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slow food

「え?今、なんて?」 校舎の陰、中庭の植え込み辺りから突然飛び立っていった鳩に気を取られ、そちらに一瞬目をやっていた久原(くはら)が再び俺の顔を見た。 「なんて言った?」 「だから……俺と付き合って欲しい、って……」 もう一度そう言い直したが、真正面から俺をじっと見ている久原の顔があんまり綺麗で――ああやっぱり好みだこの顔――語尾が弱々しくなった。ちくしょう、堂々としていようと思ったのに。 今は3学期、期末テストも終わってもうじき春休みに入る。この高校は3年に上がる時にクラス替えがあるから、次は久原と同じクラスになれるかわからない。その前に告白しておきたいと思ったのだ。 久原はまだ俺の顔を見つめている。 前に教室で、俺のすぐ前の席に座っている久原と雑談していたある日、目が悪いから人の顔を凝視するクセがある、と彼は言った。顔がいいというのもあったけれど、そうだ、こうやって――この光を内から放っているような瞳で……しょっちゅうじっと見つめられたのが、こいつを本気で好きになるきっかけだった……。 その瞳に間近で見据えられ、ついぼうっとなりかかった俺に、久原は訊ねた。 「付き合うって、いつ?どこへ?」 ……意味が通じなかったようだ。無理もない。久原は俺が同性愛者だという事を知らない。俺が説明しようと口を開きかけたとき、久原は急に 「――え?ちょっと待て。付き合うというのは……そっちの、そういう意味なのか?」 と言った。 「そっちのそういう意味だよ。いきなり言われたらぎょっとするよな……。うん、俺、ゲイなんだ。断られるのはわかってるからいい。ダメモトで告白してみただけだから」 俺が自嘲気味にそう言うと、なぜか久原はムッとした表情になった。 「ダメモト?なんなんだ、そのなげやりな態度は」 「……は?」 「最初からそんな風にあきらめててどうする!好きなら相手に受け入れられるよう努力すべきだ。まさかそのままの自分を愛して欲しい、とか甘ったれた事を言うつもりなんじゃないだろうな?」 なんだか論点が……ずれてるような気がするが……ともかくなだめようと俺は慌てて謝った。 「え、ええと……ごめん」 それを聞くと、久原はさらに怒った様子で 「なんだそれは!腹の立つ!」 と言う。 「は、腹立つって……なんで?」 「安易に謝罪の言葉を口にするからだ!誠意の無さを証明してるようなものじゃないか!」 謝っちゃ駄目なのか?じゃあどうしろって言うんだ。混乱している俺に、久原は言い放った。 「わかった」 「な、なにが……?」 「小杉と付き合う」 「はああ?」 ますます訳がわからなくなっていると久原に叱りつけられた。 「どうしてそんな間の抜けた返事をする!告白した相手が承諾したんだから、もっと喜びを表現したらどうなんだ!」 「ごめ……じゃなく」 慌てて飲み込んだ。誠意が無いってきっとまた怒られる。 「……いやあ嬉しいな。感激だ……」 「なんて棒読みな!全く実感がこもっていないじゃないか!」 演技指導を受けに来たんじゃないんだぞ……俺はそう思いつつまだ文句を言いたげな久原を恐る恐る促した。 「ここで長話してると怒られるかもしれないし……見回りの先生来る前に帰ろうぜ……」 カバンを担ぎ、久原と肩を並べて歩きながら、俺は内心かなりとまどっていた。 ゲイではない久原が俺を受け入れるはずはないから……告白した所で、それは困る、だとか、お前はそういう対象ではない、とか、なにか無難な事を言われて当然断られるだろうと予測していたのだ。実は家には既に、とことん落ち込んで、それから立ち直るためのアイテムも準備してある。泣ける曲のCDとか感傷にひたれる悲劇物のDVDとかだ。ふられるのは覚悟の上だったんだ。なのにこいつと来たら……俺と付き合う、だって……。 「あのさ、久原」 「なんだ?」 「お前ホントに……俺と付き合う気?」 「本当だ。二言は無いというのが俺の信条だ」 「……そりゃ男らしいな……。けどさ、付き合うってことの意味……わかってんのか?」 校門に差しかかった所でそう尋ねると、久原が急に足を止めた。俺もつられて立ち止まり、二人で向き合う格好になる。 「幼稚園児じゃあるまいし……バカにしてるのか?そのくらいわかってる!」 「怒んなよ。でもお前……別に俺のこと恋愛対象として見ちゃあいなかっただろ?なのにほんとに……付き合ったり出来んのか?」 久原は間近で俺の顔を睨みつけた。 「さっきから聞いてれば……小杉、お前本当に俺のことが好きなのか?なんだかその態度じゃ、逆に嫌いなんじゃないかと言う気がしてきたぞ。ひょっとしてからかってるのか?」 今度は俺もびびらず久原の顔を見返した。 「ほんとに好きだよ。だから信じられないんだ。久原こそ俺の事からかってるならはっきり言ってくれ。本気にしちゃって後から冗談だったで済ませられちゃ立ち直れないから、まだ喜ぶ気になれないんだ」 久原の、俺を見る目が少し優しくなった。 「……俺はお前のそういう自信なさげな所を改善してやりたいと以前から思っていたんだ。だから承諾した。小杉は自分で思ってるよりずっと……いい男なんだから」 そう言われて俺は頬に血が上った。ランニングする野球部員の列がすぐ近くを通りかかる。邪魔そうにされたので俺は慌てて彼らを避けながら、久原に声をかけた。 「良かったらさ……俺ん家で話さないか」 久原は頷いて付いて来た。 俺は学校近くのマンションに住んでる。両親は働いてるのでまだ家には誰もいない。居間やキッチンで話すのは何か妙な気もしたので自分の部屋へ通した。久原は立ったままそこらを見回している。 「散らかっててゴメンな。……ええと、なんか飲む?コーヒーでいいか?」 「ああ。ありがとう」 豆が切れていたので仕方なくインスタントコーヒーにした。カップを手に部屋に戻ると、久原は制服の上着を脱いで傍らに置き、窓際の俺のベッドに腰掛けて外を眺めている。その姿は妙に綺麗に見え……教室にいる時とはまた違う印象を受けた。 なんだか急に喜びが込み上げてきた。ふられて当然、今日はここで一人泣く羽目になると思っていた……なのに、その相手……久原がここにいる。 俺はカップを机の上に置くと、ベッドの上の久原に近付き思わず彼を押し倒そうとしてしまった……が、次の瞬間、腹に一撃を喰らって床に転がった。 「なっ……なにすんだ!」 殴られた腹を押さえて呻くと、久原は冷めた目つきで俺を眺め、言った。 「それはこっちのセリフだ」 「付き合うって言ったじゃねえか!やっぱからかったのかよ!?」 久原が呆れたような顔をする。 「付き合うとなったらその日にもう襲い掛かるのか?お前は発情期の動物か!」 「だってお前……おとなしく部屋まで付いて来たら……オッケーだと思うじゃねえかよ!」 「なにがオッケーだ。バカじゃないのか?話するって言うから来たんだ。寝るとは言ってない」 こ、この態度……可愛くねえなあ。 「付き合うことの延長上にそういう行為がくるのは当たり前のことだ」 久原は落ち着き払った様子でベッドに腰掛けたまま腕を組み、俺を見下ろしながら諭すように言う。床にへたりこんでいた俺はつい正座して姿勢を正した。 「でも、物には順序っていうのがある。小杉だってその位分かるだろう?」 順序……そういわれればそうだけど。 「ま、まあ……ねえ」 「はっきり言おう。俺はお前が好きではある。だが、現時点では愛してるという程じゃない」 「愛してないって……はっきり言うなよ!へこむじゃないか!」 「愛される努力もしないですぐへこむとか言うんじゃない!この根性無しが!これから俺の気持ちがどうなるかはお前次第だ!」 なんだそりゃ……スポ根ものの監督かあんたは。これじゃあっさりふられた方がマシだったんじゃ……?そう思った俺の考えを見透かしたように久原が言った。 「努力しなきゃならないんだったら付き合ってなんか欲しくない、とか拗ねたガキみたいなこと考えてるんじゃないだろうな?別にそれならそれでいい。俺に対する想いがその程度なら、敢えて付き合う必要なんてない」 俺は立ち上がって久原を怒鳴りつけた。 「バカにすんなよ!俺がどんな思いで告白したかわかってんのか!?お前はゲイじゃないだろうし、俺がそういう目でお前を見てるってことがわかっちまったら、もう友人にも戻れないかもしれないって悩んだんだ!そうなるなら黙ってた方がよっぽどいい。それでも……抑えきれなかったんだからな!」 久原はまた――いつものように俺の顔を凝視した。こいつの他、こんな風にじっと俺を見つめる奴はいない。つい動揺させられる。久原は視線を逸らさないまま 「そうか――わかった」 と言った。 「……なにがわかったんだよ」 「そこまで思いつめていたなら……今の行動も理解できる。俺も無防備すぎた。悪かった」 久原はベッドから立ち上がると、俺に向かって几帳面に頭を下げた。 「え、いや。謝ってもらわなくても……」 「でもやはり……セックスするのはお前をちゃんと理解してからにしたい。なんにしても時間が必要だ。じっくり付き合うつもりだからよろしく」 「セ、セッ……。う、うん。こちらこそよろしく……」 じっくり付き合うって……どうやるつもりなんだ……しかし表情も変えず、セックスする、なんて当然のように口にした久原に俺はちょっと……どきりとさせられた。 「コーヒーもらうぞ」 「あ!?ああ。インスタントだけど」 「インスタントはインスタントで好きだから構わない」 久原は机の上にあったカップを手に取ると、またベッドに腰掛けようとしたが、そこで俺をちらりと見た。 「ここ座るけど……誘ってるわけじゃないぞ」 「わ……わかってるよ!もうしないってば!俺は……こっち座ってるから!」 慌てて机の前の椅子に腰掛けた。久原はそんな俺を横目で眺めて微かに笑い、窓の外に視線を移した。コーヒーを啜りながら呟く。 「学校が見えるんだな」 「うん」 野球部の連中の掛け声が――風に乗ってかすかに流れてくる。時折、ノックしているらしい金属音も響く。 「小杉は、なんで部活やらないんだ?」 「え?ああ……中学の時はハンドボールやってたんだけど……うちの学校ハンドボール部無いじゃん」 「ああそうか……他の球技では駄目なのか?」 「駄目じゃないけど、あんまり興味がないから」 「ふうん。小杉は、なんで同性が好きなんだ?」 「え!?部活の話ふってたと思ったら……いきなりその話題かよ!?」 「その話題では駄目なのか?」 「駄目じゃないけど……心の準備ってものが……ええと、なんでとかって深い理由は無いよ、多分。気が付いたらこうだったから」 「ふうん。いつ気が付いたんだ?どういうきっかけで?」 なんだか……取調べでも受けてる気分だ。 「……中学の時部活の後輩に……その子男だけど……告白されたんだよ。考えてみたら俺それまで女の子に興味持ったことなくて……その後輩と付き合うの嫌じゃなかったから、もうそういうのだったんだろうな、きっと」 「ふうん。どんなやつだったんだ?その後輩」 「どんな……そうだなあ……普通のやつだったけど……そいつ家にちょっと問題あって苦労してて……俺のこと頼ってたから可愛かったんだよな」 「なんで別れたんだ?」 「結局そいつの両親が離婚することになって遠くに引っ越しちゃったんだよ。最初は連絡とってたけど、俺も高校受験とかで忙しくなってさ、自然消滅だな。今は別の奴と付き合ってるって大分前にメールが来た」 「ふうん。今までに付き合ったのってそいつだけか?」 「ええと……あとは……高校入った時、ちょっと。浮気されて続かなかったけど」 「今の学校の同級生か?」 「うん……能代(のしろ)って知らねえか?」 「知らないな。その能代とはしてたのか?セックス」 俺はそこでコーヒーにむせた。 「ちょっ……オイ!なんなんだよ!コーヒー吹いちまっただろ!?これから付き合おうってのに前の相手のことなんか訊くなよ!身上調査じゃないんだから!」 「身上調査だが」 「え!そ、そうなのか!?」 久原は飲んでいたコーヒーをベッド脇の台に置き、そこにあったティッシュの箱を掴むと、俺にそれを手渡した。 「あ、サンキュ……いや、おい、なんか……興信所みてえだなあ……」 久原は、ティッシュで襟元を拭っている俺を眺めながら言う。 「俺は小杉の事を何も知らない。現に同性愛者だってことも知らなかったし、ハンドボールやってたのも知らなかった。付き合うには一通り知っておかなきゃまずいだろう」 「まずいかなあ……?そういうのは……根掘り葉掘り訊くんじゃなくて、付き合ってるうち自然にわかってくるものなんじゃないかと思うぞ、俺は」 「そうか。そう言われればそうかもしれない。で?能代とはセックスしてたのか?」 「おいコラ!今納得したくせにまだ訊くのかよ!?」 「他の事は自然にわかってくるのを待つことにするが、それに関しては今知りたいから」 「なんなんだよその興味本位!ゴシップ誌の記者かお前は!わかったよ!教えてやるよ!しましたよ!」 「何回?」 「そんなの数えてるわきゃねえだろう~!?」 「ちょっとからかっただけだ。訊きたいのは何回したかじゃなくて、会って何回目にしたかって事だ」 「それ訊いてどうするんだよ……」 俺はなんだか情けなくなってきた――久原が少々変わったところのある奴だって事には気がついていた。普段教室でちょこっと話をするぶんにはそれが面白くて良かったんだけど、どうやら俺が思ってたより、もっと、ずっと変だ。この調子だと、付き合ったりしたら訳のわからない苦労をしそう……いやしまった、もう付き合うことになってるんだった。これはひょっとして……告白しないで片想いしてた時の方が、こいつの本性に触れずにすんで幸せだったのかもしれないぞ……? 考えがまとまらない俺に久原は平然と言う。 「能代が何回目で小杉に身体を許したのかを基準にして、今後の予定を考える」 「そんなの基準になるかい!人によって千差万別なんだから……」 「だが参考にはなる。で?何回目?」 「うわああ……」 俺は唸った。何回目でやったっけ……正直に答える必要なんかないのかもしれないが……なぜだか久原は誤魔化せない気がする。相手に呑まれてるって、こういう状態を言うんだろうか。 「ええっと確か……1回目のデートは映画見に行って……2回目は……夏だったから海行って……プールも行ったな。はっきりしないけど、多分4回目か5回目に会った時じゃねえかな?丁度夏休み入ったから、家へ呼んだんだよ――」 俺は妙に懐かしくその時のことを思い出した。たった一年半ほど前なだけなのに……ずっと昔のような気がする。能代は普段は軽くてちゃらんぽらんな態度の奴で、おまけに浮気症で――でも俺に抱かれてた時は色っぽくって可愛かった。その時もここ、俺のベッドの上で……最初はすげえ緊張したっけ。でも俺は……能代の身体に触っていられるだけで幸せだったな。 「その顔……余程良い思い出があるんだな」 「え!」 顔を見つめられていたのに気付いて赤くなった俺に、久原が訊ねる。 「セックスって、そんなにいいものか?」 「え!バ……」 バカな事訊くな、そう言いかけて飲み込んだ。久原は真剣だったからだ。 「俺はやったことがない。実を言うと自分がする方にはあまり関心が持てない。だが巷にはセックスに関する情報や産業が溢れてる。その反面、タブー感もつきまとってる」 「うーんそれはまあ……そうじゃなきゃまずいんじゃないの?モラル的にさ。真昼間っからそういう話おおっぴらにしてたら、不快に思う人もいるし」 「――食欲も性欲もそれぞれ人間の基本的な欲求として認知されている」 「んん?うん」 いきなり何を言い出すのか。 「小杉はどこで何を食べたかは俺に平気で話すのに、誰と何回セックスをしたかは話さなかった」 「あ、当たり前だろ!?プライバシーでしょ!そんなことお前に報告してどうすんだよ!第一……恥ずかしいじゃねえか!」 「恥ずかしい?セックスするのが?だが俺もお前も、両親がセックスしたっていう証だ。お前は自分の存在を恥じてるのか?」 「そんなこと言ってねえだろ!?この……いい加減にしろ!久原のバカヤロ!」 俺は椅子からがばっと立ち上がって久原に掴みかかった。不意打ちだったためか今度は反撃はなく、やつはベッドに仰向けに、俺にあっさり押し倒された。 のし掛かっている俺の目の前に、久原の顔がある。あの、俺好みの綺麗な顔だ。その唇に――俺は自分の顔を押し付けるようにして接吻した。 唇を離すと久原は、下から唖然とした表情で俺を見つめている。 「もうしないって言ったのに――ごめん。だけど、お前があんまりわけのわからない話ばっかりするから……」 急に身の置き所がなくなって、俺は慌てて久原の上から身体をどかそうとした。するとどういう訳か――久原が俺の両腕を掴んで放さない。 「ちょっと待て。もう一度――」 「は?」 「もう一度今のやってみてくれ」 「はあ?今のって……キス?」 「うん」 久原が頷く。 「な、なんで!」 「良かったから」 「良かっ……!?」 絶句する俺に久原は言った。 「さっき……怒ったお前に殴られるのかと思って構えたんだが――来たのは予想に反した柔らかい刺激で……気持ちが良かった。だがその落差があったから良かったと感じたのか、それとも最初からキスされるとわかっていても同じように良いと感じるのか、比べたい」 「比べ……なんだ畜生。実験かよ……」 俺は苦笑した。が、もう一度、同じようにキスしてやった。 ――俺が顔を離しても久原は黙っている。 「……どうだったよ、結果は」 訊ねる俺に久原はぼんやりと返答した。 「……よく……わからなかった」 「なんだよ、人がせっかく協力してやったのに……」 「よくわからなかったから、もう一回やってみてくれ」 「もう一か……!?」 俺は再び絶句したが、久原はひょっとしたら……キスをねだっているのかもしれない、そう気付いたら嬉しくなって――こちらを見つめる彼に顔を寄せ、今度はさっきよりもゆっくり唇を重ねた――

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