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第1話

 ぞわり、と総毛立つような感覚があった。  ここ数日体調が良くないと思っていたのは前触れだったらしい。下腹が熱くなり、全身が汗ばんでくる。――――よりにもよってこんな時に! 「瑞貴さん、どうかされましたか」 「……いえ、会場が少し暑くて」  かけられた声に、何とか平静を装う。暑いと感じているのは嘘じゃない。意識した途端、体が内側から火照り始めた。腹の底でどくどくと脈打つように、それは今も勢いを増している。  すぐにでもここを飛び出したいけど、そうはいかない。今日は大事な個展の初日だ。  三條瑞貴が投資家としてだけでなく、油彩画家としても充分な才能を持つことを示す大切な日だ。しくじれば、今まで世間にアルファだと思わせてきた努力が水の泡になる。  僕がオメガだという事は、三條の名にかけて絶対に知られてはならなかった。  僕が自分の性別を知ったのは、二十歳をいくつか過ぎてからの事だった。  三條家は元々アルファが多く出る家系で、現当主である父を除いて歴代の当主はすべてアルファだ。幼い頃の僕は、ベータの父が当主の座を継いだことに反発し、早く成人して家を継がなければと本気で思っていた。周囲も僕を次期当主として扱ったし、僕自身も自分がアルファであることを疑いもしていなかった。  けれど、成人した僕を襲ったのは、オメガ特有の獣のような発情期だった。  父からは三條の生き恥だと罵られ、絶縁された。手切れ金のように与えられた資金を元に、投資家として身を立て、発情期に姿を隠す口実を作るために、絵を始めた。  アルファは多方面で才能を発揮するものが多い。僕は世間にアルファだと思わせるために、投資家としても画家としても、成功し続けなければならなかった。家を追われたとしても、三條の名に泥を塗ることは僕自身が許せない。  その大事な個展の初日に、まさか発情期が来てしまうなんて。  けれど、まだ一日目で良かったのだと思うことにしよう。これが二日目以降なら、とてもこの場に居られはしない。体中から発散される匂いがアルファを引き寄せてしまう。今も少しは漂うだろうけど、まだ匂いは薄いはずだった。  汗ばむのを誤魔化しながら来賓と挨拶を交わす僕の目が、歩み寄ってくる懐かしい顔を捕らえた。 「兄さん、個展おめでとう」  弟の怜斗だ。三つ年下の異母弟は、野性的な顔に人懐こい笑みを浮かべてやってきた。 「今度も大作がいくつかあるんだって? ちょっとだけ案内してもらってもいいかな」 「いいよ、少しだけなら」  僕より頭半分背の高い怜斗は、大学を出たばかりとは思えないくらい落ち着いている。それにまた少し逞しくなったようだ。スーツ姿も格好いい。  何気なく目を覗き込んでくる弟に背を向けて、僕は先に立って案内した。 「花を用意してくれてありがとう。絵の雰囲気にぴったりで嬉しいよ」  会場のあちこちが落ち着いた色合いの装花で飾られているのは、今年事業を始めた怜斗の手配だ。事前に絵の写真を送りはしたけど、予想以上の仕上がりだった。厳しい題材が多い僕の絵を、清楚な花が引き立ててくれている。 「どんな花にしようか相談したかったのに、兄さんが全然家に寄りつかないから困ったよ。でも喜んでもらえて良かった」 「感謝してるよ」  屈託なく笑う弟とは、元々そんなに仲が良かったわけじゃない。僕とは母親が違うし、僕の背を追い越して大人びていく弟を、あまり可愛いとは思えなかった。  でも今は大事にしたいと思う。  母親が後妻だったことと、優男の多い三條には珍しい、精悍な顔立ちや体つきから、怜斗は悪く噂されることもあった。けれど、家を継いで当主となれるのは、今はもうこの怜斗しかいない。 「――――この狼、凄くいいね。好きだな……」  この個展のメインとなる絵の前で怜斗が足を止めた。  雪原でただ独り虚空を臨む狼――――これは、僕自身の投影だ。美しく残酷な世界の中で、頼るべき仲間も道標も見いだせず、孤独のまま佇んでいる。やがて訪れる寂しい死をただ待つばかりの狼は、それでも前を向き顔を上げていた。孤独だが、誇りを失ってはいない。  怜斗は漆黒の目で、射抜くように狼を凝視した。 「兄さんに、少し似てるね……」  けれど、そんな風に言われると胸が痛くなってしまって、絵を見上げる弟の横顔から僕は視線を逸らした。 「――――アトリエへ……!」  秘書の楠が用意した車に乗り込むなり、僕は自分の体を抱いてガタガタと震えだした。人に知られないように抑え込んだ反動で、お腹の中が掻き毟りたいほどに疼く。早くこの熱をどうにかしなくては、頭がおかしくなりそうだ。  父以外でたった一人全ての事情を知る楠は、何も言わずに車を飛ばした。  楠はベータだからいい。あの個展の場に、もしもアルファがいたらと思うとぞっとする。まだ盛りの始めとはいえ、匂いを嗅ぎつけられたかもしれない。そうなれば僕も三條の家も破滅だ。 「……早く……ッ」  後部座席で身を捩る。急かしてもどうにもならないことは分かっているけど、もう限界だった。  楠はミラー越しに僕を見ると、運転席との間の仕切りを下ろした。僕はプライドと焦燥感を秤にかけ、肉体が求める衝動に負けた。 「あ……」  首筋から身体を撫でおろす。盛りが来ると体中が敏感になって、感じやすくなる。胸や脇腹を擦っていると、熱がそちらに逃げるような感覚がして少しは楽になった。 「は……ぁ」  そのまま脇から下腹に手を滑らせ、両足の内側にも触れた。ズボンの前が窮屈になっている。でも、まだここには触れられない。 「早く……早く……」  吐息から熱を逃がしながら、譫言のように呟いた。早く獣になりたい、と。  都心から二時間とかからない場所にアトリエはある。山を強引に切り開いて建てた別荘で、近くには民家一つない。その寝室へ飛び込むなり、僕は着ているものを全て脱いだ。 「あ……あ……ッ」  足の間を探ると、後ろの口からもう分泌液が滲み始めていた。後孔に指を入れると、隙間から溢れ出たそれが腿を伝って落ちていく。この発情期特有の粘液はアルファを誘うフェロモンだ。 「う……んんっ……!」  僕は床に膝をついて、指で入り口を解した。腹の中に溜まった粘液を出してしまわなければ苦しい。  お尻に指を入れていると、前のものが硬く張りつめてきた。いつもならこれを慰めれば終わりだけれど、今は違う。一旦発情してしまえば、この肉体が求めるのはアルファに抱かれることだけだ。 「あ、ぁあ!……犯し、て……」  外では決して口にできない望みを、僕は薄暗い寝室の壁に向かって叫んだ。 「僕の……僕のお腹に、種付けして……」  切なる願いに、答える声は勿論ない。僕は答えを求める代わりに、自分の二本の指を深々と体内に埋めた。内側の壁に沿って入れた指を開くと、弾力のある柔らかい肉の間から、粘液がドッと溢れ出て手を濡らした。すごい量だ。  普段は閉じたままのここは、年に数回の発情の時だけ裂け目ができる。その奥には子宮があって、アルファを呼び寄せるための粘液を次から次へと溢れさせていた。 「あ!……気持ち、いい」  裂け目の内側に少し指を入れただけでも体が跳ね上がる。この中はすごく敏感で、普段の自慰で得られる快楽なんて比べ物にもならない。もし、ここに本当にアルファを受け入れるようなことがあれば気が狂うのじゃないかと思うほどだ。 「中まで入れて……あ、あ!」  指を根元までお尻に入れて子宮の入り口を撫でるだけで、ゾクゾクする快感が背筋を走った。もどかしくて、狂おしい。発情の熱は年々強くなって、今やもう僕の肉体はオメガとして成熟しきっている。番いとなるアルファを求め、芳醇な蜜で相手を呼ぶ。でも、僕に許されているのはここまでだ。  誰にも知られるわけにはいかない。三條の家にオメガが紛れ込んでいたという事は。  僕にできることは、盛りが来るたびに独り自分を慰めることだけだ。誰とも添わずに、死ぬまでたった一人。――――寂しくて辛くて、どうにかなってしまいそうだ。  いっそアルファを誘惑してしまおうか。  この発情の匂いを振り撒いて街へ出よう。田舎町でも一人ぐらいのアルファはいるはずだ。それが誰だっていい。名も知らない相手に純潔を捧げる。番いの印を刻みこまれて、繋がれてしまいたかった。  そうすれば、この地獄のような発情から解放される。 「誰か……!」  壁に向かって声を振り絞った。何を言ってもかまいやしない。どんなに叫んだって誰にも聞こえないんだから。 「誰か、抱いて……僕を番いに、して……」  泣いても喚いても、誰も来ない。このアトリエの事は、秘書の楠以外は誰も知らないから、来られるはずがない。  ――――個展会場から後を追ってきたアルファがいない限りは。 「兄さん」  気がつけば、寝室の入り口に大きな影があった。そこにあるはずもない人影。僕はそれを呆然と見つめた。  息苦しそうにネクタイを緩める仕草が荒々しい。上着を投げ捨てて近寄ってくる相手から、僕は怯えたように後退った。 「来るな」  オメガの発情に遭遇したアルファは、文字通り目の色が変わる。獲物を狙う狼のように、いつもより大きくなった瞳孔が光を弾いて鈍く金色に光るからだ。  僕は、生まれて初めてそれを現実に見た。 「……来るな、怜斗」  余り背の変わらないはずの弟が、恐ろしいほど大きく見えた。力の入らない体で逃げようとするけど、腰が抜けたようになって足が滑る。 「……来ないで」  僕の制止の言葉など聞こえもしないように、怜斗はシャツを脱ぎながら大股に近づいてきた。 「嫌……だ!」  ついに目の前に来た怜斗に腕を掴まれた瞬間――――その目が持つ金泥の輝きに、オメガの僕は逆らえなくなった。  怜斗は物も言わずに僕の上半身をベッドの縁に投げ出すと、すぐに後ろから挑みかかってきた。 「あ!……やッ!」  両手で腰を掴まれ、後孔に昂ぶりが宛がわれた。力づくで犯される恐怖に僕は叫んだ。 「やめて、怜斗! 嫌だ……!」 「やめるものか……!」 「!……やッ……」  悲鳴を上げる僕の体を怜斗は容赦なく引き寄せ、猛々しい肉棒で抉じ開けていく。そして一旦収まったところで体の角度を変えた。 「ヒィッ!」  指先でそっと撫でるだけでも堪らなかった場所に、雄の先端が押し当てられた。入り口を確かめるように、前後に擦られる。体中に甘い痺れが走って力が抜けていく。  崩れ落ちそうになりながら、僕は哀願した。 「許して、そこは……僕はまだ処女……なんだ」  オメガは処女を奪った相手に隷属する。肌を合わせて番いとなれば、生涯その相手以外に心も肉体も許すことはない。  弟の怜斗にだけは触れられるわけにはいかなかった。なのに――――。 「……知ってるよ。だからここに来たんだ。兄さんの番いになるために」 「ぁあっ……!」  蜜を溢す肉の裂け目を割って、アルファの逞しい雄がめり込んできた。  声を上げることも出来ない。背骨の下から立て続けに電流が駆け上がってきて、頭の中で何度も爆発する。弾けるたびに総毛立つような快感。目の前が真っ白になって、体が浮き上がる感じがする。  呼吸さえできないこの時間が一体どれほど続いただろう。何分にも感じるほど長く思えたけど、実際には瞬きするほどの間だったのかもしれない。  拡げられた両脚の間に熱い体がぶつかるのが分かった。僕の処女膜は破られ、根元まで深々と収まったアルファの雄がそれを貫いていた。 「処女開通だ。……瑞貴」  背後から覆いかぶさった怜斗が、僕を名で呼んだ。 「あぁ……」  その言葉を聞いた途端、腹の底から熱の塊が押し寄せてきて、僕は咽ぶように叫んだ。  熱い。腹の底に大きな熱溜まりでもあるみたいだ。それはうねりながら大きくなっていく。津波にも似て、何度も何度も押し寄せてくる。押し寄せるほどにそれはどんどん大きくなって、僕の肉体を支配する……! 「動くよ」 「やぁ……ッ!」  止めてくれと、言う間もなかった。身震いするような感触とともに退いていった凶器が、またすぐに奥まで押し入ってくる。奥を突いて、捏ねまわしては退き、また入ってくる。くちゅくちゅと濡れた音が、僕の耳を犯す。  怜斗が腰を打ち付けるたびに子宮の入り口がこじ開けられた。指で撫でただけでも叫びそうなほど気持ちいい場所を、怜斗の雄が乱暴に、我が物顔で蹂躙する。 「やっ……嫌、嫌だ……やめて!」 「瑞貴は嘘つきだな。こんなに吸い付いてくるのに、嫌なはずがないだろう」  怖ろしさを覚えるほどの快感に叫んでも、怜斗は手加減してくれない。いやらしい音を立てながら、入り口から奥の奥まで執拗に掻き回す。  何度もそうされるうちに、拒絶の言葉が啜り泣きになり、次第にあられもない悦びの声へと変わっていくのを、僕はもう止められなかった。 「ぃい!……あ!あ!もっと、もっと奥まで……種付け、して……いっぱい、して……!」  獣のように淫らに腰を振って精子を強請る。これはオメガの本能だ。そして、アルファも――――。 「……俺の子を、孕め……ッ!」  押し殺した呻き声とともに、怜斗が体を震わせて僕の体内に欲望を迸らせた。  指先まで痺れる感覚がして、震えが止まらない。呼吸するのがやっとの体を、怜斗が抱きかかえ、ベッドの上に寝かせてくれた。  僕を見下ろす怜斗の瞳は、まだ鈍く光を弾いている。精悍さを増した顔つきは、成熟して交配期にあるアルファ特有のものだ。  怜斗はアルファだった。  ならば、怜斗は家を継ぐために妻を娶らなければならない。三條家に相応しい血筋の妻を。 「……駄目、だ」  口づけしようとする怜斗から、僕は顔を背けて逃げた。 「兄弟で番いになるなんて、正気じゃない……」  僕がオメガで怜斗がアルファなら子供ができる。僕と怜斗とは母親が違うけど、それでも兄弟であることに変わりはない。それは禁忌だ。 「もう遅いよ。瑞貴の処女は俺が貰ったんだから」  怜斗が僕の足の間を拭って、その指を目の前に突き付けた。破瓜の血が混じった薄紅色の蜜。それを見て僕は唇を噛み、首を横に振った。処女を奪われた僕は怜斗以外を番いに迎えることはできないけど、怜斗は違う。僕の事は忘れて、好きな相手を妻に迎えることができる。それが三條の家の為だ。 「嫌だ。お前とは、番いにならない……」 「嫌だって言っても、もう俺を拒めないよ。瑞貴は」 「あ……」  拒む僕の両脚を開いて、怜斗が体を割り込ませてきた。僕の拒絶なんて無意味だと示すために、凶暴なアルファの雄がもう一度体の中に入り込んでくる。  怖くて、けれど泣き出しそうなほど心地よくて、僕は震える手で怜斗の腕に縋った。  この腕に抱きしめられたい。もう一時も離れたくなかった。あんなに寂しくて辛い夜にはもう耐えられない。  それに応えるように、腫れあがった蜜壺の中をアルファの雄が優しく掻き回す。 「あぁ……あ、んッ……気持ち、いい……」  番いのアルファに愛されて、腰から下が蕩けてしまう。甘えと媚びを含んだ喘ぎを漏らす唇に、今度こそ怜斗は喰らい尽すようなキスをした。 「綺麗で頭のいい瑞貴。子供の頃からずっと好きだった――――血の繋がりがないと知ってからは尚更だ」  何を、言っているのだろう。  涙でぼやける視界に、狼にも似た怜斗の貌が滲んで映った。怜斗の金の目が、確かめるように僕の目を覗き込んだ。 「俺の本当の父親は、母が火遊びをした行きずりの男だ。だから三條の血を継ぐ子は瑞貴が産むしかない。俺の子を、産むしかないんだよ」 「怜斗……?」  囁きは優しかったけれど、言葉の意味は頭に入ってこなかった。  女のように足を開かれて、昨日まで弟だと信じていた男に犯される。望んだことではないはずなのに、体中が幸福と喜悦に満ちている。  成熟を過ぎた体は快楽を貪り、揺さぶられるほどに甘い悲鳴を上げ、――――待ち望んだアルファの精を疼く子宮に受け止めた。  鏡の前で支度をする。新しいシャツに袖を通し、ネクタイを手に取った。  鏡を覗き込んで僕は気付いた。虹彩の部分が赤みを帯びている。――――オメガの婚姻色だ。処女を喪い、特定のアルファのものとなった証。  これが現れた以上、もうオメガであることは隠せない。 「準備はどう?」  車の用意をしていた怜斗が戻ってきた。僕の手が止まってしまっていることに気付いて、ネクタイを取り上げ結んでくれる。向かい合った怜斗は僕の目を覗き込んだ。 「綺麗だ、その色」  優しい微笑みを浮かべると、背を抱き寄せて、瞼に口づけた。  僕は上を向いて怜斗の唇を強請った。怜斗が甘く唇を吸ってくれる。それだけでは足りなくて、不安を紛らわせるように、自分から舌を深く絡ませに行った。  長いキスを終えると、怜斗は安心させるように肩に僕の頭を押し付けた。 「……心配しないで。瑞貴の事は俺が守るよ」  抱きしめられると温かさにほっとする。いつの間にか怜斗は僕よりずっと逞しくなっていた。僕の体は怜斗の腕の中にすっぽりと納まってしまう。鼻を擽るのは、番いとなったアルファの匂い。  怜斗が僕に囁く。 「瑞貴。今度は群れで暮らす狼を描いてよ。俺たちの家族の絵を」  静かな声が耳に心地良い。発情期は終わったはずなのに、体の芯にじんわりと温かい熱が点る。承諾の証に、僕は目を閉じて怜斗の体に凭れかかった。  僕はもう独りじゃない。アトリエで過ごす寂しい夜は、もう終わりだ。  雪原を駆けていく狼の群れを思い描き、僕は下腹に両手をそっと当てた。

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