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人殺し

 ダラスは知っている。ルカの一番にはなれないことに。それでもルカを愛するのは、彼が一人の女性を心の底から愛しているからだ。 「坊やは、今日も来ないのね」  寝間着姿のその人は、寝台から体を起こし弱々しくダラスに微笑みかけてみせる。  ここはルカの実家だ。ロンドンの中心街にある一軒家にルカは母親と二人で暮らしている。高級娼婦を営んでいたという彼女は病から足を洗い、今では療養に勤める毎日だ。  パトロンに世話してもらったこの家で、彼女はルカと長年生活を共にしていた。  ダラスはそんな彼女に苦笑を送り、言葉をはっする。 「あいつには、用があるんです。大切な用事が」 「坊や、最近は学校にも行っていないの。血がつながってないとはいえ、少し甘やかしすぎたかもしれないわ」  ルカの母親であるはずのその人は、そっと青白い顔に手をあて思案してみせる。ルカを思い伏せられる眼は美しい銀色。彼女の顔を取り巻く髪も、ルカのそれを想わせる見事な銀髪だ。  容姿もルカのそれととてもよく似ている。それでも、彼女はダラスに言った。ルカは自分の子でないと。  こんなにもそっくりなのに、彼女はルカを実の子として認識していない。正しくは、認識できないのだ。  それが彼女の病でもある。彼女はルカを実の子供ではなく、養子だと思い込むことで心の均衡を保っているのだ。 「早く帰ってきてほしいわ。私の坊や。もうすぐ、夏休みになるんですもの。あの子と一緒に、温泉地のバースにいって療養に努めようと思っているのよ。あの子も、暗い霧がけぶるロンドンより、素晴らしい自然を満喫できるバースの方が、のびのびと創作ができると思うの」  そっと両手の指を組み、彼女は微笑んでみせる。そんな彼女を見つめながら、ダラスは眼を伏せていた。  ルカは、おそらくこの家にはもう戻らないつもりだ。あの男との交渉がどうなったとしても、ルカはこの人の前から姿を消す。   世界で一番愛している母親の前から。  彼女を苦しめているのは、ルカの存在そのものなのだから。  悪魔とルカが形容する男にも名前はある。風紀改善協会の会長にして、ボウ街の判事とも繋がりの深いその人は、名をクリストファーといった。その容貌は穏やかそのもので、中世的な美しい外見は見るものを魅了する。  子であるルカの前でもそれは変わらず、彼はルカつけ毛のついた銀髪をゆらしながら、微笑んでみせた。 「我が子ながら、お前は本当にすごいものを描くね。ルカ」  ここは閉められた駒鳥亭の一室。一心不乱に絵筆を走らせるルカの背に、クリスはにこやかに声をかける。そっとルカは絵筆をとめて、自分が描いていた壁画の悪魔に視線を落とした。  角の生えた悪魔は地下の地獄に押し込められ、そこから羨望の眼差しを天へと至ろうとする天使と幼子に向けている。その悪魔の要望は、ルカの背後にいる父親と瓜二つだった。にっとルカは微笑んで、そんな父へと体を向けていた。 「お久しぶりです。お父さま。ダラスがお世話になっているみたいで」 「母さんから聴いたよ。学校をサボって、ここに入り浸っているそうじゃないか。芸術もいいが、それだけではお前は食べていけない。分かっているだろう」 「だから、僕の身を穿ったの……。あなたのその無慈悲な剣で……。悪魔すらも恐れる存在になれと……」 「私は、恐ろしいものを生み出してしまったようだ……」  すっと眼を細め、ルカは自分を犯した父親に問いかけていた。そっと悪魔の絵を見つめながら、モデルになった人物は苦笑する。 「想像以上だよ、ルカ。お前は私たちの血を本当によく受け継いでいる。お前は私の最高傑作だ」  そっと彼はルカに歩み寄り、その顔に満面の笑みを湛えていた。ああ、本当にこの男は悪魔だとルカは思う。  実の妹を犯し、自分を孕ませた悪魔だと。その子供さえ犯し、心を患った妹の面倒を平然と見る外道。  父である悪魔が、ルカの髪をそっとなでる。不快感を覚えながらも、ルカは銀の眼を細め、男に微笑んでみせた。 「どうして、僕を犯したの?」 「ルカ……。愛しいルカ……。私は、お前のためにお前を犯したんだ。美しいお前が、花開けるように……。つまらない女の情欲に染まらないように……。そして、ああ、お前は、本当に素晴らしい芸術を生み出す最高傑作になった」  そっとルカと同じ銀の髪をかきあげ、感嘆と潤んだ眼をクリスはルカに向けてくる。ルカはそんな父親を見つめながら、笑みを深めてみた。 「つまり、あなたはどうしようもない変態ってことでいいのかな?」  ルカの言葉に、男の笑みが掻き消える。そんな男を見すえ、ルカは手に持った拳銃を男に向けていた。 「ルカ、何だい、それは……」 「死んでクソ親父!!」  満面の笑みを浮かべ、ルカは父であるその男に向け銃を撃っていた。  ルカは戸惑うことなく銃の引き金を連続して引く。ルカの拳銃から放たれた弾丸は、男の体に被弾し、男は弾丸が当たるたびに体をゆらす。銃が玉切れになると同時に、男は床に頽れ、ルカは使い物にならなくなった拳銃を床へと落としていた。 「以外に、あっけないな。人殺しって……」  ぼんやりとそんなことを呟きながら、ルカは倒れた男をつま先で蹴る。先ほどまでルカに気味の悪い笑みを浮かべていた男は、瞳孔の開いた眼でルカを見つめるばかりだ。  そっとルカはしゃがみこんで、そんな男の瞼を閉じていた。  憎かったはずの悪魔を退治しても、ルカの心には何の感慨も湧かない。 「復讐って、むなしいものだな……」  そっと父であった人の髪を優しくなでながら、ルカは苦笑を顔に描いていた。

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