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桃太郎

 ようやく辿り着いたその地は、荒涼としていた。見えるものと言えば赤土とゴツゴツとした岩ばかり。海に囲まれた島ながらも、浜辺の松林を超え、切り立った岩になんとか指をかけ、よじ登った更に先、その岩によって天然の要塞のごとく堅牢に守られた島の中央部は、埃っぽく感じられる。 ――こんなところに、本当に奴がいるのだろうか。  そう思ったと同時に、背後から、それも頭の上のほうから、声が聞こえた。 「ようよう来たか、桃太郎」  桃太郎と呼ばれた若者はゆっくりと振り向いた。 ――この地に人語を解するものは、私の他に鬼しかおらぬはず。ならば今、名を呼んだ者は。  人語を解する者と言えば、村を出る時には三人の供がいたのだった。彼らは長らく戦のないこの時世、職にあぶれ食うにも困る武士であった。しかしいくら困窮の極みとあっても、本来仕えし殿でない者に付き従って鬼退治の供をする、などと知れたらまずいと名も名乗らないので、桃太郎は仕方なく機敏な知恵者を猿と呼び、愚直なまでに忠実な男を犬と呼び、各地を飛び回っては手柄を立てたという剣の達人を雉と呼んだ。  桃太郎は困った者には情けをかけよという老いた養い親の言いつけを守り、彼らにもよくしてやった。  ところが、やっとの思いで森を抜け海を渡り、鬼ヶ島の浜辺までたどりつくなり、猿が死んだ。彼の手中には毒草があり、近くに散らばるキビ団子にも練りこまれていることが分かった。団子は桃太郎の好物で、桃太郎を毒殺せしめんとしたことは明らかであった。団子に混ぜ込むうちに、誤って自分が口にしたらしい。  しばらくして、今度は犬が死んだ。切り立った崖の中にも足場を作ってよじ登れそうな場所をようやく見つけたものの、嵐が来て足場を組むのを諦めた夜のことだった。桃太郎が寝ている隙に槍を突き立てようとしたところに、雷が落ちたらしい。  犬の亡骸を前に、奴らは鬼ヶ島の財宝を横取りせんと近隣の村から差し向けられた刺客じゃ、鬼ヶ島のありかさえ分かれば用無しとぬしを殺めようとしたのであろ、その罰が当たったのじゃと雉が教えた。雉は忍びの里の者であり、各地にちらばる仲間から聞いたと桃太郎に言った。忍が身分を明かすのは法度であろうと桃太郎が言うと、冥途の土産話じゃと雉は答えた。そうして桃太郎に向け振り上げた太刀が背後の大樹に刺さって折れて、雉を串刺しにした。  禍々しい者か、あるいは神々しい者か。分からぬ加護があるものよと桃太郎は思った。  そうしてもはやここに人語を解する者は、桃太郎より他に、鬼しかいない。 ――しかし、真に鬼だと言うならば、こんなに緩慢な動きの私など、とっくに八つ裂きにしているはずだ。だが私は八つ裂きにもされていないし、何よりその声は優しく、敵意も殺意も感じない。だからこそ私は、ゆっくりと振り向いたのだ。その間に、その声の正体を思い出せはしないかと期待しながら。  だが、期待虚しく、何も思い出せなかった。  どうしてだかずっと、鬼ヶ島のことを思うと胸が締め付けられる思いがしていた。懐かしいような、誰かに呼ばれているような、そんな思いが。だが、桃太郎には村の老夫婦に拾われる以前の記憶がない。鬼ヶ島に行く目的は、鬼退治でも宝でもなく、自分がこんなにも惹かれるものの正体を知るためだった。 「おまえが、鬼なのか」  桃太郎は直截に尋ねた。 「あなたも、村人も、そう呼んでいるな」 「何故、私を殺さない?」 「俺は誰も殺さない。ましてや、あなたを」  桃太郎は黙り込んだ。目の前の鬼は、確かに大きななりをしているが、噂に聞いていたような、常人の何倍もあるような化け物ではない。赤ら顔でもなく、角も牙もない。ただ、長く波打つ赤い髪をしていた。真っ青な目をしていた。鼻は高く、唇は赤かった。 「一人か」と桃太郎は言った。赤鬼やら青鬼やら、徒党を組んで襲ってくるかもしれないから気をつけろと、村の長老からは言われていた。 「一人だ」と鬼は答えた。「ずっと一人だ。……あなたを見失ってから」  桃太郎は鬼を凝視した。私を見失ってから? 何を言っているのだ、この鬼は。そう考えた途端に、桃太郎の頭が急に痛み始めた。しかし、そうと悟られれば襲われるかもしれぬ。桃太郎は必死に痛みに耐えた。 「何故私の名前を知っている。そして、何故私がここに来ることを知っている」桃太郎は痛みを隠して問うた。 「俺が付けた名だからだ。来ることは知っていた。だが、今日だとは知らなかった」  鬼の声が届くごとに、桃太郎の頭の痛みが増大した。「ならば、何故、ここにいた。まるで待ち伏せしていたかのようではないか。今日と知らずにいたならば、何故」 「待っていたのは今日だけではない。毎日、毎日、来る日も来る日も。一日たりとも休むことなく。……三百年の間」 「さん、びゃく……?」 「ああ、そうだ」  桃太郎の頭の痛みは限界を超え、耳鳴りがして、足元がふらついた。鬼がその体を支えた。否、抱きしめた。 「何をするっ」桃太郎は刀に手をかけようとしたが、眩暈がひどくて動けない。 「何も覚えていないのだね」悲しげな声が響いたと思った瞬間に、気を失った。  桃太郎は、夢を見た。  夢の中で、これは夢だと理解できた。美しい花畑にいた。そうか、私はいよいよ死ぬのかと思う。これは夢ではなく、あの世への入り口なのだろう。 「あなたの好きな桃だよ」誰かの声がした。気が付くと自分の手の上には桃が一個、載せられていた。甘い香りがする。桃には魔除けの力があると聞いたことがある。これを食べたら地獄に堕ちずに済むだろうか。桃太郎は桃にかぶりつく。皮ごと口に入れたのに、産毛の感触はなく、滑らかな舌触り。そして甘く、かぐわしい汁が滴り落ちる。桃太郎は瞬時に何もかもを理解する。これは桃ではない。恋人の口づけ。あんなに愛した、あの人の。一生添い遂げると誓い合った、あの人の。  桃太郎は、目を開けた。目の前には、鬼の顔。いいや、愛する恋人の。恋人の舌が自分の舌にからみつく。もう一度瞼を閉じると、涙が溢れた。 「何故私をそばに置いてくれなかったのか。私たちはひと時たりとも離れてはならなかったのに」泣きながら私は恨み言を言う。 「思い出してくれたのか」 「結婚の契りまでして、何故捨てた」 「捨てるものか。捨てられようか」恋人も涙して、より強く私を掻き抱いた。 「ならば何故三百年も探しあぐねて」 「そう急くな。体に障る。順に語ってやるのだから」  恋人は語りだす。三百年の漂流を。  三百年前、私たちは恋人であった。確かに愛し合い、結婚を誓った。ただし秘された恋人たちであった。何故ならば恋人も私も男子であったから。  私たちの住まう国では、男同士がかくなる関係を持ったなら、即ち死に値する重罪であった。だから、私たちは逃げた。けれど、逃げても逃げても追手が来る。何故なら私はその国の皇子であり、国の習わしに依り、生まれてすぐにチップを脳に埋め込まれ、生存確認も現在位置もすべて監視され管理されていたから。チップは私の成長と共に脳と一体化し、取り外すことなどできなくなっていた。  恋人は私の従者の一人であった。私の身辺警護の任にふさわしく、頑丈な肉体と強靭な精神の持ち主だ。私は彼を見た瞬間に、初めての恋をして、最後の恋で良いと思ったのだ。彼がその想いに応えてくれるまでそう時間はかからなかった。しかしチップは私の過剰な感情レベルの上下にも反応する。恋をして、感情レベルが頻繁に上下するようになれば、監視している者たちにも異変を悟られ、秘すべき恋も暴かれ、二人は引き離されるに違いなかった。 「たったひとつ方法がある、と」恋人は苦渋の顔で私に言った。「博士に尋ねたのだ。チップの信号をどうにかして止める術はないのかと」  博士。私はその顔も徐々に思い出すことに成功した。数少ない、私たちの味方だった。 「あなたを仮死状態にする。生体反応をゼロにする。それしかなかった。彼らがあなたの命をあきらめるまで。だが皇子はあなたしかいなかった。いつまでそうしなくてはならないのか、皆目わからなかった。次の皇子が生まれるまでか。王国が滅びるまでか。それには数年身を潜めていれば済むのか、百年の後か。実際にはその三倍もかかったのだが。  俺は賭けるしかなかった。装置は一人分しかなく、あなたにこの計画を話せば、きっと一人で眠るのは嫌だと言うに違いなかったし、感情レベルが乱高下して異変に気付かれてしまう恐れもあった。だから俺はあなたに内緒で、あなたを仮死状態にした。装置は淡いピンク色をしていて、丸みを帯びていた。俺と博士はこの装置を桃、この計画を桃太郎というコードネームで呼んだ。あなたの脳のどこかにそれが刻まれて、そうと名乗ったからあなたは桃太郎となった」  そうだ。その直前の記憶だったのだ、さっきの夢は。恋人は悲しそうな顔をして、私に桃を食べさせて、口の端からその果汁をしたたらせている私にキスをした。思えばあの時、何か盛られていたのだろう。そこからの記憶が私にはない。 「問題もあった。スリープ状態のあなたは年を取らない。装置から出た後もその副作用で老化速度は極めて遅いままだ。俺だけが年を取る。同様に肉体の老化だけを極度に遅らせる、そんな薬ができたのは、あなたが眠りに就いてから十年後のことだった。だから俺は、あなたよりも随分と老けた見た目になってしまった。あなたと同じ年だったはずなのに」彼は苦笑した。それでも、再会してから初めての笑顔だ。 「見た目など」私は笑った。「これから共に同じ時を刻めるのなら、どうということもない。それとも、おまえは私がいつまでも若くないと好いてくれぬのか」  彼は私をまた抱き締める。「いいや。永遠を誓ったのだ。姿形がどうであろうと」 「鬼であろうと」 「俺が怖いか」  私は彼の頬を撫でる。「怖いとも。何よりおまえと私を結ぶ縁の強さが恐ろしい。――何故私がここに来ると分かったのだ?」 「これだ」彼は小さくきらめくものを取り出した。指輪だ。「眠りに就いて百年後。さすがにもう追手もなく、あなたを起こそうと試みた。だがその時、あろうことか大地震が起きて、桃は大水に流されて。追手を欺くためあなたのチップを無効化した、そのせいであなたの行方が探せなくなった。あなたの目覚めは偶然に頼るほかなくなり、そして、唯一の望みは、あなたにあげた結婚指輪」  桃太郎は自分の薬指に光る指輪を見た。気が付いた時にははまっていて、育ての老夫婦は貧しく、これを売ればいくばくかの金になるまいかと外そうとしたこともあったが、どうあっても外れなかった。 「それには受信機がついている。発信は出来ないけれど、俺の出す信号をキャッチすることができる。キャッチすれば、その方向にあなたを導く」 「導く?」 「そう、それはほんのちょっとした悪戯心だった。ケンカした時にでも、あなたが俺のところに来たくなるような、そんな周波数を出すような仕組みはできないかと博士に頼んで、結婚指輪に仕込んだのだ。そんなバカげた悪戯と、いくつもの偶然に頼るしかなかった。偶然あなたが目覚めて、偶然桃から出た場所があなたが生きていけるような地で、偶然指輪の周波数をとらえる範囲に辿り着く。そのすべてが合致するまでに、更に二百年かかった。どこかの国のどこかの村に桃から生まれた男がいる、そんな噂を耳にしたのは三十年程前だ。その男は最初から青年の姿をして、ほとんど年を取らないと言う。間違いない、あなただと思った。その地を探し当てたのは二十年前だ。だが、彼の地では俺のこの見た目は目立ちすぎた。私は村に近いながらも、人の立ち入らぬこの島で待った。あなたが俺の信号に導かれる日を。いつだったか村人の乗る船が時化でこの島に漂着したことがあった。彼らは俺の姿を垣間見て、村に戻って鬼がいると言って回った。それだけの話だ。そのような噂を俺は気にしない。いいやそれどころか、その噂が故に、あなたはこの島に興味を持った。そして信号をキャッチした。だからその村人には感謝せねばなるまい」  夢のような大ボラのようなその物語を、私はしかし、もはやどうでも良いものとして聞いていた。「ならば私はこの島でずっと暮らす。これからは、おまえと共に」 「いいや、一度は帰らねば。あなたが帰らぬとなれば騒ぎとなろう。あなたが宝を独り占めしたなどと誤解されたなら、欲をかいた者たちがまたいつあなたを探し出し、襲うことを企てるやもしれない」  私の脳裏に三人の男の顔が浮かぶ。猿、犬、雉。あれらの者が次々に倒れたのは。 「もしや、おまえが供の者らを?」 「俺は何もしていない。奴らは俺が姿を見せた途端に慌てふためいて、勝手に団子をのどに詰まらせ、闇雲に槍を振り回し、太刀で立ち向かおうとしただけのこと。おおかた鬼なんぞに見られてはまずい、後ろ暗いところがあったのだろうよ」  私は自分の恋人が、あの猿よりも機敏かつ知恵者であり、犬よりも忠実で、雉よりも剣術に長けた男であることを思い出した。そして、(いたずら)に誰かを殺めるようなことは決してしない男であることも。 「ここに少しばかりの宝がある。あなたの衣装に縫いつけられていた宝石と金の飾りだ。俺とここで暮らしてくれると言うのなら不要であろう。これを持って村に帰れ。鬼は退治して、宝を持ち帰ったと言うがいい。そのまま英雄となり、村で過ごすも良い。もし俺と一緒になってくれるなら」男は桃太郎の指輪に自分の指輪を合わせる。桃太郎の指輪は簡単に外れた。「これをもう一度取りに来るといい。あなたはもう信号をキャッチすることは出来ない。あなたの意志でここに戻ってきてくれたなら、その時こそ、結婚式を挙げよう」 「戻る。必ず。すぐに」 「三百年待ったのだ。一年でも十年でも、俺にとってはひと眠りに過ぎない」 「では瞬きの間に戻ってこよう。そうして、そののちには、この世界で二人だけ、ゆっくりと流れる時間を共に過ごそう」  桃太郎は鬼に口づけた。  邪悪な鬼を退治して、村に財宝を持ち帰った桃太郎。  村人たちは歓喜でそれを迎えたが、まつりのさなかに桃太郎は消え、その後の行方は杳として知れなかった。  (完)

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