っているのか分からない。しかし、この記憶は間違いなく真実である。胸を燃やすこの衝動も、間違いなく事実である。  公人は自分の肩を抱き寄せた。震える自分の手では、かえってあの抱擁の力強さを思い起こしてしまう。  あの人は何なのだろう。これまでに出会った誰とも違う。ようやく会えた。毎日のように顔を会わせていた相手に対しての感情としては、おかしい。これではまるで、恋い焦がれているようではないか。恋なんて、公人は自嘲した。 喪う事が恐くなるだけ。喪うって誰を?今度は自問する。いつも、人とは付かず離れず付き合って来た。これまでの生涯の中で、恋い焦がれるほど、誰かを想った事なんかなかった。 「探したぞ」 後方から声がした。振り向かずともわかる。ほんの一時間前に抱擁を交わしたばかりの相手。耳元で囁いた声の主。 公人は、何とか振り返り、平静を装おった声色で返す。返したつもりだった。 「すみません。片付けに、行きます」 「そんな惚けきった顔じゃ、行かせられない。というか、俺が行かせたくない」 惚けきった。公人も自身の肌が上気しているのは、自覚している。そして目の前には、熱を帯びた視線を向けてくる男がいる。 「公演が終わると、こうなるんです」 「下手な嘘だな。お前もう思い出したんじゃないか。じゃなきゃ、あんなこと言わないだろ」 距離は変わらない。太刀洗が近寄る度に、公人が後退りしているからだ。 「あれは、役柄上そういった方がいいと思って」 「俺以外に聞こえないような小さな声でか?お前が通る声をしているのは、知っているぞ」 間合いが一気に詰められた。これ以上近づかれたら、どうにかなってしまうのではないかと公人は怖くなった。 本当は、わかっている。これは恐怖ではなく、所謂甘い戦慄というものだということ。引き寄せんと言わんばかりの勢いをもつ男に、喜びを感じていることに。 これが宗禮の記憶のせいなのか。 公人は、頬に手を当て、視線を反らす。赤くなった顔を気づかれないようにしたかった。刹那、そうはさせないと言わんばかりに壁に押し付けられる。もう、公人には逃げ場は残っていなかった。太刀洗は壁についた手とは反対の手で、公人の肩を掴む。 「思い出したというのかよく分からないんですけど、確かに自分じゃない誰かの記憶があります。気づいたのは、最近です」 「俺がそうさせたからな」 「どうして」 「俺は昔から記憶があって、探さないといけない誰かがいるってことは、分かっていた。でも、それが誰なのかは分からなかった。もどかしい想いだった」  重荷を背負わせてしまった人がいた。孤独にしてしまった人がいた。そんな大刀洗の後悔の念が公人には読み取れた。 「だから、大学でお前を見つけた時、こいつだって衝撃が走ったよ。お前は、多分あの頃は分かってなかったと思うがな。とりあえず、こいつを逃がしたら駄目だと思って声かけた」 「記憶がない頃も、人とは深く付き合わないようにしていました。今思い返してみたら、親しくなるのを避けていたんでしょううね。宗禮の記憶が。辛い別れを迎えたくないから…」 「今度はもう置いていかない」 馬鹿な話だ。そんな保証はどこにもない。だが、公人はその言葉をずっと昔から待っていたような気がした。 「どうしてくれるんですか。もう、ただの先輩として見られなくなりました」  公人は目の前が猩々緋に包まれて、後はもう何も考えられなくなってしまった。  あれから二週間が経つ。  既に二人の関係は所沢に感づかれてしまったが、それ以外には秘められた関係である。  いくら多様性の時代とはいえ、まだまだ大々的に周知できる関係とは言えない。  ただ、それでもこの距離感をずっと保っていたいと公人は感じている。今も公人は大刀洗の部屋で次の講演の打ち合わせをしている。以前と違うことは、体が触れ合う機会が増えたことだろうか。  そして不思議なことにあの夢は全く見なくなった。

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