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36♡夢の価値
聖南が俺に耳打ちした事。
それは、──。
〝メイクはしてていいけど衣装に着替える前……十九時二十分に一回こっちの楽屋に戻って来い。事情は後で説明する〟
……という意味深なものだった。
きっちりと時間まで決められてますます謎なのに、事情は後でって。いったいどういう事なんだろう。
メイク後にLilyの楽屋を出るのは、相当にリスキーだ。
でも今日は生放送特番当日。
通路を行き交うスタッフさん達は自分の仕事をトチらないように戦々恐々としてて、しかも出番を待つアーティストさん達は滅多な事がないかぎり楽屋から出てこない。
マスクをして、帽子を深く被って、関係者専用パスを首から提げてれば……そうすぐにバレるって事はなさそう。
だってみんな、今日という日を成功に導くために長い期間準備してきたんだよ。
秒刻みで組まれたタイムスケジュール通り、いかに正確に進行出来るかが重要で、スタッフさんとアーティスト側の緊張感がハンパじゃないのは当然の事。
華麗で豪華なステージでのパフォーマンスを客席や視聴者に届けようとする気持ちが無きゃ、成り立たない。
ミスの許されない現場ではそれが当たり前だ。
自分のことで精一杯──俺だってそう。
この期限付きの秘密を抱えた瞬間から今日まで、俺に出来ることを俺なりにがんばってきたつもり。
誰にも邪魔させない。させたくない。
今日が〝最後〟だからがんばるんじゃないんだ。
正攻法で干す、と言ってた聖南の思惑とはちょっと違うのかもしれないけど、俺に出来る復讐は、ヒナタでの有終の美をアイさんやメンバー達に見せつける事だと思った。
オープニングの数分間でさえ震えちゃう情けない俺が、踊ってる時だけは輝いてるってみんなが言ってくれる……それを信じて、〝がんばる〟。
こうなったからには、俺にだって意地があるもん。
──トントン。
気まずい顔合わせを覚悟で、俺は意を決して下を向いたままLilyの楽屋の扉をノックした。
メンバー達の着替えが終わったという連絡が、足立さんから林さんに伝達されてすぐにここへやって来た。
「──失礼します」
声を出せない俺の代わりに、入室と同時に林さんが挨拶をした。俯いた状態で、俺はペコっと頭を下げる。
賑やかだった室内が、ピシッと凍り付いた。
俯いてても分かる。
俺に注がれる驚愕に満ちた視線。勇気を出してチラっと顔を上げると、想像通りの光景が視界に入った。
お揃いのちょっとエッチな衣装に身を包んで、バッチリメイクの施された全員が俺を凝視してる。
「お疲れ様です。大変申し訳ございませんが、本日は僕がヒナタのそばに終始ついておりますので、把握の方よろしくお願いいたします」
そう言って俺の背中を押した林さんの言葉には、若干のトゲがあった。怒り混じりの圧も感じた。
「……よろしくお願いします」
返ってきたのは、怪訝な表情を浮かべた足立さんの上辺だけの挨拶のみ。メンバー達は黙りこくって、楽屋を仕切った〝いつもの場所〟に向かう俺をただ目で追っていた。
──わぁ、暗いなぁ。
さっき寝かされてた空間の半分くらいしかないそこには、衣装とパイプ椅子が一脚用意されていて、林さんに促された俺は恐縮しながら腰掛ける。
通路の外とは真逆の、不気味なくらい静かな楽屋。俺が来たことでどんよりしちゃって、暗雲まで立ち込めてそう。
……でも分かってたはずでしょ?
オープニングに俺が出演してるってことは、リカさん達も知ってたよね?
それなのになんであんなに驚いてたんだろ。みんな俺のこと、オバケでも見るような顔してたよ。
林さんを見上げると、予想以上の重たい空気に苦笑いが止まらないみたいだった。
そんな最悪な雰囲気のなか、さらに追い打ちをかけるような囁きがパーテーションの向こう側から聞こえてくる。
「な、なんで居るの?」
「入院したって聞いてたのに」
「オープニングには居たじゃん」
「こっちには来ないと思ったのよ」
「もしかして入院ってデマ?」
「実は何とも無かったんじゃないの」
「誰よ。ガセ掴んできたの」
「じゃあアレ意味無かったってこと?」
「てか、あたし達がアレやったって……バレてないよね?」
「バ、バレるわけないじゃんっ」
「大丈夫だよっ」
──もう……やだなぁ……。全部聞こえてるよ。
このヒソヒソ話が慣れっこな俺は、こんな事で特に深いダメージは負わない。嫌だなって思うだけ。
心配なのは林さんだった。
起立したまま俺を見つめてくる林さんの苦笑いが、だんだんと怒りのそれに変わっていく。
今にも飛び出して行きそうだったから、咄嗟に林さんのシャツの袖を掴んで首を振った。
俺は大丈夫。こんなのもうへっちゃらだ。林さんが怒らなくていいよ。
「ハルくん……」
瞳で伝えた思いは通じて、林さんがさらさらと俺の頭を撫でてくれた。
うん、そうだよ。こんなことで俺は今さら傷付いたりしないし、怒りも湧かない。
ステージでの光景を見て薄れた、一言物申したかった気持ち。それも今ゼロになった。
残念だった。とにかく、……残念。
その会話を聞くまで、俺はほんの少しの可能性を信じてた。この期に及んでも、だ。
ほんとに俺ってばお人好しだよね。
俺と林さんが何も反応しないのをいい事に、悪意まみれのヒソヒソ声はまだ続いてる。
──頭が痛くなってきた。
なんで分かんないのかな。どうやったらそこまで他人を嫌えるのかな。
自分たちがどれだけの事をしたのか分かってない。分かってないから、反省もしてない。
制止すべきの足立さんはすぐそこにいるのに、だんまりだし。昨日の事情を知ってるのか知らないのか分からないけど、明らかに俺に対して好き勝手言ってる彼女達を少しも止めやしない。
信じたところで無駄だったな……と林さんに苦笑を浮かべて見せたところで、慌ただしくこの楽屋の扉が開いた。
コツ、コツ、と軽やかで足早なヒールの音は、パーテーションのすぐ近くで止まる。
「……ハル!!」
「あ、ミナミさん……! お疲れ様です」
顔を見せたのは、今にも泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにしたミナミさんと、もう一人。
さっき〝ハル〟を仕上げたメイクさんだ。ミナミさんが連れて来てくれたらしい。
「ごめんね、ハル……っ。無事で良かったよ……」
「心配かけてすみません。俺はこの通りピンピンしてますし、諸々のお話はあとで……」
さすがにメイクさんの前で深い話は出来ない。
ミナミさんの「ごめんね」の気持ち、俺にはしっかり伝わってるから大丈夫だよ。
それより早くメイクをしてもらわないと、出番直前の聖南との約束に間に合わなくなる。
少しでも練習を……と思ってここに来てみたけど、とてもそれが出来るような空気じゃないしね。
「あ、ハル。さっき……トイレに居た?」
「えっ? と、トイレ?」
えぇ……なんでそんなこと聞くの?
大急ぎでメイクさんが準備してくれてるのを横目に、ミナミさんがそう俺に耳打ちしてきた。
俺は今日、まだドーム内のどこのトイレにも行ってない。ずっと聖南たちが居る楽屋に居て、ここに来たのもほんの三分くらい前だよ。
首を振ると、とんでもなく怖い話をされた。
「実はついさっきハルが女子トイレに入ってくの見かけたの。でもCROWNのマネージャーの……成田さん、だっけ? が、トイレ前で張ってて声かけられなかったのよ。ていうか、いつの間にここに来てたの? 瞬間移動したの?」
「……えぇっ!?」
やだ、怖いこと言わないでよミナミさん……!
ちょっとだけ笑顔になってくれたのはいいけど、分身がトイレに居たよと聞かされた俺は、かなり背筋が寒くなった。
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