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第1話
わたしの一日は、夢秤の調整からはじまる。
夜のうちに降ってきた夢は、その香音(かね)の振れ具合で秤の傾きを変えてしまう。先週この安アパートに越してきた起業家のおかげで、わたしの仕事道具は悪夢のほうに傾きやすい。寝る前に悪戯をして少しばかり心棒をずらしておいたのに、滑稽なくらい斜になっている。
どうやら昨夜、隣の男にはよい夢が降りたようだ。アーモンドに似た甘い匂いが残響にうっすらと揺曳している。彼はいま、夢から醒めたに違いない。わたしは髪をふりはらい、その芳香を胸いっぱいに吸いこんでベッドからおりた。
ふと、この傾斜具合を誰かに見てもらいたいと秤を直す手をとめてみたが、誰に見せるあてもない侘びしい独り暮らしだ。そしてまた、週に一度、依頼があればいいほどの「夢使い」稼業より、日々の真面目な勤労のほうが大事ではないかと、そんなふうにも考えた。田舎にいたころならば思いもしなかったような発想だ。
よって、わたしは不精した。一日くらい怠惰をしても秤の調子が悪くなることはないと決め付けて、金と銀に輝く夢秤をそのままにして家を出た。
都会では、夢使いの居場所はたくさんある。たとえば、わたしのようにコンビニエンスストアのアルバイト店員などだ。
『どんな夢でもお望みどおり。あなたの願い、「夢」なら全部かないます!』
店長のすすめでカウンターの端に専用の依頼箱を用意したものの、わざわざ用意してくれたポップの「文句」にはとまどった。わたしの生まれた土地では、こんなあからさまなことをいうひとはいなかった。それはたいてい口伝の紹介で、わたしの師匠も一見のお客をとることは年に一度もなかったはずだ。店長は都会じゃこれが流行りだと笑って取り合わず、箱はその場所に鎮座した。
それからふた月、ぽつぽつと依頼がくるようになった。店長はわたしの副業を面白がり出勤時と帰りに忘れずに中を確認するよう指示するが、同僚はこちらの横顔を見て面白くなさそうな顔をする。大学生と聞いているので、たぶん、わたしより幾つか年下なのだろう。テレビや雑誌から抜け出してきたように垢抜けて如才ない男の子がいるのだと感心した。
ところが、そんな彼の、女性のように整えられた眉が顰められるのは決まってわたしが依頼書を手にするときのことだった。それを見るたびに、自分が万引きでもしているような嫌な気持ちになった。
むろんわたしは勤務時間にその箱を覗いてみたりすることはないし、仕事の妨げになるようなことは一切していないつもりだ。都会の人間には、この仕事がまじないじみた怪しい行いのように写るのかもしれない。そうは思ってみたが、わたしの気持ちは晴れなかった。
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