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前回の忌々しい事件を、何も活かせていない。
〝絶対〟など無いと頭では分かっていても、今回こそは葉璃を守れるという過信があった。
犯人も手口も大方判明し、あとは向こうに動きがあるのを待つだけ──予想が正しければ──だった。
きっと皆、恭也が言ってくれたように聖南のせいではないと引き立てるだろう。
だが聖南は、どうしてもそうは思えなかった。
葉璃が無事で良かった。良かったけれど、……何事も無かったとはとても言えない。
生まれて初めての聖南の土下座は、葉璃の母親と春香の前で何分も続いた。
自分が情けなくて、聖南と同じく葉璃を大事に思う家族に申し訳が立たなくて、なかなか顔を上げられなかった。
「俺は葉璃一人守れない情けねぇ男です! でもそばに居たいんです、葉璃がそばに居てくれないと俺は……っ」
お前に葉璃は任せられない。
一度ならず二度までも葉璃を危険に晒し、どのツラ下げてここに居るのか。
芸歴が長かろうが、他者より少々稼いでいようが、愛する人ひとり守れないただの男に用はない──。
「分かってます、俺がこんなこと言える立場でも身分でもないことは分かってます……っ。でも離れたくないんです、……葉璃と……離れたくない……っ」
瞳をギュッと瞑った聖南は、今度は「離れたくない」を繰り返した。
誰からも、何も、聖南を責める言葉など一つもかけられていないというのに、自分自身への罵倒がそのまま声となって届いているように聞こえていたのだ。
親が子に対する無償の愛を知らない聖南は、理解の早かった葉璃の母親からとうとう見下げられたと不安でたまらなかった。
「ちょっと待って、セナさん」
少しも顔を上げない聖南の前で、葉璃の母親がしゃがむ気配がした。
一言発せられる度に怯える聖南に、いつもの気迫は少しも無かった。
「私がセナさんと葉璃を引き離すとでも思ってるの?」
問われた瞬間、床についた薄茶色の髪が揺れる。
「……そうされても仕方がないと、……思ってます」
「そうねぇ……春香、どう思う?」
言葉を詰まらせる聖南の肩に、慰めるように優しい手のひらが乗せられた。
後ろを振り返り、春香へ問う母親の声に怒気は無い。まるでいつもの調子だ。
「セナさん、まずは顔を上げてください。私達どうしたらいいか分かんなくなります。ていうか、セナさんは何も悪くないじゃないですか」
「…………」
近付いてくる春香に、聖南はようやく僅かに顔を上げた。
間近で「うんうん」と頷く葉璃の母親と目が合い、ポッと頬を染められる。苦々しく見ていられない表情を浮かべていても、至近距離の〝セナ〟は女性には目の毒だったらしい。
「あーあ、もうっ! 葉璃ったら、私には何〜〜にも話さないんだから!」
「いや春香、それは違……っ」
「話せない事でも、家族だったら話してほしいと思うものですよっ。ましてや私は同業者なのに!」
正座した聖南の前で溜め息を吐いた春香は、眠っている葉璃の方を心配げに見詰め愚弟を罵った。
林から諸々の説明を受けたようで、それはヒナタの事を言っているのだろうとはじめは慌てた聖南も、春香の視線でハッとした。
秘密主義にならざるを得なかった愚弟に、春香はもどかしさを感じているのだ。
葉璃の母親から立ち上がるよう促され、聖南は頭を下げてひとまず言う事を聞いた。
自然と目を覚ますのを待つしかない葉璃のそばではなく、三人はソファの方へ移動する。母親と春香、対面に聖南という並びで着席した。
気まずい聖南はずっと、葉璃の方を見ている。
「Lilyの、その……よくない噂はちょっとだけ聞いた事あります」
静かな病室で口を開いたのは、春香だ。
その声に、聖南は葉璃から春香へと視線を移す。
「……マジ?」
「前室で待機してる時とか、楽屋から声が漏れて来たりとか、あとは……女の勘です」
「…………」
「もちろん、Lilyとmemoryはデビューが前後してますし、人気で言うと断然Lilyの方が上です。でも私達は全然羨ましくなかった」
「……嫉妬しなかったって事?」
「そうです。あんなに殺伐としたグループには入りたくないですよ」
「そんなにあからさまだったのか……」
「私達がLilyに対して〝怖いな〟って思い始めたのが、今年に入ってからなんですよね」
「今年、……」
新たな視点から聞くLilyの印象は、現状となんら変わらなかった。
聖南が楽曲提供した際、彼女達にそういった諍いは見受けられなかったが、葉璃がミナミから聞いた事、そして今春香が話してくれたLilyの悪イメージの時期は合う。
同業者で、何度か共演した事があるからこそのリアルで率直な感想に、恐らく偽りは無い。
未だ表情を崩さない聖南に、春香が身を乗り出した。
「セナさん……私がこんな事を言うと、また葉璃から怒られちゃうかもしれないんですけど……」
「……ん?」
「セナさんがここで頭を下げると、負けを認めたみたいじゃないですか? もう成す術がない、降参だって」
「…………」
「春香、やめなさい」
「葉璃が目を覚ましたら、言う事は決まってます。セナさんにも分かりますよね?」
もちろん、と聖南は小さく頷いた。
「……〝俺は何もされてない〟」
「ですよね。葉璃は絶対にそう言います。ね、母さん」
「そうね」
周囲がどれほど心配し助言しても、聖南よりもお人好しな我が恋人は悪人を作りたがらない。
こうなってしまったのには何か理由があるんだろう……と、自身の身に起きた事を即座に脇に置く。
そこが葉璃のいいところでもあるのだが、聖南も家族も、そのおかげで気を揉んでしまう。
「葉璃って不思議な子なんですよ、セナさん。後ろ向きなことばっかり言って、家でも学校でもジメジメしてたのに、ダンススクールで体を動かしてる時だけはキラキラ輝いてたの。今もそう。歌って踊ってる時だけ、私の子じゃないみたいに感じるのよ。テレビで観てると余計にそう思っちゃう。……ふふっ、ここだけの話、私ETOILEとCROWNの大ファンなの」
「…………」
呆れられ、引き離される恐怖に怯えていた聖南の前で、母親はあろう事か笑みまで見せている。
案ずる事はないと医師から告げられホッとしたからなのかもしれないが、聖南の不安をことごとく一蹴してくれる家族を目の当たりにすると、削れていた心が次第に形を成してきた。
「キラキラだった葉璃を、今もっともっと輝かせてくれてるのが、セナさんなんでしょう?」
「……だといいんですけど……」
「セナさんの愛情が無きゃ、葉璃は輝けないと思うの。だってまさか、あの家事オンチの葉璃が自分の意思で高校卒業と同時に家を出るなんて思ってもみなかったもの! しかもそれが、アイドルデビューするため? 恋人と同棲するため? ……もう私には理解が追い付かないくらい、葉璃が成長しちゃってる。今も可愛い息子に変わりはないわ。でも私は、同棲を許した時点でセナさんに葉璃を託してるの」
「…………」
「今まで黙ってたけど、セナさんの過去は全部……葉璃から聞いてるわ」
「あ、あぁ……そうだったんですか」
「えぇ。だから葉璃は、セナさんのそばに居たいんですって。同棲を許してもらえるよう、私を説得したかったのね」
「葉璃がそんな事を……?」
知らなかった。
聖南だけが、葉璃との同棲を心待ちにしていたものだとばかり思っていた。
過去の話というのは、聖南の生い立ちの事だろう。それを勝手に語って良いかどうか、葉璃は随分悩んだに違いない。しかし、聖南のそばに居なければならない理由付けをするには、話しておかなくてはいけない事だと判断した。
愛情を知らない聖南が葉璃と出会ったのは必然で、共に過ごしていくべき相手なのだという説得を、葉璃自らが聖南の知らないところで……。
「葉璃、……」
聖南は立ち上がり、ゆっくりと葉璃のそばへ寄って行った。
いつもの可愛い寝顔を見下ろし、愛おしい名を呟く。血色の良くなった頬を撫でると、この期に及んで胸が高鳴った。
「聖南さんの愛情は重いですよ」と照れ笑いし、いくら甘えても引き剥がさない葉璃の心は、聖南と同等にきちんと育っていた。
こんな時にそんな大事なことが判明するとは、やはり──。
──ホントに、葉璃は秘密主義だ。
「目が覚めた時、セナさんじゃなくて私が居たらガッカリするんじゃないかしら」
家族以外の泊まり込みは原則禁止である。それはどこの院でも同じで、仕方のない規則なのだ。
聖南はそこまで図々しくはなれなかった。
とてつもなく心配だけれど、聖南にとっては葉璃の家族も大切だ。
今ここに居るべきは、情けなく謝罪の言葉しか口に出来ない聖南よりも、彼に無償の愛を注ぐ大切な家族が相応しい。
「……朝一で来ます。葉璃にそう伝えてもらえれば」
「分かったわ。……あ、セナさん」
「はい」
「あなたが真摯に葉璃を想ってくれていること、私はちゃんと分かってるからね。言ったでしょ、私にはもう一人息子が出来たって」
「…………っ」
病室を出て行こうとした聖南を引き止めたのは、少し照れくさそうな母親の笑顔だった。
刹那目を見開いた聖南の心臓が、懐が深いという言葉では片付けられない母親からの〝息子〟という単語に、ドクンっと鳴った。
それに触発されるように、徐々に目頭が熱くなる。
「ありがとう、ございます……」
深々と頭を下げ、聖南は病室をあとにした。
おもむろにサングラスをかけると、足早にエレベーターに乗り込む。
だが上を見上げいくら誤魔化していても、熱い雫はいくつも聖南の頬を伝う。
聖南はしばらくの間、裏口から出る事が出来なかった。
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