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第1話

とにかく流されやすい人生だった。 就職先は先輩に誘われて断れずに決めてしまったし、学生時代の部活もそんな感じだった。 交際した数少ない相手は、全員向こうからの告白。 ああ。最近も牛丼屋で隣に座っただけの人の愚痴に、小一時間も付き合ったんだっけ。 いいヤツだって言われるけれど、ただ流されやすいだけなんだ。 俺は遠ざかっていく水面を見上げる。 しかも海にまで流されるなんて、どんだけドジなんだよ。 春なのに、体を包み込む水はめちゃくちゃ冷たかった。 そんな時、激しい波音の向こうで呼ぶ声がした。 「野瀬(のせ)さん!」 同僚の二田村(にたむら)さんだ。 二田村さんは俺を含めた社員約20名が参加する、“2019年社員旅行・離島を楽しみ尽くすアウトドア班”の班長だ。 俺が事故ったら二田村さんの責任になってしまう。 それは申し訳なさすぎる。 けどダメだった。 声のした方に手を伸ばしたが、潮の流れが速すぎて浮上できそうになかった。 ほんとごめんなさい、二田村さん。 仕事でも迷惑ばっかりかけた。 二田村さんはクールで仕事ができて。 ……正直、ちょっといいなと思っていたのに。 その時――。 伸ばした手をがっちりとつかまれた。 遅れて、揺らぐ海水の向こうに二田村さんの顔が見える。 「……はぁ。私の引率する班で水難事故なんて、絶対に許しませんよ」 俺を岸辺まで引き上げたあと。 ずぶ濡れになった彼の第一声はそれだった。 * その夜。 旅館の宴会場で宴会を楽しむ仲間たちと離れ、俺は二田村さんの泊まる離れに呼び出されていた。 「どうして飛び込んだりしたんです」 浴衣姿の二田村さんが畳の上に正座し、中指で眼鏡を押し上げながら聞いてくる。 俺は彼の正面に同じように正座し、座布団の上で小さくなっていた。 これでも俺の方が二田村さんより1つ年上で、入社も1年早い。 だが管理部門で社内を仕切る二田村さんと、一般職でヒラの俺とでは立場が違った。 二田村さんはまだ入社2年目だというのに、正確無比かつ冷徹な仕事ぶりにより、社内で恐れられる存在で。 俺が彼と話す機会といえば、書類の提出が遅れたり、間違っていたりということでつっこまれる時くらいだった。 そんな相手と2人きりで向き合う今、俺は蛇に睨まれた蛙だ。 「ごめんなさい、でも飛び込んだわけじゃないんです。結果的にそうなっただけで……」 「聞こえません」 謝っているのに、取り付く島もなく返される。 「つまり事故なんです! 釣りをしていて防波堤から落ちただけで」 「そうは見えませんでした」 「えっ……?」 「あなたは釣り竿を置いて、自らの意志で飛び込んだ。私にはそう見えました」 二田村さんは俺から視線を外さずに、きっぱりとそう言った。 (どうしてそう言い切れる?) あの時彼は釣り餌を配ったり、釣り竿の使い方を周りの人に教えたりしていた。 それでなくても20人も人がいて、俺のことなんか見ている暇はなかったはずだ。 ところが二田村さんの眼鏡の奥にある冷ややかな瞳が、俺を放してくれなかった。 「……確かに飛び込みました」 白状すると、盛大なため息をつかれる。 「でも違うんです! 海にものを落としてしまって。それで……」 「落としたものは?」 「えっ……?」 ドキリとして肩が震えた。 俺としては、そこをつっこまれたくなかった。 「それは大したものじゃないんです」 「飛び込んでまで拾おうとしたなら、大切なものなんでしょう」 「いえ……ただのビタミン剤です、錠剤の」 「ビタミン剤?」 「ええ。ポケットからスマホを出したら、その拍子に落としてしまったんです」 「ビタミン剤を」 「はい」 「野瀬さん、うそはつかないでください」 「うそなんかじゃ……!」 「…………」 離島の旅館の静かな離れに、誰かが近づいてくる物音はない。 たっぷり数十秒間。俺たちの間には、我慢比べみたいな沈黙が流れていった。 (話して大丈夫なのかな、この人なら……) 悩んだ末、俺は声をひそめて打ち明ける。 「本当はビタミン剤じゃなく、抑制剤です。こう言えば分かるでしょう。俺はオメガなんです」 男性でも妊娠できるオメガ性は、この国では百人に1人もいない珍しいものだ。 定期的にヒートが来て性フェロモンで意図せず人を誘惑してしまう……、という話はみんな知っていると思う。 ヒートを抑える抑制剤は命綱だ。 「今はヒートの時期じゃないですが、体のリズムが崩れることもあって……。離島じゃきっと抑制剤が手に入らない。だから持ってきたんです。それを海に落としてしまい、慌ててしまいました……」 俺としては苦渋の決断で打ち明けたのに、二田村さんは俺がオメガだって話題はスルーして、その先へ話を進めた。 「それで、見つかったんですか? 落とし物は」 「いえ……。あのあとバーベキュー中も、こっそり海岸を探しましたがダメでした」 「何やってるんですか!」 片ひざを立てたかと思うと、彼は一瞬にして距離を詰めてくる。 「どうして私に言ってくれないんです。この旅の責任者は私ですし、当然秘密は守ります。1人で探すより一緒に探した方が見つかる可能性は高かったのに」 「すみません……でも……」 「……そうですか、言えなかったんですね。オメガだということが知られたら、何をされるか分からない。希少なオメガを自分のものにしたい不埒な人間は大勢いますからね」 「えっ……? 二田村さんがそういう人だって疑っているわけじゃなくて!」 いかにも真面目な彼に、そんな考えがあるとは思えない。 けれども顔がぶつかりそうなほどの距離で見る二田村さんは、いつもと違っていて……。 (え……?) メタルフレームの奥の目がギラついて見えてドキリとした。 (いや、俺もこの人の仕事以外の面は知らないもんな……) そのまま固まっていると、すっと近づいてきた顔に首筋の匂いを嗅がれる。 「本当に大丈夫なんですか? ヒート、近いんじゃ……」 「……!? いや、そんなはずは……」 (でも……体が熱い……) 今は離島にいて抑制剤もない。 こんな状況下でのストレスが、ヒートを誘発しかけているのかもしれなかった。 (ど、どうしよう!? 俺……) 動揺して目を伏せると、視線の先にあった自分の手に、二田村さんの手のひらが重なる。 「ダメじゃないですか、本当に手間のかかる……昼間のうちに言ってくれたら対処のしようもあったのに」 「えっ……あの……?」 そのままもう片方の腕に腰を引き寄せられ、畳の上に仰向けに倒されてしまった。 「待ってください、なんですか!?」 「あなたもオメガなんだからわかるでしょう……。あなたの匂いが私を誘っている」 「うそだ……」 「私はあなたと違ってうそはつきません」 湯上がりの上半身が重なり合い、耳元で深いため息が聞こえる。 「野瀬さん、あなたが選べる選択肢はこの3つです。このままフェロモンを振りまいてアウトドア班を大混乱に陥れるか、島のどこか別の場所でヒートが済むまで1人で過ごすか。ただし、この狭い島に安全な場所などないでしょう」 確か、島は1時間もあれば徒歩で1周できるくらいの大きさだ。 その中にこの旅館が一軒、あとは観光客向けの商売をしている人たちの住む家くらい。 完全に人から離れることは難しそうだった。 「あの……それで選択肢の3つ目は……?」 戸惑いながら訊くと、二田村さんは言いにくそうに答えた。 「私とつがいになることです。幸い私はアルファで相手もいない。ですから……あなたの体を慰めることはできます」 「……!? 本気で言ってます?」 いろいろと衝撃的すぎて、頭に入ってきた情報を上手く処理できない。 (二田村さんがアルファで、しかもこんなドジで流されやすい俺を誘ってる!?) いや、誘っているというより、自らの責任において面倒を見ようとしているのだろう。 そこまでさせていいんだろうか。アルファとオメガの契約は一生ものだ。 「二田村さん……」 涙目になって見上げると、真上から見下ろしてきた彼に小さく笑われた。 この人の笑顔を見たのは始めてかもしれない。 「嫌でないなら、私に任せてみてはどうですか? 悪いようにはしません」 「でも、二田村さんは本当に俺なんかでいいんですか?」 「そうですね……いろいろと抜けているところはありますが、そこをかわいらしいと捉えることはできています」 ああ、どうしよう。 このまま流されてしまっていいんだろうか。 でももう、体が疼いて仕方ない。 それから俺は状況と、本能と……いろんなものに流されて、はじめての貴重な体験をたくさんした。 ―おわり―

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