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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢も見ない」6
師匠はもとより、大先生の顧客は一見さんが多かった。
はなしがどこにどう繋がるのかわからずに、おれは首をかしげた。すると、彼はおれの手に顔を寄せたまま口にした。
彼らには香景が視える。それを聞く。道を歩いていて、香音の残り香を聞いて声をかける。または魘の残響に夢を要らないかと問う。相手はほぼ断らない。
それを世間で何と呼ぶか、知っている。あの師匠も写真でみたその祖父もとびきりの美男というのではないが、ともに押し出しのいい男だった。あの調子でやさしく声をかけられて嫌な気持ちのする女性は少ないだろう。不安な夢をみるひとはたいてい日常に疲れている。真摯に相談事にのってもらえる時間をもつことは有り難いものだ。たとえ代価を支払うのだとしても、否、支払うからこそ気楽でもある。だから同性である男でも、悪い気はしないかもしれない。夢使いは一般に話術も得意だ。彼女のいった言葉ではないが、世知にも長けている。
おれが目を見開いてのち納得して肩をおとしたのに彼は気づかなかった。おれの指の背に唇を触れたままで続けた。
俺は苦手だった。知らないひとに声をかけるのもそうだし、何より香景に集中するのに難儀した。誰にでも向き不向きはある。だが師匠の手妻、その繊細さには憧れた。真似ようとして出来なくて苦しかったが今となってはそれでよかったと思う。後からついていくだけでは越えられない。
それに、そんなふうでいながらも師匠は家に女のひとをあげなかった。俺がいたせいもあるが、その前から独りを好んだ。師匠は家事全般なんでも器用にこなしたし、昔気質のひとらしくそこらの若い女性よりずっと丁寧な仕事をした。愛人と揉めたのは大体においてそのあたりのことらしい。流儀を変えないひとだった。俺は弟子だから徹底して合わせたし、共働きで早々に鍵付の自室を与えてくれた家よりも実は師匠の暮らしぶりのほうが不思議と身に馴染んだ。
俺は、師匠が結婚するのだとしたら女弟子をとるときだと思ってた。その、つまり、じぶんの好みの女性を選ぶものとばかり……
言いよどんだ理由は理解できた。性的な交わりのことを示しているのだろう。このひとは普段あまりその手のはなしをしない。くだけたところがない。
夢使い同士の夫婦はいる。夢使いになるのには性交渉が不可欠だとされていた。ゆえに師匠が弟子に手解きをすることもある。男同士でも女同士でもそういう関係があったと記す古文書は少なくなかった。この国の歴史には、皇族に春を鬻ぐものとしてその技巧を讃えられた夢使いもいる。かつて、一夜の宿の礼に香音を鳴らして渡り歩いた夢使いたち。そこに性交渉の痕跡を嗅ぎとるのは当然のはなしだ。それでもこのひとは自身をそういうものではないと位置づけようとしていた。その潔癖さゆえに。
潔癖。おれはそう思っているがはたして本当のところはどうなのだろう。この先もそうした態度は守られるものなのか。不埒とは程遠く真面目なひとだからこそ、それが職能のひとつであると覚悟すればそれをすることを厭わないのではないか。そういう気もする。だがいましばらくはそれを問題にしたくはない。おれは、このひとの髪一筋でさえ誰かに触れさせたくはないのだから。けれどそうした感情をおれはこのひとに伝えたいとは思わない。伝えてはならないとも、考えている。
彼女をはじめてみたとき、夢使いに似ているとおもった。目が離せなかった。
おれの頬に唇を寄せながらの呟きは吐息まじりであったが、恋人に愛撫されているさいちゅうに妬けるほどおれは了見が狭くはない。たんに異性として好きだというはなしではないと予測していた。
師匠と彼女が結婚するとはおもってもみなかった。
微笑を含んだ声に肌を粟立たせながら目をとじる。まだ結婚すると決まったわけではないと言い返そうとして、やめた。おれは、あの男がこのひとに感じ続けた劣等感をしっている。けれどそれをこのひとは知らなくていい。そして、もどかしいほどにゆっくりとした濃やかな手の動きに、このひとが女性を抱くときはこんなふうなのだと理解した。おれは、そういうことをすぐさま察してしまうじぶんが嫌いではなかったし、このひとのそうした無意識の正直さをも憎まなかった。おれに気を許してくれている、そう感じるとただひたすら嬉しかった。それだけでなく電話の最後におれによろしくと言ってよこす彼女の気の廻し方や師匠の計算尽くめの告白もうらまない。そうしたものひとつひとつに、おれはいつの間にかこのひとの傍に確固たる居場所を獲得したのだと感じられた。このひとの暮らしの一部、人生のなかにくみこまれているとおもえた。
半年前までは見も知らない他人であったひとが、いまおれのすぐ近くに、吐息が混じり合うほどの距離にいることの不思議をおもった。ここは、おれが恋い慕い、願い、憧れ、途中であきらめるべきかと悩みながらも追い求め、ついに手に入れた場所だった。
おれの夢であったものがここにあった。
もうこんなことはのぞめないと、のぞんではならないと思ってきた。こんな幸福が訪れるとは想像もしていなかった。
からだを寄せ合い、お互いの手のなかに熱を吐き出しあって果てた瞬間、おれの頬をつたった涙をこのひとは甘いものでも舐めるようにそっと唇ですくいとっていった。
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