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ペット稼業
"るうく"は少し前まで、大きなお屋敷で飼われていた。
優しい旦那様と奥様に可愛がられ、贅沢な食事、上等なベッド、我儘は全て聞き入れてもらえた。
"るうく"のお勤めはたった一つ、旦那様と奥様の言うことに「はい」と答えることだけだった。天蓋付きの大きな大きなベッドで、日の当たる暖かいテラスで、薔薇のアーチをくぐった先のベンチで、旦那様と奥様に言われるままに何でもした。旦那様に抱かれながら奥様を抱いたり、旦那様と奥様の二人に抱かれたり、時々は旦那様を抱いたりもした。"るうく"は歳の割にずいぶん幼い身体つきと顔立ちだったせいで、子供好きの夫婦にとても可愛がられていた。
お屋敷の外に出ることのない"るうく"のことを知っているのは、旦那様と奥様とメイド、それに、旦那様の腹心の男だけだった。彼はいつも皺ひとつないスーツに身を包み、すらりと背筋を伸ばし、少し顎を引いて旦那様の言葉に静かに頷く人だった。
"るうく"は彼と、時折、旦那様の背中越しにそっと目線を交わして遊ぶのが好きだった。冷たい色の眼鏡の奥で、彼は少し悪戯っぽく目を瞬いてくれたりしたものだ。そのうちにそれは遊びでは済まなくなり、旦那様と奥様が不在のある夜、二人はとうとう身体を重ねた。一度で済むはずはなく、何度となく逢引きを繰り返すうちに、ついに旦那様と奥様の知るところとなった。告げ口したのはきっと、あのとても可愛らしいメイドだ。あの子は彼のことが好きだったから。
夫婦は大変に怒り、彼を追い出した。唯一無二の腹心に裏切られたことを旦那様はとても嘆いていたし、奥様は涙を流して"るうく"を慰めてくれた。
そしてその夜、シルクのパジャマを脱いで、"るうく"はお屋敷を逃げ出したのだ。
「うおずみさん……ねえ……いじわる、しないで……」
「意地悪?」
ふふ、と笑って手に力を込められて、甲高い声が出る。
「うおずみ、さん、やだよ」
「嫌なの?」
「……ううん、いやじゃない」
「じゃあ、何?」
「へん、なの……だから……ね……」
「変?ここが?」
「うんっ……」
とろりと溢れる感覚に身震いして、魚住にしがみつく。
「そのまま、いいよ」
「だめっ、や、やだ……」
「駄目なの?」
「だめ、じゃ、ないの、ちがうの……」
「違うの?」
狭い狭いベッドの中、二人は一晩中、無意味な問答を繰り返す。
コンクリートのかたまりみたいな部屋、植木鉢の一つもないベランダ、薄っぺらいカーテン、低い天井、小さなテレビ、電子レンジ一つで出来上がる魔法の料理――全部がるうくにとって別世界だった。
あんまり大きな声で鳴くと、魚住が少し慌てたようにるうくの口をそっと塞いでくれるのだけがあの逢瀬と同じで、それが懐かしくて時々わざと喘いだりする。
「あっ……」
「しーっ、るうく」
耳元に吹き込まれる吐息に誘われて、今夜何度目かに、るうくは甘く達した。
明け方までるうくを抱いて、ほんの二時間ほど眠ると、魚住はるうくより先に起きる。
シャワーを浴びるついでに風呂場を掃除して、洗濯をして、掃除機をかけて、朝食を作って、皺ひとつないスーツに身を包むと、るうくを起こしにやって来るのだ。
「おはよう、るうく」
「おはよ……うおずみさん……」
寝ぼすけのるうくに何度かキスをして、カーディガンを羽織らせてから抱き上げると、テーブルまで運んでくれる。
インスタントコーヒーに、ぱさぱさの食パン、それに今日はスクランブルエッグ。
旦那様の元を離れて、魚住が今、どこでどんな仕事をしているのかは知らない。
ペット禁止の賃貸マンションに密かに連れ込んだるうくを、彼は別段、外に出そうとはしなかった。料理も洗濯も掃除もできない、ATMを使ったこともない、履歴書に書ける学歴なんてもちろんない。るうくのお勤めはたった一つ、魚住に可愛がられることだけ。
飼い主が代わっただけだろう、と、意地悪な自分が舌を出すけれど。
どうしても一緒にいたかった。
かどわかされたわけではない。シルクのパジャマは自分で脱ぎ捨てたのだ。
ものの数分で朝食を平らげ、魚住が席を立つ。
「じゃあ、鍵は中から掛けておくんだよ」
「うん。いってらっしゃい」
「いってきます」
「はやく帰ってきて、ぼくを抱いてね」
ふ、と、魚住が悪戯っぽく笑う。こっそり瞳を交わしていた時の、あの微笑。
そのまま黙ってるうくを抱きしめて、キスをすると、すらりと背筋を伸ばしてドアの向こうへ消えていく。
るうくはカーディガンの前を留めて、ベランダに出る。
頭の中できっかり三十数えるころに、眼下に魚住の姿が現れる。
こちらを見上げる彼にいつものように手を振って、ついでキスを投げてみたら、彼は少し驚いたように目を瞬いたろうか。その後、受け取ったキスを唇へ運んで、軽くるうくへ手を振ると、足早にバス停のほうへ歩いて行った。
今日の予定は。
夕方まで本の続きを読んで、冷凍庫から晩餐のメニューを決めて。先にシャワーを浴びて、ピーチの匂いのボディクリームをたっぷり塗って、彼を待つのだ。
終わり
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