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 葉璃の苦い顔は、日常ではあまり見られない。  レイチェルの要望がいかに無茶であったか、業界とまったく通じていなかった本物の新人アイドルである葉璃がその表情で表している。 「俺とスタッフが何もかも急ピッチで進めてたのは、一月はレイチェルのデビュー、二月はETOILEの新曲発売、三月はCROWNの新曲発売……大塚から三ヶ月連続リリースってので話題作りするためだったんだ」 「そうなんですね……」 「ETOILEとCROWNの新曲発売日は延ばせねぇから、レイチェルのデビューは四月以降になっちまった」 「わぁ……そんなに……」  仕事の合間を縫い、広報部やレコード会社との会議にすべて参加していた事を知る葉璃から、同情の視線が寄越された。  聖南は、そんな葉璃に〝分かってくれる?〟と頬擦りをして甘えた。外には一切出さないけれど、聖南も気落ちくらいする。  恋心を抱かれた事もそうだが、こんなにも仕事がスムーズにいかないのは初めてなのだ。  とにかく社長の申し出は急で、レイチェルの注文も難しいものだった。  さらに、早くて年内、遅くとも一月には……という通常ではあり得ないスピードでのデビューに至るべく、聖南はもちろん大勢の人間が動いていた。  それが社長の意向であったから。  彼女こそ、七光り且つ鳴り物入りでデビューする新人歌手だ。失敗は許されないと、スタッフ等の戦々恐々具合といったら見ていて気の毒なほどだった。  現在すべてが頓挫した状況になったのは、言うまでもなく聖南には到底納得のいかないレイチェルの指摘によるもの。  彼女を責めるつもりはないが、〝誰のせいでもない〟とはとても言えない。 「まぁ……しょうがねぇよな。土壇場でレイチェルが納得いかねぇって言い出したんだから」 「そう、ですね……。大サビ前のブレス、でしたっけ」 「そうそう。……あ、葉璃。ちょっと来て」 「はい?」  とある事を思い立った聖南は、首を傾げた葉璃の手を握り書斎に連れ込んだ。  座り心地重視の回転椅子に腰掛けさせ、パソコンを操作する。  聴くと何とも複雑な心境に陥るバラード曲──〝Next to Me〟──のデータを呼び出し、インストゥルメンタル(伴奏のみの楽曲)を再生出来るようスタンバイした。 「葉璃、……歌ってみてくんねぇかな?」 「え? 何を……って、もしかして……」 「通しで歌ってほしい」 「そ、そんな……っ! 俺が、ですか……? なんで……?」 「お願いします。ETOILEのハルくん」 「…………っっ」  驚く葉璃へ、聖南は卓上スタンドからマイクを外し、真剣な面持ちで手渡す。〝葉璃〟ではなく〝ハル〟へのリクエストだと匂わせたのは、彼にとってはとても有効に働いた。  三面あるうちの一つのモニターに歌詞を表示し、返事を聞かぬまま再生を押してしまう。  すると葉璃は、慌てて椅子から立ち上がり、しっかりと右手でマイクを握った。 「う、う、歌えばいいんですねっ?」 「ああ、よろしく」  にこりともしない聖南に、突然何なんだと狼狽えていた葉璃だが、彼の本番スイッチは今も無事発動した。  音域の広いレイチェルが歌唱してちょうどいい曲であるはずが、少々ツラそうに腹に手をあててはいたが葉璃は見事に歌いこなす。  通常の話し声も葉璃は男性にしては高めだ。周波数で言うと、女性と男性の間くらいか。  ボイスレッスンではその特徴を伸ばすべく、聖南は葉璃のボイトレ講師に腹式呼吸と喉頭を意識した歌唱方法を取り入れさせた。  しかも葉璃は、まるで絶対音感持ちの者のように、踊りながらの歌唱時も滅多に音程を外さない。  何年も学んできたダンスは誰の目にも言う事なしだが、近頃は歌でまで大勢を魅了する。  歌詞を目で追いながら、とても真摯に歌う葉璃の姿にときめいた。見てくれはもちろん、マイクを握ったその立ち姿に聖南は見惚れた。  おまけに歌声が、耳と心をくすぐる。  たった四分半の間に、葉璃から放たれたハートの付いた矢はいくつ聖南の心を打ち抜いただろう。 「……いい。……染みた。……かわいー」  ──狙い通りだ。  渾身の曲に妙なトラウマを植え付けられる寸前だったが、葉璃に歌ってもらう事で、それだけで新しい希望に満ちた。  この仕事はこうでなければならない。  ムムッとマイクを手渡してくる葉璃は、熱唱してくれたわりには不満そうだが。 「ありがと。めちゃめちゃ良かったよ」 「な、なんかすごく恥ずかしいんですけど……」 「なんで恥ずかしいんだよ。てか葉璃、夏に〝あなたへ〟歌った時から高音の伸びに余裕が出来てるよな。発声方法変えた? 無意識かな?」 「い、いやっ、俺はとてもレイチェルさんには及びませんから! 聖南さんひどいです……レイチェルさんとの実力の差を感じさせるなんて……! 予告ナシでこんなの……っ、ひどいです!」  恥ずかしかった!と書斎を出て行こうとした葉璃を、急いで引き止めて抱き寄せる。  何の説明も無く歌わせ、葉璃に勘違いさせてしまったのは聖南だけれど、それは決して比べるためなどではなかった。 「おいっ、待て待て! そんなつもりじゃなかったんだ! 葉璃が歌ってくれたら、俺のモチベが上がると思っただけ! 俺は上手く歌えてるかどうかで歌手を判断したりしねぇよ!」 「……うぅ……っ」 「俺は、葉璃の歌声が世の中で一番好きなんだ。この曲完成して聴かせた時、葉璃はこの歌を歌いたいって言ってくれただろ? その日からずっと、通しで歌ってほしいと思ってた」 「お、覚えてたんですか……?」 「そりゃ覚えてるよ。これはレイチェルにオーダーされて創った曲だけど、権利は俺にある。俺が歌い手を選んだっていいじゃん?」 「それは……っ」 「我ながら、前向きでかわいー歌詞だと思った。葉璃の声が、楽しい片思いを連想させた。凄いことなんだぞ、これは」 「むぅ……」 「俺はなんて贅沢者なんだ。ETOILEのハルにバラード歌ってもらっちゃった。それを特等席で聞いちゃった。ヤバッ」  興奮冷めやらぬ聖南は、その胸に葉璃をギュギュッと抱き、高鳴る心臓を音をこれでもかと聞かせた。  そこから何やらモゴモゴと聞こえたが無視する。  ネガティブな彼は、これだけ聖南の心を高鳴らせておいて、きっと自分にとってマイナスな言葉しか発していない。  そんなもの、聖南は聞きたくなかった。  今見聴きした事がすべてだからだ。

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