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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢でさえ、なくていい」1

 長い黒髪が乱れて枕に散っている。見事に波打ったシーツを腹の下に感じ、まさに情事の翌日といった風情なことに、おれはとうとう声を押し殺してわらった。  このひとと暮らしはじめて数か月たって、ちかごろようやくこういう姿を見ることができるようになった。つまり、ふだん眠りのとても浅いひとが、おれの隣で安らかに寝息をたてている。いとおしいという感情の熱をおれは長らく忘れていた。いや、知らなかった。  このひとは「仕事」のあと疲れきっているせいか気が昂ぶっているためなのか、おれにされるのをひそかに好んだ。あくまでひそかに。じぶんではけっしてそう認めない。おれに何事であれお願いをしないこのひとは、やさしくすると女のように扱うなと不満な顔をし、激しくすると欲しがりすぎるとおれを叱る。けれどあなたもそうとうなくせにと言い返せば本気で腹を立ててベッドから出て行きかねないひとなので、おれは粛々と仰せに従うふりをしている。  そういうこのひとが、頼りなげな瞳でおれをみて解放をせがみながら髪を振り乱してしがみついてくるとき、おれは何か、脳のどこかが間違っていると思うほどに亢奮した。  昨夜というかもう朝のことだが、そんなふうだったのだ。  おれはさいきんひどく早寝だ。大学にいきコンビニでバイトをし、それから少しばかり勉強をしたあと一眠りして、このひとが「仕事」を終えて帰宅した明け方を襲う。ふらふらのこのひとを、ふだんは間違っても素直に抱きついてこないこのひとを思う存分やりたいほうだい、壊れもののように大事に抱えてすみずみまで愛撫する。このひとのからだで、おれの触れてないところはどこもない。そうやっていると何故かわけのわからない文句をぶつけられる。直截の刺激を欲しいのだということくらいわかっている。けどおれは知らん顔してやりすごす。その時点ではじぶんから言いだせぬこのひとの強情さに煽られる。いくらでもするのに。する用意があるのに、このひとは乞わない。ついに腹立ち紛れに自身で擦りあげようとする手をあわてて掴む。まったく油断も隙もない。そんなふうに致すつもりならもっと違うかたちでいやらしく見せてほしい。まさかこのひとにそうはねだれなくて(なんの前置きもなく言ったりしたらしばらく口をきいてくれなさそうだ)、おれはどうしてと苛立ってかわりに痛いくらいに責めてしまう。もちろん詰られる。くりかえすうちにだんだん足並みが揃ってくる。たんに余裕がなくなってくるとも言う。あとはふたりして高みに登りつめて果てるだけだ。  仕返しが怖いが、それがまた、いい。頗るイイ。よすぎるほどに。たぶん、おれは真正のマゾだ。このひとに酷くされると嬉しい。おれにだけは我慢しないでいてくれる。そう思うと悦びで気が狂いそうになる。さいちゅうに死ぬのだとしたら最高だと思う程度にイカレテいる。  ひとめで恋に落ちた。  というのは嘘だ。  おれたちはコンビニのバイト同士として知り合った。おれが先輩で、このひとがおれより少し年上だけど新人という関係だった。  はじめは苛立った。このひとの、まるで慌てることのない落ち着き払った態度に。その泰然とした佇まい、優雅とさえ呼べそうな立ち居振る舞いの美しさに不似合いな、どこか茫洋とした、瞳にたゆたう感情の行方のわからなさに。  ちぐはぐな印象のあるひとだった。仕事の段取りその他の覚えは早いのに、あまり声がでないし積極性がなかった。なにより挨拶が不得手にみえた。それがいまどきの、語尾のだらしなく間延びしたそれに戸惑いがあってのことだと気がついて、おれはこのひとを少し理解した。的確な質問の仕方、丁寧にメモをとる姿勢、ゆっくりだが早合点や間違いのない仕事ぶりも好感がもてた。教える側のおれの負担を気遣い感謝のことばを口にする姿に頬が緩まないではなかった。おれはこっそりとシフトに手心を加えた。先輩面で、何か気になることがあったら言ってくださいなどと申し出て帰り道までいっしょに歩いた。  このひとが「夢使い」だと知って、おれはじぶんを疑った。  それでも好きになるじぶんをとめられなかった。おれがこのひとに夢中なのを店で働く誰もが知っていたというのに、当の本人だけ気づかなかった。好きだとはっきり口にするまで知らないでいた。おれはだから、その前までは断られるものとばかり思っていた。あくまで「友人」として、やさしく冷たい態度をとられているのだと信じていた。それでもあえて伝えたのは、おれは何があろうとあなたの味方だと覚えていてもらいたかったせいだ。  告白の後、このひとの態度が変わったことでおれは有頂天になった。あきらかにおれをそういう意味で意識しだした。けれど、そうやすやすと事は運ばなかった。

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