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第三部『夢の花綵(はなづな)』「降りしきる花と見まがう夢」sentimental journey

 ケータイを友達の家においてきた。本当なら現金をありったけ引き出してカードやその他も破棄してしまいたいくらいだった。そこまでしては自殺する気かと疑われそうでやめた。  死にたいわけじゃない。  ただ、どこかへ逃げ出したかった。  とはいえ何もかも捨てていちから人生をやりなおす気力もない。そういうはなしでもない気がする。あたしは仕事でそれなりに成功している。「居場所」をつくった。ただそこさえも今、めんどうくさいことになっている。  ただの逃避。弱い人間のすること。  あんなはなしをするんじゃなかった。あたしは知らなかった。気づかなかった。かれの舞台、その演出が好きで一緒にやってきた。作品に係われてうれしかった。互いに親友だとおもっていた。だから、貴女は幸せな結婚をしているのだとおもっていたと口にされてはじめて理解した。かれのきもちと、じぶんの「瑕 (きず)」を。夫と別れてくれと懇願されておどろいたし怒りもおぼえた。つまり見当違いな言葉を吐かれたわけではなかった。あたしは謝罪を受け入れなかったけれど、かれはかれであたしが仕事を放棄するはずはないと踏んでいた。だから、このままその事務所に転がりこんだら大喜びするにちがいない。それも実はかんがえた。悪いはなしではなかった。たぶん抱かれることもできる。かれの才能を尊敬してるし、あたしはそこまで潔癖じゃない。けど、続けられるほど強くはない。  ずっと嘘をついてはいられない。まして演技のプロの前で。  あの家から逃げるために結婚したのだと思っていた。   そうじゃないと知るのは悪い気はしない。  夫はあたしの居場所をほんとうに見つけられるのだろうか。  いつでも、どんなときでもわかるのだろうか。  この視界の何処であろうと。  もしそうなのだとしたら、なにもかも許せる気がした。  許せる。  何を、だろう。  許される、じゃないのか。ひたすらに「居場所」を探していたはずが、随分とえらそうだ。  意外に傲慢だとわらってみて、それだけ恨んでいるのだと、憎み、僻んでいるのだと気がついた。    とにかく独りになりたい。    つい癖で、スーツケースできてしまったけど失敗だった。潜伏するには向かないものだ。身軽になりきれていない。それでも、このスーツケースひとつあればしばらく家に戻らなくても困らない。  もちろん逃げていても何も解決しないことくらいわかっている。けれど今は休みたい。なにを手放せばいいのか、何がじぶんの手に残るのか、失いたくないものはなんなのか、そういうことを考える場所がほしい。  山奥の寂れた旅館にでも身を隠すかな。  まずは日よけに帽子を買おう。日傘じゃなく、両手の自由になるものを。  片手をかざし照りつける日差しを仰いだ瞬間、背中に声がかかる。 「ご旅行ですか?」  振り返るとそこに、洒落たサングラスに咥え煙草で懐かしいひとが立っていた。 「店長さん……!」  「おひさしぶりです。どうしました、こんなところでそんな大荷物とは?」  ほとんど不躾なくらいの質問に窮状を察せられたと理解した。このひとのお店で働いていた昔のクラスメイトに会いにきたと言おうとして言えずにうつむいた。すると店長さんは顔を伏せたままのあたしの横にすっと立ち、やおらスーツケースの取っ手を掴んで口にした。 「立ち話もなんですから、うちにおいでになりませんか?」  さすがに戸惑いを隠しきれずどうこたえようか考えたところに苦笑がかえる。 「いや俺の家に是非とお誘いしたいくらいですが、これから娘に会いにいくんですよ。面会日でしてね」  お邪魔しては申し訳ないとおもったこちらの表情を読んで、 「来ていただけるとありがたいんですよ、ほんとうに。約束とはいえ互いにさいきん気詰まりでしてね。昔みたいにテーマパークに連れていけばそれだけではしゃいで喜ぶわけでもない。何か買ってやるくらいしか俺も思いつかないしで、買い物に行きますのでその後の食事までお付き合いください」  最後のほうはあたしの顔さえみないで言い切っていた。本当に助けを必要に感じてらっしゃるようにおもえて、了解の意を伝えるつもりでお嬢さんの年齢をたずねた。 「十二歳です。早いですね。よその家の子の成長は早いっていいますが、俺は一緒に暮らしてないせいかそう感じます」  横顔をみあげて、そこになんとも名づけようのない表情をみとめた。  正直、さっきまではとてもお子さんに会いたいという気分ではなかった。けれどそれをみて気をかえた。  あたしが一生知ることのない感情、それを喚起させる「存在」に逢いにいってみよう。山奥に引き篭もるのはその後でいい。独りになりたかったはずが、どうしてか、そんな気持ちになっていた。 「すみません、じぶんの荷物なのでじぶんで持ちます」  店長さんは一瞬だけ驚いたように足をとめてから、これは失礼と微笑んであたしの目を見てうなずいた。     いまは逃げてもいい。  逃げてもいいけど、じぶんの足で歩こう。  スーツケースを携えて一歩ふみだしながら呟いた。  「お買い物、帽子が欲しいのでちょうどよかったです」 「この日差しですからねえ」  ふたり同時に空をあおぐ。  青空に一線、飛行機雲が突き抜けていった――……。 了

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