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第1話

 俺には兄貴がいる。  出来が良く、見目麗しい、二つ歳の離れた兄貴が。  兄貴はとにかく俺の世話を焼きたがった。  寮のある高校に入ったくせに、週末になれば必ず帰宅し、俺を構う。  生徒会の役員だというのに、家に帰るために徹夜で仕事をこなしているのだと、俺の耳元で囁く兄貴に、そこまで無理しなくてもいいと返した俺は、その時はまだ正常だった。  時は過ぎ、俺も兄貴と同じ高校に入学した。  兄貴と違い、出来も見た目も悪い俺。  兄貴と離れて暮らした二年の間に、耳にタコができるほど兄貴と比べられて、高校に入る頃には兄貴という存在自体に、心底うんざりしていた。  だから、高校入学から少し経った頃、俺は兄貴を切り捨てた。  これ以上兄貴と比べられ続けることに我慢できなかったからだ。  ちっともデカくならない俺を置き去りにして、どんどんデカくなる兄貴。  ベッドに腰掛ける兄貴の、足の間に抱き込まれて、一週間の出来事を月曜から順に逐一報告させられるのにも飽き飽きしていたし、耳や項を噛まれたり、肌を撫でられるのも、暑苦しくて鬱陶しかった。  「もう俺に構うな」  兄貴に向かって吐き捨てる俺に、そんなこと言っていいの?と嗤う兄貴。  その笑い顔が心底ムカついて、返事もせずに兄貴に背を向けた俺の背中を、兄貴の声が追いかける。  「後悔するよ」    その言葉の意味を、俺が身を以て知ったときには、もう全てが遅かった。 MERRY BAD END  兄貴と決別してから、俺の靴がしょっちゅう消えるようになった。  机の中に虫の死骸や、生ゴミもぶち込まれるようになり、寮のドアはひっきりなしにノックされて、その煩さに徐々に不眠になった。  すれ違う見知らぬ生徒に睨まれたり、足を引っかけられたり、階段から突き落とされそうになったりした。  友達だと思っていた奴らも、気がつけば俺なんかいない人間のように振る舞うようになって、授業中に教師から一度も指されず空気のように扱われるようになった。  まるで俺という存在が消えてしまったかのように振る舞う、友達だった人間と、  俺を敵のように執拗に追いかけ、追いつめる、見知らぬ人間たち。  学内にいても、寮内にいても、どこにいても気がやるまる時が無い。  息苦しくて、泣きそうになる日々。  誰かに相談したいけれど、そんな相手は一人もいない。  そしてついには、  「や、やめろ、やめろやめろ、止めてくれ、たのむ、たのむから」  名も知らぬ生徒たちに、手足を押さえつけられて、制服を破り捨てられ、埃にまみれた床に押し倒され、  「うるせえな、黙れよ、このクズ」  殴られ、噛まれ、引っ掻かれ、無理矢理口に奴らの性器を突っ込まれ、  「う、うぐっ、うえ、あ、や、やめ」  ダッチワイフのように、娼婦のように、犬のように、扱われ、  「お前なんか、死ねばいいのに」  顔に、身体に、汚い液体をぶっかけられて、  「何で生きてるの?」  まるでゴミのように、丸めてぽいと捨てられた。  ぐえ、ぐえ。  胃から、酸っぱい液体が競り上がってくる。  それが喉の奥に張り付いた、粘りのある液体を押し上げて、口から零れ落ちる。  汚い床に這いつくばって、涙と精子でどろどろの口から、止めどなく胃液を吐きまくる俺。  何でこんなことになったのか、全然分からなさすぎて、死にたくなる。  物がなくなるのも、部屋に奇襲をかけられるのも、友達だった奴らに無視されるのにも、何とか耐えられた。  だけど、こんな風に扱われるのだけは、耐えられないし、今日はまだやられなかったが、次は突っ込まれるかもしれないと思うと、それだけでまた胃からゲロが競り上がってくる。  床の木目に、俺の吐瀉物が散る。  涙が止めどなく溢れて、それもそこに混ざって、もはやゴミだ。  おれ、なんで、こんなことに。  俯いたまま、べそべそ、ぐえぐえやっている俺。  その俺の視界に、上履きのスリッパが映り込む。  また、だれか、きた。  また、ひどいこと、される。  また、ひどいこと、いわれる。  咄嗟に身体を丸めて、小さくなる俺。  恐怖のせいでか、はっはっと漏れる息は、まるで犬みたいで、死にたくなる。  「どうしたの」  その犬みたいな俺の頭を、誰かが撫でる。  いや、誰か、なんかじゃない。  この聞き覚えのある声は、  「あに、き」  バッと顔を上げる俺の目の前に飛び込んできた、懐かしい兄貴の顔。  涙とゲロでぐちゃぐちゃの俺の顔とは対照的に、兄貴の顔は微かに眉が寄っているぐらいで、いつも通り美しく整ったままだ。  「なにか、酷い事されたの?」  兄貴の指が音も無く伸びて、俺の唇の端を拭う。  「可哀想に。怖かったね、」  左手で、俺の頭を撫で、右手で俺の唇を、目元を拭う兄貴。  あんなに酷いことを言った俺なのに。  あんなに、自分勝手に、兄貴を切り捨てた俺なのに。  なのに兄貴は、  「うあああああああああああ」  俺は兄貴の足下に縋り付いて、大声で泣き喚く。  ごめんなさい、ごめんなさい、おれがわるかったです、ごめんなさいあにき、  兄貴の脛に額をこすりつけて、うわごとのように繰り返し、縋り付いた手を離さない俺。  そんな俺の身体に手を這わせ、膝裏に手を差し込むと、そのまま抱き上げてくれる兄貴。  疲れただろうから、すこし休んでおいで。  後は僕に全部任せて。悪いようにはしないから。  ゲロまみれの俺を気にした素振りも無く抱き上げて、胸元へ頭を押し付けさせる兄貴。  少し前まではずっと傍にあったその声に、俺は安心して目を閉じる。  兄貴がいてくれればもう大丈夫。  兄貴の傍にいればもう、何も怖くない。  兄貴が全部やってくれる。  「だから言ったろ。後悔するって」  うん、本当だね、兄貴。  全部俺が間違ってたし、全部俺が悪かったです。  兄貴が傍にいなければ、俺はもう、何もできない。  ──兄貴が、俺の全て。

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