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第1話

全てを投げ出すことがもしできたのなら。 三年目にしてようやくひとつ成果を上げられそうな仕事のことも。 将来を約束する縁談の話も。 あるいは全てをもっとすんなりと受け入れることができたのなら。 凪(なぎ)が外国に行くと決めたこと。 別れの時がきたということ。 仕方がないと言って笑ってしまえることができたのなら。 そうできてさえいれば、こんなに苦しい思いはしなくてすんだのに。 バルコニーには夜風が吹きこみ、冬の終わりの乾いて澄んだ匂いがした。あまりにも寒いので冷えたビールの味がよくわからない。それでもバルコニーから見える明かりの点描がほんの少しは気を紛らわせてくれる。近頃はずっと、この夜を迎えることを想像するだけでぞっとしていた。実際に迎えてしまうと、想像以上に苦しいし辛い。今更だけれど、俺があいつを愛しているのだということを実感してしまう。二人で別れることを決めたのに。もうどうすることもできないのに。 凪はニューヨークに渡って建築を学ぶという夢を選び、俺は誰が見たって順風満帆な未来を選ぶ。 それはまるで決まっていたことのように、あっさりと俺たちの前に降ってわいた未来だった。まだ二十五歳の俺には全部を投げ捨ててしまう覚悟も度胸もなかったし、全てを受け入れる器量もない。震えながらこの日を待つ以外には何もできなかった。多分、俺か凪かどちらかが女だったらよかったのだろう。そうすればきっと、こんな夜は迎えなかった。あまりにも無意味な仮定を思い浮かべながら虚しくなる。俺は男だし、凪も男だ。明日凪は日本を発ち、俺は取引先の役員の娘と見合いを受ける。確定事項だ。 「悠文(ひさふみ)さん、風邪ひくよ」 物音と共に凪の声がした。凪がバルコニーに出てくる。俺は目を閉じて、繰り返す。俺たちは別れる。俺は明るい将来を、自分で選んだ。いちいち強調していなければ負けてしまいそうになる。その言葉を大事に胸の中に据えて、俺は振り向いた。 「……平気だって」 思ったよりも強張らずに笑うことができたことに安堵する。もし風邪引いたらちゃんと看病しろよ、なんて、そんなやり取りをいつかしたこともあった。けれどまさか、そんなことは言えない。付き合い始めてから四年間、たくさんの感情をぶつけ合った。それらを急に全て押し込めなければならなくなって、別れることを決めてからは会話が極端に減っていた。 「悠文さんそう言ってすぐ風邪ひくじゃん」 「そんなことねぇよ」 「……」 心配と疑心を持った目で俺を見つめる凪に負けて、俺ははいはい、と降参のポーズをして部屋に入った。部屋の中はもう凪の荷物を失って、俺にとっては全く別の部屋になってしまったように見える。何も馴染まない。だからバルコニーにいたかった。 「オレも……ビール飲もうかな……」 窓を閉めたことで急に空間が寂しくなり、それに耐えかねたらしい凪が笑いながら言った。無理に笑おうとしているのが明らかな笑いだった。俺は溜息を吐いて飲みかけのビールを凪に渡す。もう半分以上飲んでしまったけれど、下戸の凪にはそれで十分だ。 「それくらいにしとけよ。飛行機ん中で具合悪くなったらまずいだろ」 「うん……そうだね」 落ち着かない。時計の音が気になる。俺はざわつきを必死に無視しながら、レザーのソファに深く腰を下ろした。家具は全て俺が引き継ぐことになった。最初は全て捨ててしまおうと思った。凪との思い出をすぐ傍に感じながら生きて行きたくない。けれど結局、捨てられなかった。どのみち縁談がまとまればこの部屋を出て行くことになる。それまででもいいから縋りつきたい気分になったのだと思う。凪には言っていない。俺は家具が好きだし、もったいないからと言っただけだ。凪は少し悲しそうに笑ってそうだね、と言った。 スタリンガの壁掛け時計はもう深夜といっていい時間を指し示していた。考えたくないのに、残りの時間を計算している自分がいる。 「……何時だっけ」 「え?」 「明日」 「あぁ……」 凪はビールをそろそろと飲みながら時計に目をやった。 「二時発だから……十時前には出る。悠文さんは?」 「……品川に十時半。九時半に出る」 本当は待ち合わせの時刻は一時だ。だからここを出るのは午後に入ってからで十分なのだけれど、俺は咄嗟に嘘を吐いた。凪がスーツケースを持って、永遠にこの部屋から出て行く姿を見たくなかったのだと思う。我ながら往生際が悪いとは思うけれど。 凪の出発と俺の見合いの日程が重なったのは偶然ではない。俺が先方にその日を希望した。それで少しは気を紛らわせられるし、自分で選んだのだということを実感できるような気がした。本当に弱いと思う。いつの間にか、こんなに弱くなってしまっていた。 「……そっか」 凪は小さく呟いてビールの缶に口を付けた。まだ半分近く残っていたのに、凪はいつもよりだいぶ早いペースでそれを飲んでしまったらしい。空になった缶を凪がテーブルの上に置くと、缶は小さな軽い音を立てた。 「……じゃあ、オレも九時半に出るよ」 「何でだよ」 「今、想像してみたんだけど」 「何を」 「悠文さんに見送られるオレと、悠文さんを見送るオレ」 思わず笑ってしまった俺に凪は合わせるようにして少しだけ笑った。別に何もおかしいことなんかないのに、苦しさを押し込める時、俺は笑う性質らしい。 「どっちも辛そうだから。だから、一緒に出る」 そんなことを口にされたらたちまちこっちまで辛くなってしまう。そう思ったけれど、それは言葉にはならなかった。俺は俯き、小さく溜息を吐いた。 「一緒に出よ。駅までは一緒にいられるよ」 「……そうだな」 駅までのたった十分一緒にいる時間を延ばしたところで、切なさが倍増するだけのような気がしたけれど、その申し出を断ることは俺にはできなかった。その十分にさえ縋りつきたい自分がいる。本当は凪を離したくない。 「……パスポート忘れるなよ」 「忘れないよ」 「お前結構うっかりしたところあるから心配なんだよ」 いつだったか、大事な試験の時間を間違えてあわや留年の危機に陥った時のことを思い出し、俺は言った。成績もセンスも飛びぬけていいし、料理も掃除も洗濯もこなし、性格もいい。凪は完璧だ。だから凪の時折見せる少し抜けている一面を俺は特別愛している。 「悠文さんに甘えっぱなしだったから、これからはしっかりしなくちゃ」 「……そうだな」 「…………うん」 「ニューヨーク、寒いだろうな」 「……多分、相当寒い」 「お前こそ風邪引くなよ。初日から風邪とか」 「うわ、それ笑えない」 「まぁ、放りだされたら戻ってくれば……、」 言ってしまってからはっとした。笑い声が余韻も残さずに消えていく。ここまできても、 いや、ここまできてしまったからこそ、未練にあえいでいる。自分でも呆れてしまう。凪が辛そうに目を伏せた。 「……悪い。今の、なし」 「うん」 居心地が悪い。ぎこちなさが今にも軋んだ音を立てそうだ。けれど、この時を終わりにできない。眠って目覚めたら、もう離れなければならないなんて。どうしたらいいのかもうよくわからない。 「……今日は少し、時間が経つの遅く感じるね」 凪がまた時計を見やってぼそりと呟いた。俺が就職してからというもの、一緒に住んでいても二人で過ごす時間はとても短かった。こんな風に二人で話すことは、別れ話をするまではほとんどなかったように思う。皮肉なことだけれど。顔を合わせればいつも俺は仕事の愚痴をばら撒き、凪は嫌な顔もせずに相槌を打ちながら話を聞いてくれた。思えばもう長いこと、歯車は噛み合っていなかったのかもしれない。だとすればこの切なさも、苦しさも、俺の自業自得なのだろう。 「このまま明日なんか来なければいいのに」 「……言うなよ、そういうこと」 「悠文さんだって」 「だから悪かったって。そういうの言わないって、約束しただろ」 「そうだったっけ?」 凪はとぼけて、俺のすぐ傍に身体を移し、こめかみを俺の肩に寄せた。熱の波が膿を作り出している。 「……悠文さん、覚えてる?」 「思い出話なんかやめろよ」 「いいじゃん。今日くらい」 「……」 「オレがまだ学部の二年の時にさ、二人で理想の家考えたよね。図面引いて、模型まで作った」 「……ああ」 凪はまだ二年生、俺は就活を終えた四年生の夏休みで、俺たちは暇を持て余していた。どちらが言い出したのかは覚えていないけれど、二人の希望を詰め込んで理想の家を考えた。二人でああでもないこうでもないと話し合って、家具なんかも完璧に選び抜いたりして、いつかこんな家に住みたいと言い合った。今思えばただのおままごとだ。現実的なものは何もなかった。 「あの模型、確かお前の部屋にあっただろ」 「バラして向こうに送ったよ」 「……それで、それが何」 「何ってこともないけど、ちょっと、思い出したから」 「……あの頃はよかったとか、言うなよ」 凪の言いそうなことはわかる。先手を打たれてしまった凪は苦く笑った。肩口に凪の笑い声かかかり、切ない。 「うん……あの頃はよかったなって思ったんだよ」 「……」 「悠文さんがどうしてもコルビジェのシェーズロングが欲しいとか言うから。わざわざシェーズロング置くためだけにひとつ部屋作って」 「あぁ、あれな」 それは本当に黒いシェーズロングが置いてあるだけのような部屋で、一応オーディオルームということにしたのだけれど、完全に単なる俺の趣味を反映しただけのものだった。部屋の真ん中にゆりかごのようなシェーズロング。俺はあのきれいで柔らかな曲線を持つ椅子が好きだった。 「オレはどうせなら二人で座れるのがいいと思ったのに」 「……いいだろ。リビングのソファはちゃんとそういうの選んだし、お前がどうしてもって言うからベッドルームはひとつだったじゃねぇか」 凪が笑う。今までほとんど話題に上ることもなかったような昔の出来事なのに、今は何時間か後の現実と相俟ってひどく重みのあることに感じられる。理想の部屋の話なんて、中学生のカップルでもあるまいし。それでもあの時は何も違和感を覚えなかった。とにかく暇だったし、俺は建築物と家具が好きで、凪は建築科の学生で、それは至極当然のような流れだった。 「……若かったんだよな、多分」 「今も若いよ」 「そうだけど」 「オレがもっと大人だったらよかったんだ」 凪は声のトーンを落として、小さく呟いた。多分そういうことじゃなかった。俺はその一言を飲み込んで、凪の頭を撫でた。その感触で、俺がいつもそうしていたことに気付く。 「……気持ちいい」 「何かお前の頭撫でてると犬とじゃれてる気分になるんだよな」 「何それ」 俺に身を委ねたまま凪が笑う。声のトーンが戻ってよかったと思った。二人して通夜のようになってしまったら、もうどうにもならない。少し力を入れてぐしゃぐしゃと凪の髪をかき混ぜると、凪は痛いよ、と言いながらまた笑った。 「ほら、わんって言ってみ」 「……わん」 「ばーか……っ」 笑いながら手を下ろすと、瞬間、身体を引き寄せられた。凪の匂いが、感触が、一瞬で血液を湧きあがらせる。 「……っなぎ、」 「……」 「馬鹿、離せ」 これ以上未練を大きくしたくない。だから最後の夜だけは凪に触れないと決めていた。それは多分凪だって同じはずだ。 「凪、離せよ」 「……」 「凪!」 声を大きくしても、凪は一瞬身体を震わせただけで俺を抱きしめたまま動かなかった。どうにか凪を引っぺがそうともがいたけれど、凪の強固な腕を解くことはできず、俺はやがて諦めて力を抜いた。溜息が零れる。 「……凪」 「……」 「なーぎ、何か言えよ」 凪はどうやら必死に泣くのを堪えているらしかった。俺に顔を見せないように体勢を変えて、正面から抱き直す。ぎりぎりと胸が痛むのを感じながら、俺は凪の背中に腕を回した。正真正銘、これが最後だ。 「おい、凪」 「――……かな」 「え、何?」 「……いつか……忘れられる日が来るのかな……」 「凪……」 「オレは毎日英語と格闘して、図面とにらめっこして。悠文さんは毎日会社行って、綺麗で優しくて料理のうまい奥さんもらって…その内子供なんかできちゃったりして……」 「……、」 「そうやって毎日過ごしてるうちに……いつか消えてくれるのかな。あの家の模型みたいに……ばらばらにして……コンパクトになって……気付いたら忘れてるのかな。楽しかったことも、辛いのも苦しいのも……全部……それでいつかは…何も感じなくなるのかな……」 ぽつぽつと凪が紡ぐ言葉は、まるで真冬の海のようだと思った。冷たくて悲しくて、俺の胸を熱く疼かせる。 「……っ」 俺は耐えられなくなって凪の身体を押し退けた。込められていた力が幾分抜けていたせいか、凪は思ったよりも簡単に俺から離れた。まだ抱きしめられているかのような感触と温もり。今すぐ全て取っ払ってしまいたい。 「……ごめん」 「……」 「ごめんね。ついて来いも、待ってても言えなくて……ごめん……」 「謝ってんじゃねぇよ……」 凪から一緒に行こうとか、そういう類の言葉がなかったのは事実だ。オレ行くよ。その一言だけ。けれど俺だって凪を選ばなかったのだから、お互い様だ。凪が責任を感じることはない。こうするしかなかった。凪が夢を捨てられないことを俺は誰よりもよく知っているし、俺だって仕事も将来も捨てられない。 俺たちはそれきり、無言になった。身体は一定の距離を持って、時計の音だけが現実を保っていた。俺はもう、何も考えられなかった。 旅立ち日和の、お見合い日和。皮肉でも言いたくなるような快晴の朝だった。結局二人とも動けずに一睡もしないまま朝を迎えて、一緒に簡単な朝食を摂った。いつも通りの方がいいと無意識に思ったのかもしれない。食事の間も会話はほとんどなかった。 支度を済ませて二人で一緒にマンションを出て、まだ人通りまばらな道を駅に向かって歩き出す。日曜の朝はいつもこんなに人が少なかったのだろうかと思うほど人気がない。静かで、時折鳥のさえずりが聞こえてきたりして。それは完璧な休日の始まりのようだった。最後の十分には悲しすぎる。 「――いい、天気だね」 マンションを出て数十メートルというところで、ようやく凪が口を開いた。白い息が空間に浮かぶ。 「……ああ」 俺はゆっくりと頷いた。 「日曜の朝に二人で歩くのなんて久々だ」 「……そうだっけ」 「そうだよ。悠文さんいつも昼まで寝てるから」 「……起きられねぇんだよ」 「これからはちゃんと一人で起きてよ」 凪の声の合間に俺の皮靴がアスファルトを叩く音と、凪のスーツケースが転がる音がする。凍えるような寒さと、柔らかな日差しと、硬質な音。 「…………二時……って言ったっけ」 「うん?」 「飛行機」 「ああ……うん、そう。二時」 「こんなに早く空港行ってどうすんだよ」 「……うん……まぁ、ロビーで本でも読んでるよ」 「そ……」 他愛ない会話の淵からすら、最後が漂っている。気を張っていないと逃げだしてしまいたくなる。自然と歩調は遅くなっているのに、駅はいつも通りすぐに視界に入ってきて、俺は最後の気力を振り絞る。毎日行き来しているこの道が、今日は今までで一番近く感じられた。昨日の夜、時間が経つのを遅く感じたのが嘘みたいだった。 「……悠文さん」 「え……ああ……」 俯けていた顔を上げる。もう俺たちは別れの場所に立っていた。俺はJR、凪はメトロの駅へと向かわなければならない。凪は、俺が何か言うのを待っているらしかった。何かって。何も思い浮かばない。頭が真っ白だ。 「……道中……、気をつけて」 「はは。バスガイドさんみたい」 凪が笑う。朝の光に照らされて、凪の笑みはいっそう柔らかく印象的に俺の目に映った。 「……じゃあ――」 「悠文さん」 「……何」 「最後に、キスしてもいい?」 俺の返事を聞かずに、凪は俺の腕を引っ張ってキスをした。こんな道端で、人もいるのに。いつもなら間違いなく怒るけれど、さすがに今はそんな気が起きない。触れるだけの軽いキスをして、凪は微笑んだ。 「忘れてね」 「……何?」 「オレのこと。忘れて」 意味がわからなくて、俺は思わず笑ってしまった。 「……お前を……どうするって……?」 「忘れて。全部。なかったことにしていい」 「……そんなの……無理に決まってるだろ。勝手なこと言うな」 「最後だから、オレの我儘聞いてよ」 「ふざけんな」 「お願い、忘れて。じゃないとオレ、耐えられない」 凪の真剣な声は、心に辛辣に響く。俺は涙が滲むのを必死で堪えた。 「今まで本当にどうもありがとう。いつまでも元気で」 「……っ」 「さよなら」 凪はそう言って微笑み、俺に背を向けた。そのまま早足で遠ざかっていく。凪も涙を堪えていたことは、わかっていた。けれどお互い寸前のところで堪えられてよかった。どちらかが泣いていたら、きっと離れられなかった。 終わってしまった。全て。 俺は呆然とその場に立ち尽くし、凪の背中が消えるまでそれを見ていた。大好きな凪。 「……忘れろって……何だよ……それ……」 馬鹿馬鹿しくて涙が出る。 忘れられる日が来る? あの模型みたいにばらばらの部品になって? 本当に馬鹿馬鹿しい。 その日、俺は泣き腫らした目をどうにかするために見合いの席に遅刻をした。仲人の部長は不満そうだったけれど、先方は心配して俺を病院に連れて行こうとしてくれた。 時刻はちょうど二時。俺は目を閉じて、ほんの短い時間、凪のことを思った。泣くのはこれで最後だ。そう誓いながら。 ――八年後。 日曜日の本屋は混み合っていて、人混み嫌いの俺は気を重くしながらも購読している雑誌を数冊、表紙も見ないで平積みの山から持ち上げた。一応中身の確認だけはしておくか、と思いページを開きかけると、とたとたという落ち着きのない足音がして、すぐ傍で止まった。 「パパぁ」 雑誌を閉じて振り返る。息子の祐斗が絵本を必死に抱えてにこにこと笑みを浮かべていた。絵本コーナーはこの雑誌コーナーのすぐ裏にあった。 「祐斗、決まったのか」 「うん。これとこれぇ」 「あれ、一冊って約束したろ」 「えー」 「えーじゃない。昨日ママにも買って貰っただろ」 祐斗はぶすっと顔をしかめて、じとりと俺を見上げた。会った人間皆から父親そっくりだと言われる所以は、こういうところにもあるのかもしれない。 「……そんな顔してもだめ。昨日買ってもらった本まだ読んでないんだろ」 「きょう、よむもん」 「じゃあ、それ読んだらまた買ってやるから。今日はどっちかにしろ」 「……でも、どっちもほしいもん」 「だめ」 「……いじわる」 「あっそ。そんなこと言うなら買ってやらない。返してこい」 「えっ」 「パパは意地悪だからな」 雑誌を片手に抱えそう言うと、祐斗はじわりと目の端に涙を滲ませ身体をふるふると震わせる。俺は途端に慌てる。皆からは甘いとたしなめられるけれど、俺はとにかく息子に甘かった。 「っひ……うぅ~……」 「う……」 「……っえぇ~…」 「わ、わかった。祐斗ごめん。泣くな。意地悪言って悪かった」 「だってぇ……これぇ……パパにこんどかってもらいなさいって……ママがいったぁ……」 「わかった。わかったから、泣くな。両方買ってやるから」 どこの子供もそうなのかもしれないけれど、祐斗はとにかく、一旦泣き出すとかなり大変なことになる。合唱部出身の母親に似たせいかは知らないけれど、声もかなり大きい。 「……っう……ほんと……?」 「ほんとほんと。ほら、レジに行こう」 俺がそう言って祐斗の抱えている絵本を二冊、雑誌に重ねた。祐斗はころりと表情を変えて、へへ、と涙混じりに嬉しそうに笑みを浮かべる。負けた。きっとまた奥さんに注意を受けるだろう。俺は活かされた試しのない反省を心の中でしながら、本をレジへと持って行った。祐斗が自分で持ちたいと言ったので、絵本と雑誌は別々の袋に分けてもらった。 「祐斗、パパが二冊買ったこと、ママに内緒にしろよ」 「はぁい」 本屋を出てから祐斗にそう言うと、祐斗はわかっているのかいないのか、ご機嫌でそう返事をした。音符のマークが飛び出しそうなほどの上機嫌に、まぁいいかと思ってしまう俺はやっぱり反省を活かせていない。 「パパ、ぼく公園行きたい」 「でもママがおやつ作って待ってるぞ」 「あとでー。ご本よんでー」 「あぁ、そういうことか」 「ねー」 「はいはい」 祐斗にせっつかれて近くの公園へと向かう。冬の終わりの気配。春が近付いていて、日差しは日に日に丸みを帯びている。 公園に着き、祐斗に一冊本を読んでやると、祐斗は丁度現れた幼稚園の友達と遊び始めてしまった。仕方がないので遅くなる旨を電話で伝え、俺はベンチで自分の雑誌を読むことにした。気温は低いものの、今日は手がかじかむほどではない。数冊の雑誌は全て建築、インテリア関係のもので、学生の頃から欠かさず買っているものだ。近頃は仕事が忙しく買ってもほとんど読まないことが多かったけれど。 「……あ、へぇ、復刻版出るんだ」 ページを捲りながら、生産中止になっていた家具の復刻記事を見つけて独り言を漏らす。三十代も半ばを迎え、独り言が増えてきたのは悲しいことかもしれない。そんなことを考えながらじっくりとその記事を読み、砂場で遊んでいる祐斗を確認しながら次のページを開く。瞬間、目に飛び込んできた大判の写真に俺は思わず瞠目した。 「……」 それは有名な建築賞の受賞記事で、賞を取ったらしいデザインの模型写真が見開き一ページを使って大々的に取り上げられていた。それは明らかに見覚えのある模型で、俺は心臓が高鳴るのを感じながらページを捲る。 「凪……、」 次のページには受賞者の写真と、インタビューが掲載されていた。予想通り、それは凪だった。鼓動の音をすぐ傍に感じる。それは八年ぶりに見る凪の姿だった。年を取っているはずなのに、昔と何も変わらない。ほとんど出会った時と変わらないと思うほどだ。懐かしさと切なさが広がる感じを覚えながら、俺はインタビュー記事に視線を移した。 ――まずは受賞、おめでとうございます。 ――どうもありがとうございます。 ――日本人初、しかも最年少での受賞となりますが、率直なお気持ちをお聞かせ下さい。 ――まだ信じられないという気持ちが大きいです。知らせを受けてから日が浅いので。 ――受賞された作品ですが、個人邸宅というのは賞の性質からいってもチャレンジだったのではないですか? ――そうですね。正直、周りにも恩師にも反対されてました。でもどうしてもこれでいきたくて。賞を狙っていたわけではなかったので。 ――ではどういった経緯で? ――経緯……というか……。これ、昔付き合っていた人と一緒に住みたいと思って考えた家のデザインで……それを基に改良したものなんです。 ――それを、このコンペティションに? ――そう。僕にとってはそれくらい、大事なものだったので。賞を獲れなくても、そうしたいと思ったんです。個人的な理由で、呆れられると思いますが。 ――いえ。それで受賞してしまうのだから、信じられないですが(笑) ――ラッキーでしたね(笑) ――その方には受賞をご報告されたのですか? ――いえ。NYに来てから一度も連絡を取っていないし、多分これからも。 ――なるほど。この素晴らしいデザインの影に切ない恋が隠れていたというわけですか。 ――まぁ……でも、昔の話ですから。 ――とても丁寧に作りこまれたデザインという印象を受けますが? ――コンペに出そうと決めてて…当時の図面と模型を基に再構築したんです。作業の途中で、昔のことを思い出して……そうしたら自然と、そうなっていました。 ――本当に大切な人だったんですね。 ――ええ、とても。僕の人生で一番愛してました。 そこまで記事を読んで、俺はもう一度模型のページを開き直した。模型と、編集部が作ったらしい間取り。確かにあの家だ。八年経って凪の腕が上がったということは一目でわかるけれど、あの時俺が横から口を挟んだ点は全て盛り込まれている。シェーズロングの置かれるオーディオルームもそのまま。凪もまた、あの時のままだ。 「――……」 視界が歪んで、俺は慌てて目頭を押さえた。結婚して、子供ができて、前よりもうまく涙を堪えることができなくなったのかもしれない。 「――パパっ!」 遠くで祐斗が俺を呼んだのがわかった。そして駆け寄ってくる音。堪えなければと思うほどに、涙が溢れる。 「……パパ?」 俺の正面で立ち止まった祐斗が俺の顔を覗き込んだ。声に不安が混じる。 「パパ……ないてるの……?」 俺は涙を拭い、俯けていた顔を上げた。祐斗の顔を見ると、笑顔を浮かべることができる。大丈夫。 「……ごめん。何でもないよ。どうした?」 「ぼく、おなかすいた」 「……そっか。じゃあ、帰ろう。ママがクッキー焼いて待ってるって言ってたから」 「うん!」 雑誌を本屋の袋に大切に戻して立ち上がる。吹き抜ける風は、熱を持った身体を癒した。目を閉じると太陽の匂いがする。冬と春の境目に立っている。俺は祐斗の小さな手を取り、大切な人の待つ家へと向かった。 ――凪。 お前との約束を守ることは、やっぱりできなかったよ。 忘れることなんか、できなかった。 でも心配はいらない。 大丈夫。 脳裏に浮かぶお前の柔らかな微笑みも。 懐かしい匂いのする風も。 過去形の愛してるも。 全部、大切に抱えて生きて行くから。 だから安心していい。 いつかお前が愛する人と出会って幸せになることを、誰よりも祈ってる。

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