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第1話

『明日の夜迎えに行く』  久しぶりに聞いた彼の声が胸を震わす。  なんだって恋人の声を聞くために今にも死にそうな思いをしなきゃならないんだ。二週間ぶりの連絡がたったそれだけってのもどうなんだよ。  普通もっとあるだろ。久しぶりとか好きだとか。 「いや、俺も馬鹿だよな」  別れ話を切り出される事を知っていて儚い言葉を求める事の滑稽さ。  明日がクリスマスだなんて彼は知らないのだろう。  二ヶ月前に恋人である洸哉の研究が最先端治療に取り組まれる事が決まり、同僚である俺の耳に届くのは実に早かった。 ──研究にしか興味ねぇな  付き合って五年。大学の期間をいれればざっと十年近く彼の傍に居るが口癖は変わらない。同じ研究者から見ても洸哉は天才的頭脳の持ち主だ。大胆な性格にあっと言わせる発想力。おまけに顔もいいと来た。天は二物を与えずとはよく言ったものだ。洸哉は多くのものを持っている。けれど彼はいつだって天才であり、それ故に孤独だった。   ◆ 「満。もうイきそうなのか?」 「ぁ、洸哉ぁ、も…っ、ぁ、ああ……!」 「好きだ満、愛している」 「俺も、こうや、洸哉ッ」  なんて夢だ。寝覚めの悪さに唸り、掌で顔を覆うと、ひんやりと肌が濡れていた。殺しきれない思いが熱を帯び悲しみを増幅させる。 ──お前でいい。今すぐ抱かせろ  俺達の関係は特別ロマンチックな訳でも良くあるお付き合いの言葉から始まった訳でもない。寧ろ最悪だ。洸哉の相変わらずな不遜な物言いから始まったのだ。 ──抱く? 抱っこしたいの? ──馬鹿なのか? 尻を差し出せと言ってる ──ぇ……はあ?!  何故その時俺も黙って抱かれたんだろうか。右腕として扱われる様になり俺はいつしか洸哉に恋していた。  俺の持てるものすべてを洸哉に預けていたんだ。 「何で俺、彼奴の事愛しちゃったんだろう」  空虚だ。終わりの朝は酷く陰鬱でクリスマスソングは心を凍てつかせる。  海外の研究チームへと移動になる事を耳にした時の衝撃は凄烈な痛みを植え付けた。おまけに恋人からじゃなく赤の他人の口からだ。発表されてから一ヶ月もの間、彼からの連絡は無い。それのもたらす答えなんて決まっている。俺は捨てられるのだろう。彼の紡ぐ未来には不必要であるから。  だからせめてもの悪足掻きなんだ。俺から別れてやる、振ってやるのだ。捨てられるなんて悔しいじゃないか。最後くらいは俺の手で終わりにさせて欲しい。最初で最後の我儘がこんなものになると知っていたならば、俺はあの日彼の言葉に頷いてみせたのだろうか。 「ずっと一緒にいるって、大人になるにつれて凄く難しいよなぁ」  固く引き結んだ唇から零れた言葉尻は震ていた。視界を不明瞭な膜が覆う。  恋人なんて名ばかりだ。彼にとって俺は取るに足らない存在。愛してる筈の男が酷く憎く思えた。胃の奥が熱く燃える。  洸哉の心の中に俺の居場所はあったのだろうか。孤独な彼の中に少しでも、俺の愛情は届いたのだろうか。 * 「待たせた。乗れよ」  いつもと同じ台詞。ただ違うのは普段は遅刻常習犯である彼が約束通りに来た事だろう。そんな彼は相変わらずの男前で思わず胸を鳴らす自分にうんざりとした。怜悧な光を宿す切れ長の双眸。艶やかな黒髪を後ろに撫で付け長い手足と靭やかな体躯がスリーピースの高級スーツに包まれている。  なぜ、スーツ?  思わず睥睨してしまう俺を許してほしい。恋人を振るのにわざわざスーツを着るだなんて酷い男だと思わないか?  ふと胸中で毒づいて気づいた。  ああ違う。他の誰かに会っていたんだ。それは洸哉が移る海外の研究チームの人間なのかそれとも個人的な交友のある人物なのか。ただ一つ言えるのは、その相手が異性であることに間違いはない。  助手席に座る時に嗅いだ甘い匂い。  新しい女と会ってたのか?  そう聞けたならどんなに楽か。顔を合わせて早々に涙が滂沱のように零れそうだった。 「着いたぞ。こんな寒い日に海が見たいとは、相変わらずお前の考えてる事はわからない」  うん、俺もお前の考えてる事、全然わからないよ。五年間も恋人として傍に居たのにな。  そう返してやれたらどれだけいいだろうか。笑ってさようならと言えるだけの強さが今は欲しい。後腐れなく背中を押してやれる優しさが欲しかった。 「良いだろ。洸哉がどこに行きたいのか聞いたくせに」  甘い声で笑い声を零した彼の横顔に息が詰まる。 「少し、歩くか」  先に車を下りた彼の背中を強く瞼に焼き付けながら拳を握りしめると、決意を新たに背中を追いかけた。 「満、話がある」  砂浜を歩いてどれぐらい経っただろう。歩みを止めた洸哉が俺を呼ぶ。返事に詰まって、細かく息を吐き出すと笑顔を作り振り返った。この瞬間、世界が終われば良いのに。けれどそんな事起きやしないのだ。 「俺も話があったんだ洸哉」  だから俺は嘘をつく。  玲瓏たる月が静かに輝いていた。そんな情景が俺は好きで、まるで洸哉みたいだと思ったんだ。孤独であっても毅然たる態度を貫く姿。淡い光は真っ暗な闇の中、美しく足元を照らしてくれる。そんな夜に海の音を聞くのが好きだった筈なのに眼前の海は冷たい底に俺の身をのみこもうとしているようだ。押し寄せる波は悲しみの手。幾度も両手を伸ばし絡め取ろうと近づく波の音。  洸哉。俺は、お前が好きだよ。 「満」 「なに?」  俺を捉える鋭い双眸。黒曜石のように輝く、意思の強い瞳。 「この関係を終わりにしたい」  ふ、と息が止まる。こうして俺達の関係は終わるのか。なんて呆気ない。 「……うん。だと思ったんだ、お前はそういう男だもんな」 「知ってたのか?」 「当たり前だろう。お前の隣に立って何年経つと思うんだよ」  俺の答えに瞠目するその姿は少しだけ幼くて苦笑が漏れる。まだ学生だった頃の洸哉を思い返した。 「なら話は早いな」 「わかってる。だからそれ以上言うなよ、頼むから」 「何故だ? 言わないで済むことでは無いだろうが」  聞きたくない。これ以上俺の心を抉ってくれるな。他に俺から何を奪って行くつもりなんだ。明け渡した心は洸哉と別れたって返って来やしないというのに。 「聞きたくない」 「いや駄目だ。話を聞け満」 「いいってば! これ以上何を聞けって言うんだ?! お前が俺を捨てる、それだけのことだろっ」  怒りや悲しみ色んな思いが混ざりあい爆発する。咄嗟に掴まれた腕が熱い。強く握られた彼の手から伝う熱が俺の凍る心を溶かす。俯いた視界に白いものが映りこんだ。 「離せって」 「いま何と言った」 「捨てるなら早くしてくれ」  捨てるだなんて人聞き悪すぎるだろうか。 けれど本当の事だろう。結局俺から振るなんて無理なんだ。 「早く振ってよ洸哉」  自嘲の滲む言葉が胸に突き刺さる。身を蝕む後悔。言いたくなかった。出来れば死ぬまでずっと好きだと言い続けたかった。 「顔を上げろ」 「無理」 「今すぐ顔を上げろと言っている」 「嫌だって」  剣呑な声が頭上に降り注ぐ。天邪鬼になり顔を逸らした刹那、洸哉の綺麗な指先に顎を囚われ息をのんだ。 「お前は一生俺のものだと言っただろう」 「んぅ!?」  憤怒を孕んだ瞳に体を縛り付ける硬質な声音、懐かしいその台詞。一体、彼はなんと言ったのか。  困惑に薄く唇を開いた刹那、言葉を奪うかのように口付けられる。 「ン、ふ……こ、うやぁ」 「お前が俺の傍から離れるだなんて許すわけがない」  愛した熱が全身を包み込む。荒々しく口内を蹂躙されて鼻腔を擽る彼の香りに決壊したかのように溢れた涙へ雪が溶ける。  幾ら言葉をくれたって、お前の心に俺が居ないのなら辞めてくれ。 「泣くな満」 「な、んなんだよッ!」  洸哉の熱い手が頬を包み濡れた赤い舌が涙を辿る。涙が止まらない。 「何か勘違いしてるだろ?」 「今更なんの話を聞けって? これ以上惨めにさせないでくれッ」 「……お前は心から愛おしい馬鹿だ」  耳元で囁かれた科白に腰が甘く疼き、全身に悦びが駆け走り停止する思考。 「俺と別れるだなんて、何故思った?」  俺が離すとでも思っているのか?  続いた言葉に呆然とした。 「俺が言いたかったのは。満、今の関係を辞めて新しく俺と共に歩んで欲しいという事だ」 「新しいって、それって別れるって事だろ?」  俺のこと馬鹿にしてるのか?  戸惑う俺からふわりと洸哉の腕が離れる。消えた温もりに止まった涙が一筋零れ落ちた。 「満に伝えたい事がある」  そして洸哉はスーツが汚れる事も厭わず、砂の上に片膝をつき俺を見上げた。  静謐さ溢れる洸哉の真剣な表情に、胸の奥がチクリと痛みそれ以上の甘い苦しみが身を襲った。 「なにしてんだよ。立てよ」 「聞け、満」  まさか土下座? いや、違う。でもなんで、これじゃあまるで、まるで今にも。 「満」  俺の左手を取った洸哉が慇懃な口調で名を呼び指先に口付ける。途端に頬が熱くなり全神経が指先へと集中する。甘く溶けてしまう感覚に目眩がした。 「パートナーになって欲しい」  早まる鼓動に追いつかない俺を残して、洸哉は優しく微笑んだ。 「満、俺と結婚してくれないか」 「──!」  眦を赤く染めた洸哉の台詞に丁寧な口調に、俺を呼ぶ甘い声に。  熱い涙がこみ上げる。止まらない悦びに知らなかった痛みに疑った悔恨に。心臓が壊れそうだ。  嗚呼、夢であるなら今すぐここで呼吸を止めてくれ。 「俺とずっと一緒に居ろ」 「馬鹿じゃないのか……!」 「プロポーズをした恋人への第一声が馬鹿か。なんだ今すぐここで押し倒されたいのか?」 「二週間どんな思いでいたと思ってるんだッ」 「お前も向こうへ連れていく為に色々と手間取ったんだ。許せ」 「こんな時まで偉そう言うな! 連絡も無しでずっと、捨てられんだって……苦しくて悲しくてッ」 「……泣くな。悪かった、俺が悪かったからあんまり可愛い顔をするんじゃない」 「意味わかん、ないから。本当何でこんな奴に惚れちゃったんだろう……好きだよ、洸哉大好きなんだ」  涙が零れる度に洸哉が吸い付き頬に額に唇に何度も優しいキスが降る。  嗚咽と共に絞り出した告白。弱々しく洸哉の胸を叩く俺を抱きしめる逞しい腕。 「返事を聞かせてくれ」 「……そんなの当たり前だろ」 「当たり前?」  片頬だけを器用にあげる表情のなんて意地悪な微笑みか。傲慢で俺様で自分勝手な男。心底惚れているだなんて洸哉にはバレバレなのだろう。  目の前で静かに俺を見守っている彼の瞳を覗きこみ、笑う。 「俺を、洸哉の家族にして下さい」 「ああ! 勿論だ!」  パッと華やぐ彼の満面の笑み。洸哉の笑顔を知るのが俺だけならばいいのに。  誓いのキスの様に触れ合うだけの唇はやがて深く濃厚に混じり合う。髪を梳かれて端正な顔で微笑まれる度に俺はやっぱり死んでしまうのかもしれないと、今度は違う不安に襲われた。  なんとも幸せで暖かい悩ましい問題に。 「……魔法の言葉だな」 「魔法?」  結ばれた俺の左手を見つめる洸哉が笑みを零す。そこには玲瓏と輝く銀の指輪が静かに存在していた。愛おし気に雪の降り注ぐ海で洸哉がはめてくれた指輪を見つめて彼が口を開く。 「結婚して欲しいと言った時のお前の泣いた笑顔が。魔法のように俺を幸せにした。一生をかけて満だけを守り通すと俺に魔法をかけたんだ」 ──愛している満。お前だけをずっと好きでいると誓おう  柔らかなシーツの上、嫌いだと嘆いたクリスマスの夜に、紡がれた優しく蕩ける台詞と数え切れない口付け。強く響いた甘い約束に瞼の裏が熱くなる。  シンシンと降り注ぐ淡い雪が幸せの涙に見えた。洸哉への愛が心に降り積もる。  涙に溶けた雪は、永遠の愛を誓う二人だけの魔法。

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