61 / 120
第三部『夢の花綵(はなづな)』「視界樹の枝先を揺らす」4
随分と浅ましいことを書いた。だが恐らく己の弟子はこうした件は教えられまい。魘をあれほど見事に扱いながら溺れない。強靭なのだ。あの剛胆さゆえに魘を恐れずに触れることができる。おそれれば捕りこまれる。彼はそれをよく知悉している。
夢使いは碌な死に方をしないといわれるがそのとおり爺の祖父は魘に囚われて狂死した。遡ればまだいるだろう。爺はそれを恐れていた。一夜限りの関係を好んだのもきっとそのせいだ。
弟子の依頼人はその当初から今に至るまで成人だけだ。自身それを遵守していると告げた。それが彼らしいけじめのつけ方であろう。すでにあの年で弟子をもったのだから言い訳もたつ。
だが己は面白くない。
手を離れたのだから何も言わないが。
あれほどの能力を持ちながら自身に枷を嵌めているようにおもえてしようがない。
そういう己でも昔は頭を悩ませた。
あの男は七つの夢見式にこどものからだに触れることがしばしばあると口にした。こちらが眉を顰めると、必要がありそうな子には、とこたえた。知らなければ困ることを教えてやっただけさと嘯いた。みな何も知らなさすぎるから、そこに在るものを見ないふりをするのに慣れすぎているから可笑しいし実際におかしくなるのだと哂った。
言い分はのみこめたが同意はしなかった。するとこちらの目をのぞきみて、きみはこんなところにきてしまう夢使いだからねと芝居がかった顔つきで呆れてみせた。こんなところに来ているのはそちらも同じだと言い返しもしなかった。その無言をあの男は嫌い、なにか喋りなよ、きみは好い声をしていると目を伏せた。青白い瞼をみおろしながら頑なに口を閉ざした。こどもじみていたのはどちらかくらいは理解していた。
あの男に一晩中物語させられた。主に夢使いの出てくる逸話ばかりを。しどけなく寝そべって和綴じ本を捲る男に呆れはてた。語りに耳を傾けるそぶりもない。それではなしやめたとたん顔を伏せたまま続けてと命じられた。たまに反抗し黙っていると顔をあげて凄まれた。有無を言わさぬ風情だった。まだ肌寒い四月のこと、裸の肩に安物の布団をひきあげた男にお寒いなら服をきたらいかがですかと物腰低くすすめると、ならばここに入れと誘われた。きみの寝床だろう、遠慮なく入ればいいと言いながらシーツに辷(すべ)らせた指はいかにも艶めかしかった。だが遠慮なく断った。すると長く艶やかな髪をことさらに見せびらかすよう揺すってこちらをねめつけた。女とするより好くしてやるのにと言い募られて、己は端坐したまま物語の先を続けた。客は本を閉じてこんどこそ横になり目を細めた。己は朗々とかたりおろした。世が世なら首を斬られかねない立場であったとおもいながら。
斬首の像はいくども脳裏を訪った。打ち落とされる首(こうべ)はいつも己の顔をしていた。
己の妻は、己の先祖を幾人か死に追いやったことを知らない。それでかまわなかった。事の始めから、あいつにはこの土地に縛られない生き方を望んだ。
ものがたりのことだ。
これはなんの苦行かと初日は問うた。あの男は蕩けるような笑顔で修行だよとこたえた。驚きと怒りについで襲いきたのは目の前の人物の大様な怠惰への讃嘆であった。風呂と排泄以外のすべてを寝台のうえでやりのけた。きみは料理もうまい。ますます気に入ったよと、あの男はまんざら世辞でもない様子で平らげた。二日目は物憂い気分になった。出ていく気がなさそうなうえに己の言い間違いをはなはだ不愉快といった顔つきで訂正した。客はうつらうつらしているがはなし続けるこちらは一睡もしていない。だがはなしやめると目をあける。部屋の外には大男が二人控えていた。かれらは交代できて羨ましいとさえおもったとたん流し目で、だからわたしと寝ればよかったのに、と微笑まれた。それは見なかったことにした。意地にもなっていた。
そして三日目の明け方、ようやく眠りについた男の隣に身を横たえた。死んだように眠るという形容そのままの姿に己はその寝息をたしかめるため屈みこみついに倒れ伏した。あんなによく眠ったことは後にも先にもない。己たちふたりの夢使いのうえを香音がいくつもいくつも通り過ぎた。その轟音にとりまかれながら視界樹の根の音をはっきりと聞きわけた。
目が醒めたときあの男はきちんと服を着込んだ颯爽たる姿で己を見下ろして口にした。
きみに礼を言う、十数年ぶりによく眠った。
つまりそれは七つの夢見式以来だと匂わせて。
ともだちにシェアしよう!