32 / 120

第二部「階梯と車輪」26

 おれを好きなのに逃げて。  脇腹になすりつけられたことばが真実であるとからだが識っている。余裕のなさを羞じるのはプライドのゆえか。あっけなく達するわけにはいかないと唇を噛むが、極度の抑制はかえって自身を追い詰めた。  押しのけようとして触れた髪、それさえ濡れて柔らかく指に絡みつく。思わず掻き乱すとお返しとばかりに逆さに撫であげられた。肌を粟立てて腰を引く。だが後ろは壁で逃げ場がない。女に触れられたことのない場所を探られただけで急激に体温があがり、太腿に緊張がはしる。抵抗や拒絶までが呑みこまれ、狭い浴室に荒れた息遣いが反響し、退(しりぞ)くことも出来ぬまま目を閉じた。  かつて物足りなさや拙さにかえっていとおしさを感じた行為が、同じ器官をもつ不思議にありえないほどに呼吸を狭めた。不思議。いや、ふしぎではないのか。  見おろす肩はあくまで広い。暗がりでもそれとわかるほど伸びやかな四肢を屈めてこちらの欲望を掬い上げようとしている。こんなに夢中でされたことはなかった。切なさがこみあげた。欲されていることは事実だ。欲望に嘘はない。  足裏と背後に無機質な冷たさを感じながら、左手で彼の形のいい頭を撫でまわし、右手で耳をくすぐり首筋に指をはしらせた。それを機に速度をました愛撫に身をゆだね仰のくつもりがからだを前に倒すようにして彼の頭を掻き抱く。苦しげに耳に届く息にさえ感じ入り、容赦なく押しこんだ。  程なく背骨から脳髄を撃ち抜かれる衝撃にからだを震わして果てた。くずおれる膝を起こそうとすると強い力で抱きとめられる。押し潰すおそれもない相手なことに安堵した。合わさった胸の拍動が思いがけぬほど近く、彼の膝のうえに座らされそうになりその肩に手をついてしりぞくと、髪を乱暴に掴まれてくちづけられた。先ほどよりはさすがに丁寧で心得たようすだった。そうして剥ぎ取られた服が足首にまとまりついて無残に濡れているのを押しやって、その手をそのまま彼の前に伸ばして握りこむ。正直、咥えるには抵抗があった。  あなたが好きです。  いま言葉は要らないと思った。裸で向き合ってしゃがみこみ互いを瞳にうつしながら、余計なことだと感じた。だが、彼は俺の顔を挟み込むようにしてくりかえした。  あなたが、好きなんです。  素っ気なく頷くにとどめて手は動かした。昂ぶりがおさまればさすがに醒める。けれど醒めても嫌悪はなかった。まだ熾き火のようにからだの中心に熱があった。足らないと訴えていた。  おれはあなたが好きだと言ってるんです。ちゃんと聴いてください。  くりかえされてはじめて、こちらの疑いが相手に知られていると悟った。去り際にあんなことを口にしたのだから当たり前か。だが、こういうときに他のひとが好きだなどと言い出すものはいまい。それに、じぶんを好きなのになどと口に出来るのは彼だからだ。みなに愛されて、取り囲まれて生きている彼だから言えることだ。  あなたが夢使いだと知る前から好きでした。  彼は、わたしの手をそこから無理やり引き剥がした。視線がかち合い、欲望に掠れる呼吸がじぶんのものだと知る。  あのひととあなたは全然違う。性格も何もかも似てもいない。面影もない。  夢使いには、独特の佇まいがある。気づくひとは気づく。  そう返そうとしてやめた。  彼が、泣いていた。  頬をつたい落ちる雫は髪を濡らしていた雨でもシャワーでもない。  おれは、一生あのひとを好きでいると思ってました。そうでなければ申し訳ないと。あのひとへの償いのように、じぶんを縛りました。けれどあなたに逢ってしまった。  わずかな明かりに照らし出された面(おもて)をじっと見た。綺麗な顔をしていると感じていた。呆然とただ、その美しい泣き顔を見つめていた。  わかりますか。おれは、あなたが好きなんです。ほんとうは好きになりたくなかった。ましてあなたが夢使いだと知ったあとは余計に辛くて。けど、止められなかった。止められなかったんです。わかりますか。わかってもらえますか。  わたしはこたえをもたなかった。何を言っても嘘になる。むなしいものに。だから、かわりに彼の頭を引き寄せてくちづけた。この想いが伝わるようにと願いをこめて。

ともだちにシェアしよう!