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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢見ることさえ忘れはて」2

結婚式の二次会が始まる前に、バッグにしのばせていた「お守り」を便器に流した。チョコレートクッキー。あのひとが、あたしにさいしょにくれたもの。取引先が主催するパーティー会場で、こういう場所で我先にと皿をいっぱいにする女はみっともないわよねといきなり悪口を聞かされながら。  ごくたまに、こういう駄菓子が欲しくなる。どこででも買えて、すぐ口にほうりこめるから。  あのひとはそういって、パティシエが拵えた愛らしいデザートを脇においた。IT企業の社長夫人。年が年だしもうこどもは産めないかもしれないとこぼしていた。それに夫とはずっとしてないからと呟いた。横顔に不満という名のさびしさがはりついていて、誘われたのだとすぐわかった。  寝るのはかんたんだった。酔い覚ましにお茶をしないかと部屋に誘われた。あたしはいいかげん職場自体に飽きていた。どうせ結婚すればやめるのだろうと嫌味をいわれ女性社員たちからは遠ざけられストレスで肌が荒れた。生まれて初めてひどく醜い吹き出物ができて皮膚科にせっせと通っていたころのころだ。  胸のあいたドレスを着るとやたら目立つ位置にあるそれを、爪の先で弄られながら責められた。さわらないで、ひどくなるから。あたしはそう抵抗した。でも彼女は微笑んだ。膿んで紅く腫れあがったそここそが可愛いと褒めた。そのことばを耳にして変におかしくなった。黒のミニドレスに染みがつくのが怖かった。あとでちゃんとクリーニングに出してあげるからと着たままされた。こんなに綺麗なひとがあたしを欲しがっていると思うとかつて感じたことのないほどの羞恥に襲われた。身悶えして泣いて恥ずかしがったあたしを彼女はやさしく宥めた。あたしは、甘えきって声をあげた。白くなめらかな柔らかい肌にくるまれて思うさま啼いた。  そういえば、彼女はあたしの倦みきった顔をみて、いまのひとは夢なんてみないのかしらと、思ったそうだ。貴女はじゃあ、どんな夢をみるんですかとたずねると、こたえのかわりにキスされた。それが、はじまりだった。  だから別れた。  あのひとはあたしに甘えなかった。頼りにもされなかった。遊び相手にされてとあたしを叱ったひとがいるけど、それが正解。  あたしが幾らがんばって稼いだって、彼女の旦那にはかなわない。こんなことなら、父がマンションを買ってくれるといったとき素直に受け取っておけばよかった。意地を張って稼ぎに見合ったアパートに住むあたしを、あのひとは立派だと褒めたけど、たぶん本心はちがったのだろう。あの当時は、そんなこともわからなかった。  だからきっと、あたしはあのひとにとって、すぐに口にほうりこめて飢えを満たしてくれる安物のチョコレートクッキーでしかなかった。  振袖はホテルの美容サロンにおいてきた。あとで丸洗いして呉服屋が届けてくれる。地元に帰ったと思う、そういう利便性は。黒のミニドレスは封印した。文字通り、思い出がしみついていてつらかった。  パウダールームで、あたしは酔った勢いで花嫁におねだりをした。 「いいお相手でよかったじゃない。誰か同期のひとでも紹介してよ」 「あなたはだって、決まった人がいるじゃない。しかもほんとは地元に戻るつもりないくせに」  あたしと従兄が婚約しているとみなは思っている。土地財産の関係で冗談のように始まったはなしが勝手に広まって困っていると、友人の前では口にする。でも、じつのところ不便ではない。先生とゴタゴタしたときも、最後にはこれで決着がついた。  地元に帰る気はないけど結婚には真剣なのだとくりかえしてみたものの、彼女はとりあわなかった。こちらのウソなど見破るはずだ。去年、七年つきあった彼と別れてすぐ、今日の式のお相手にあった。それから一月もたたずに結婚するとメールがきた。結婚とは、どうやらそんなものらしい。元カレとの長の月日がうそのようにすっきりと澄んだ目をして、式の日の花嫁の満艦飾な装いに不似合いなほど落ち着いていた。  だからなのか、お祝いの言葉の華々しい応酬をおえて開口一番、痩せたんじゃない、と問うた。前はじぶんのことばかり話す子だった。満ち足りてるんだな、と感じた。あたしは素直にうなずいた。それなりに食べているはずが太らない。太れない。  先生のからだを思い出す。あれを世間では幸せ太りと呼ぶ。  先生に抱かれたのは、父があたしとそう変わらない若い娘を愛人にしたからだ。それまでは、父がかわいそうだと思ってきた。あの母の夫ではしかたがない。家名を誇り、娘になんの断りもなく思いつきで従兄に娶わせ、じぶんは芸術家気取りのくだらない男にいれあげていた。だから父に愛人ができたのは喜ばしいことだった。相手を知るまでは。  傷んだ髪を背中までのばし、手入れのいきとどかない肌に安物の香水をふりかけた女に幻滅した。もっと美しいひとを囲うべきだ。あたしの反撥は、わかりにくい形で自身の肉体を苛んだ。  先生があたしを好きだったのを利用した。興味もあった。同じ年頃の男の子と不器用に恋愛をするのは向かなかった。みな幼すぎた。いや、ひとり、いた。夢使いになると言っていた彼。彼とはうまくいかなかった。あたしが悪いのだけど。  けれど、ひとまわり以上も年上の男でさえ、いざ関係を結ぶとコドモになった。甘えかかられて呆れた。あたしは醒めた。それまではあんなに美しい画をかくひとだと尊敬していたのに、どうでもよくなった。ただの男にしか思えなくなった。  裸になれば、誰もがただの男と女なのだと、そういうことを知らなかった。

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