63 / 120

第三部『夢の花綵(はなづな)』「視界樹の枝先を揺らす」6

 あれは七月のことだった。短い梅雨に水不足が懸念され猛暑らしい日差しが照りつけていた。にもかかわらず呼び出しは常に戸外でその不満を漏らしていたころだ。  会話を盗み聞きされたくないのだとは察していた。己たちは夢使いのはなしばかりした。その歴史や伎について互いの知識と経験を共有した。それらを附きあわせてみると夢使いを一概に流浪の民とするのは実情に合わないことや得意分野に地域差がある様相があらわになった。  それらは書きとめなかった。互いに予感があった。いずれ必ずそれに相応しい者によって調査される。異能者である事実はそれとして、じぶんたちが何者であるのか、またはその歴史について知りたいと思わない者がいるだろうか。  知ってのとおり、その予感は外れなかった。  己はよりにもよって暑くなりはじめたそのころに髪を伸ばしはじめた。あの男は癖のあるそれに指を絡めてからかっては極上の笑顔をみせた。己が夢使いらしくするのを嬉しがるのだ。容赦なく他人を断罪し何事においても高みの見物といった態で距離をとるのを常とした男がだ。正直にいうと戸惑った。  つまり己は何もわかろうとはしなかった。今ならそれがわかる。弟子をもって一人前にした今なら、あのときのあの男の気持ちを少しは理解しているといって許されるだろう。  その日は珍しく相手のほうが先に来ていた。この糞暑いのにきっちりと麻の上下を身にまとい洒落た帽子までかぶっていた。そこだけ涼風が吹いているようだった。  きんじょうの孫に手を出したのが露見した。島流しだ。  きんじょうというのが何をさすのか意味をとれなかった。島流しまできて、それが今上であると理解した。己の無言にも気づかぬ態であの男はそのままなにげないようすで呟いた。闇のなかで行われる房事について日の下で教えても意味がなかろうにと。  それがこの男の一貫した主張であると知っていた。  大学をやめる。きみの田舎に行くことができず残念だ。  己は口をひらきかけ、何を続けるつもりなのかと自身をうたがった。慰めの言葉を欲しがる相手とも思えなかった。梅雨あけの素晴らしい快晴の日に、己たちは講堂の外、人通りの少ない並木道を外れたなおも暗い木陰で向かい合っていた。腋や背中を濡らす汗は湿度のためばかりとは言えそうもなかった。わけもわからず緊張する己を前にしてあの男は出逢ったときと変わらない涼しげな横顔を見せていた。  誰かひとりの人間に想いをかけるのが苦手だ。  唐突に呟かれた言葉とおもえたがそうではなかった。  わたしの師もまた祖父だった。きみの「爺」には劣るとはいえ優れた夢使いだったがわたしを一人前にする前に自死した。遺書にはさきの戦争で同じ夢使いを軍に売り渡した件が記されていた。きみの祖父の名前もそのなかにあった。  そこで己の顔を見てゆっくりと言い聞かせるようにして述べた。結果からいうときみの祖父は捕まらなかった。きみの地元の名士とやらに救われている。あの一帯でもっとも歴史の旧い社の寄進者の一族だ。おや、知らなかったという顔をしているね。きみはこんなところで時間を無駄にしないで「爺」のもとではなしを乞うべきだな。  その謂いに異論はなかったが己は己でたとえ飾りにしかならずとも学士と呼ばれる資格が欲しかった。あの男はそんな気持ちを見透かしていた。  人間ってやつは不便なものだね。わたしはわたしで知りたかった事柄から遠ざけられる。  それで直感した。己の視線にあの男はそれを是とするかのように頷いた。退学を強いられ地の果てに追いやられるのは子ども相手に犯した不道徳のゆえではないと。否、それもあるだろう。次の言葉がそれを証明した。  夢使いに清く美しい態度ばかり望まれてもこたえられるはずもない。夢をもつことは称揚されるがその夢はみな明るく希望に満ちている。それは晏(あん)しかない視界だ。わたしの居所はない。我が先祖たちは主上に仕え夜伽をし魘(えん)をもってその敵を呪った。殺した記録もある。昔のことは気にすまい。そうもおもう。だが、そうかんたんに変われるだろうか。わたしの得意はたしかに古文書に記された先祖と同じなのに。しかもそういうじぶんがけっして嫌いではないし少しも愧じてはいないのに。みなはそれを許さず、わたしを恐れる。  艶やかな笑みだった。おれは囚われたようにその相貌を見つめていた。

ともだちにシェアしよう!