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第1話 鞍馬 一

 その日、京の鬼門、数多の天狗が棲まうという鞍馬の山は、漆黒の闇の中にあった。  木刀を手にひたひたと木の根道をゆく前髪断ちの稚児がひとり。誘い込まれるように、手繰り寄せられるように奥の院、魔王殿へと足を進める。  その後ろから今ひとりの稚児が声をかける。 「お待ちくだされ、遮那王さま。」 「どうした、牛若。」  切れ長の目が、ちらと後ろを一瞥する。 「お危のぅございます。」 「何が------?」  形の良い紅い唇が小さく笑う。  前をゆく遮那王、後ろに従う牛若丸---その顔立ちは見誤うくらいに良く似ていた。  細面の輪郭に、柳楊の眉、切れ長の眼に、通った鼻筋、小さく形の良い唇、桃果のようにほんのりと赤みの指した頬。---違うのは、纏う気配と、その両の瞳だった。  牛若丸は、漆黒の濡れたような瞳で、遮那王を見つめる。ふふっ---と口の端で小さく笑う遮那王の瞳は金色だった。 ー異形の者。ー  遮那王は、その誕生の時より、この世ならぬ瞳で、周囲を見つめていた。母である常磐御前は恐ろしさのあまり、遮那王を捨てた。ー誰にも明かさず、この鞍馬山に預けた。  そして、同じ月日に生まれた乳母の子、牛若丸を我が子である---と人々に示した。父親は、源義朝、源氏の棟梁の末子---として育てた。  一方の遮那王は、この鞍馬の奥の院、俗人ならば近寄ることも出来ない、魔王尊の膝下で秘かに育てられた。  九つの歳に牛若丸が同じ鞍馬山に稚児として預けられたのは、この遮那王に仕えるためだった。 「今宵は新月じゃ。魔王様が降りられる。早う参らねば---。」  遮那王は、月明かりすらない底闇を少しも惑うことなく魔王殿への道を渡っていく。誘なわれるように、手繰り寄せられるように、奥へ奥へと歩を進めた。後に続く牛若丸は、一点の灯りも無い中を転ぶように後に続いた。  牛若丸が、息を切らせながらようやく魔王殿の六角堂に辿り着いたときには、遮那王はじいっ------と、その扉を見詰めていた。大きな錠前の着いた、太い閂の填まったそれが、僅かに開いていた。  牛若丸は息を呑んだ。眼前で、遮那王がするすると衣装を解き始めた。 「遮那王さま?!」  白い肌が仄かに光を帯びていた。一糸纏わぬ裸身が、鞍馬の闇に浮かび上がる。しなやかな肢体は柔らかな光に包まれ、美しい稜線をいっそうこの世ならぬものにさせていた。 「牛若よ、暫し、そこで待て。」  遮那王は髪までも解き、牛若丸に僅かに振り向くと、六角堂の入口に、つ------と足を掛けた。両の目を見開き、硬直する牛若丸の前で、遮那王の姿は扉の内に消え、再び我れに還った時には六角堂の閂は固く閉ざされ、錠前もしっかり元のままに掛けられていた。  しかし、遮那王の姿は何処にもない。 「し、遮那王さま!?」  暗闇にひとり取り残された牛若丸は、深閑とした闇に叫んだ。何も、見えない。さわさわと木々の葉ずれの音ばかりが耳を掠める------その静寂の恐ろしさに身を震わせる牛若丸の傍らに、気配があった。身を固くする牛若丸の耳許で、魂の奥底から響くような、深い低い声が囁いた。 「そなたは、此れにて休むがよい---。」  牛若丸の意識がゆるりと遠ざかる。その耳許に幽かに笑い声と嬌声の入り交じった、遮那王の声を、聞いた。 ー魔王さま、わが主さま------。あぁ、あぁん---あっ、あぁあぁ---。ー  艶かしい、蠱惑的な声音が、呪文のように牛若丸の正気を奪っていった。

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