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第1話 花橘
ふっ---とかすめた気配に、彼はわずかに首を巡らせた。外と室内を隔てる格子のあちら側に灰青の狩衣が平伏していた。
彼は、一瞬、眉をひそめ、だが何も見なかったように、再び経机に目を落とした。読むでもなく開いていた史略の項をめくる指を押し留めるように、やや掠れ気味の癖の無い声音が彼の横顔に投げられた。
「御前さま---」
無視して、書物に視線を落とす。だが、黒々とした墨跡は奇妙な記号の羅列のように崩れて、眼の前をふわふわとさ迷い、彼の意識を繋ぎ止めてはくれなかった。
今一度、格子の外から、声音が飛んできた。あまり抑揚の無い、ただかすかに都訛りらしい癖があるな---と彼は改めて、狩衣の男の声を分析してみた。が、そのようなことは、なんの慰めにもならなかった。
「程なく、殿のお渡りにございます。お支度を---。」
ぱたり---とわざとらしく音をたてて書物を閉じても、狩衣の男は微動だにしなかった。なお苛立ちを募らせる彼の眼に、近習の少年がふたり、半ば怯えつつ控えている姿が映った。ふぅ---と息をつき、つぃ---と立ち上がると僅かに青みを帯始めた空の片隅に明星がかすかな光を放っていた。
「気が知れぬ---」
彼方を見遥かしながら、ゆるゆると格子の方に足を進める姿は、至って平静ではあった。が、その穏やかならぬ胸中は、ややひそめられた眉根が整った顔立ちを厳しいものにしていることからも見てとれた。
しかしながら---残念なことに、彼の面差しは、如何にも柔和であった。柳楊の眉に切れ長の黒目がちの眼、つぃ---と通った鼻筋は小ぶりで、やはり小さめの唇は紅を差しように紅く、毒舌を吐いていてさえ、野薔薇の花弁がそよぐようだった。色白な肌には若干の刀傷が薄く残ってはいるが、むしろ嗜虐性をそそる趣でさえある。すらりと伸びた四肢には薄くはあるが、充実した筋肉が張りを与え、その容貌を一層、均衡の取れた『美』に近づけていた。
彼の名は、白勢弥一郎頼隆。つい先頃までは、隣国、佐喜の国主であり、主城である安能城の主だった。才知に秀でた戦上手で、若輩ながら小国である佐喜を大国の侵攻から守り抜き、仮面を着けた戦姿から『今稜王』と渾名されることもあった。
が、つい先だっての戦で数と策に勝るこの国の主に敗れた。本来ならば、敗軍の将として、斬首、切腹になるところを自死すら赦されなかった。
ー菩薩のようだ。ー
と称されるその容貌と才知とを惜しむばかりではない、この城の主たる九神直義の浅からぬ執着が、彼をこの世に留め、この鷹垣城の奥深くに押し込める由縁となっていた。
ーそれにしても---ー
湯殿から戻り、夜着に着替えさせられながら、頼隆は、部屋の中に今一度目を巡らせた。虜囚なれば、座敷牢暮らしは至極当然のことではあるが、牢というには豪奢すぎる眺めであった。
広々とした二間続きの居室。前室は書院を兼ねた居間となっており、几帳で隔てられた寝室の違い棚にも趣味の良い香炉などの調度がしつらえられていた。
刃物らしいものが全て取り除かれている以外は、格子を外せば、賓客の客間のようでさえある。
ただ---。
頼隆は、褥に目を落とした。当然のように二つ並べられた枕が、今の頼隆の立場を示していた。
『九神直義の愛妾もしくは囲い者』
というのが、頼隆の現状だった。
夜伽を強いられた当初は抗いもした。が、『今更であろう。』という直義の含み笑いに返す言葉もなく、同時に国の兄弟の生命を質に取られては成す術もなかった。
ふぅ---と息をつき、経机にもたれて、ぼんやりと眺める月はおぼろげに霞んで、遥かな故国の宵を思い出させる。
ー兄上---。ー
花を愛でながら、酒に弱い頼隆のために茶を酌み交わしながら、夜更けまで語り合った庶腹の兄の優しい微笑みが脳裏を過った。
どれほど心配をかけているか---は、頻繁に送られてくる文と進物でイヤというほど感じる。が、この現状を知らしめるわけにはいかない。
実際、頼隆の現状を知っているのは、先ほどの狩衣の男---この城の執事であり、九神直義の側近(片腕)である柾木恒久、とふたりの世話係の近習の少年、そしてこの城の当主、九神直義と正室の綾姫---あとは分からない。が、白勢の家中の者も、この九神の家中でも、頼隆が『人質』として囚われていることは知っていても、『室』として囲われていると知っている者はまずいない---筈だった。それほどに、人の出入りの厳しく制限された領域に彼は置かれていた。
「何を考えている。」
頭上から低い艶のある声が、頼隆の耳を捉え、彼の目線を此の方に引き戻した。ちらと目を遣ると、二十代後半に差し掛かるであろう男の逞しい躯体が、どっかりと頼隆の傍らに座り込んだ。浅黒く焼けた肌は油でも引いたように照り輝き、男らしく整ったやや強面な顔立ちとともに益荒雄ぶりをいや増し、頼隆の胸内に焼けるような痛みを起こさせた。ーそなたのような姿形(なり)であったなら---ー
このような境遇に置かれることなど、なかったはず---と嫉妬と羨望を禁じえない頼隆の胸中など、直義には分かるはずもない。
「どうした。いつもながら、機嫌が悪いのぅ。」
直義は、ぐいと手を伸ばし、頼隆の細い腰を抱き寄せた。
「止せ。----機嫌など良い筈がなかろう。」
男の体躯を押し戻そうにも、二回りは太いであろう腕はびくともしない。
「何故、そのように意固地になる。」
直義は頼隆の白磁の如き滑らかな頬に存外に長くしなやかな指を触れた。がその手はやはり、頼隆のそれよりはるかに大きく肉厚だった。片保の掌で頼隆の頬を包み込むようにして、じっ---と頼隆の眼を見つめる。
奥深く煌とした輝きを放つその瞳は、確かに天下を挑むに相応しい威厳すら備えているとは、思う。だからといって---
「女(おなご)のような扱いを受けて喜ぶ武士が何処におる。しかも、我れは国主ぞ。由緒正しき源氏の末裔、白勢の当主ぞ。」
軽い溜め息を洩らし、いきり立つ頼隆を宥めるように、静かに、耳許に囁き、そして、なおさらの怒りを煽るのはいつものことだった。
「惚れてしもうたものは仕方あるまい。いい加減、往生いたせ。知らぬ仲でも無かったではないか---」
キリリ---と眉がつり上がり、なお何か毒づこうとする唇を口付けで塞いで、軽く吸い上げた。息苦しさにもがく両肩を抱きすくめ、頼隆の身体から力が抜けるまで、思うさま、口中を貪った。
「痴れ者が---」
軽く咳き込みながら、こちらを睨む頼隆を軽々と抱き上げ、褥に投げ入れて、直義はニヤリと頬を緩めた。
「観念いたせ。存分に啼かせてやろうゆえ、世俗のことなど忘れ果てて、儂に溺れてしまえ。」
「誰が、そのような-----っ、んぅ。」
問答は、それまでだった。頼隆は、自身はそれとの自覚は無いが、睦事に弱い。衣の内に隠された肌は柔く触れられただけでも、敏感に反応する。裾を割り、手を差し入れれば、先走りの露を溢すまでに如何ほどもかからない。両の脚を割り、身を潜り込ませれば、直義の背に爪を食い込ませて、止めどなく甘い喘ぎと啜り泣きを溢れさせる。
ーだから、世俗には置けぬのじゃ。ー
直義は吸い付くようなその肌に灯った小さな薄紅の突起を強く吸い上げ、身を捩る頼隆の秘奥深くを更に激しく穿ち、頼隆の最奥に精を迸らせた。
何度も背を仰け反らせ達していた頼隆は、最奥に注がれた熱に堪えきれず、自失していた。
ーこのような様、他の誰にも見せはせぬ。ー
まだ、やっと十九になったばかりの頼隆は世間の醜悪さを知らない。世嗣として、国主として大切に護られてきた彼に世俗の劣情は遠かった。
数年間、直義が悪心を起こして、父親の使いとして城を訪れた頼隆を手込めにしようとしたのは、ほんの出来心だった。が、その瞬間から、惚れた。
直義の行状は、頼隆の口が硬い(というより、どう伝えていいかわからなかっただけだが---)こともあり、人の耳に入ることはなかった。
しかし、度々の文から気配を察した頼隆の庶兄が父親に進言し、余程のことでも無ければ、頼隆が他国に使いに出ることは無くなった。庶兄の懇願もあって、十五の年には白勢の家督を継ぎ、国主となった。かの庶兄は、十歳以上も年かさであることもあり、頼隆の後見として、父親亡き後も頼隆の周囲に目を光らせていた。
『我が殿は、弥勒菩薩の写し身におわしますれば---』
代わって使いにきた庶兄に遠回しに過保護を責めた折にしらっと言い切られてから、直義には、この庶兄が一番の恋敵となった
直義は計略づく力づくで、その恋敵から生き菩薩をもぎ取った。
だが、直義は頼隆を菩薩にしておく気は無かった。頼隆は彫像ではない。血肉を持った、血の通った『人』である。なれば、当然、人の世の歓びを知って然るべきであり、それを教えるのは、他でもない自分でなければならなかった。
己れ以外の者の劣情に触れさせることなど、到底許せることではなかった。
『殿方とは、ほんに我が儘なものでございますなぁ---』
既に嗣子と幾人かの子を成した直義の正室の絢姫は、身体の具合が思わしくないこともあり、褥を共にするより、直義の良き相談相手であることを自負し、喜びとしていた。
この度も、頼隆の居室のしつらえ、衣装の支度、手配に采配を奮ったのは、他ならぬ絢姫だった。
直義より五つばかり年上のこの妻女は、頼隆と初めて引き合わされた時に、しばらく言葉を失っていた。
『この方は、まことに男---いえ、人でおわしますのか?』
目を真ん丸くする妻に直義は苦笑を禁じえなかったが、事のついでに自室でなおもぼぅっ---としている妻に問うてみた。
『絢よ。頼隆を女(おなご)と見間違うたりせなんだか?』
『致しませぬ。』
絢姫は、意外にも、きっぱりと言いきった。
『人の世の女には、もっと生々しきものがございます。あのお方にはそれが無いのです。画幅から抜け出てきた天女であると仰せになれば合点もいきましょうが---。
むしろ、あるお寺に祀られている若く美しい御仏の像があると聞き及んでおりますれば、その像のお方が血肉を得たのか---と。』
直義は苦笑し、なおも絢姫に問うた。
『お主も、あれを弥勒菩薩とでも言うか。』『いいえ---』
絢姫は、軽くかぶりをふって応えた。
『その像は、阿修羅王であると聞いております。三面六臂の少年の姿の像でそれはそれは美しいと---』
『阿修羅か---。』
仏に帰依したが、元は鬼神。帝釈天と長きに、渡って戦い続けたが、とうとう決着が着かなかったという---。
『なれば、儂は釈尊か。』
揶揄して笑う直義に、絢姫はふふ---と笑みをこぼした。
『帝釈天でございましょうよ。』
『ん?』
『お釈迦さまほど、悟りきってはおりますまいに。鎧兜に刀を振りかざし続けるなれば、やはり貴方様の目指すは帝釈天。かの阿修羅王を如何に懐に抱き込むか---私もしかと拝察させていただきます。』
ほっこりと笑む痩せた面差しに、久方ぶりに血の気が蘇ってきたようで、直義はほぅ----と胸のあたりに安堵を感じた。
『なれば、しかとご笑覧あれ。儂が観世音菩薩どの。』
『まぁ---。』
露を帯びた橘の花が窓の外で静かに揺れていた
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