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第三部『夢の花綵(はなづな)』「降りしきる花と見まがう夢」はつ恋 2

 あのひとは、わたしとママの一悶着になんとなく気づいた。それなのに何もいわなかった。遠慮していたというよりも自分のことでていっぱいなようだった。しかもそれを愧じていた。わたしにすらはっきりわかるほどに。  かわいいひとだとおもった。じぶんの何倍も年上のひとだけど、いとおしかった。わたしが甘えて泣きついたときもひたすら困惑していた。でも撥ねつけたり嫌がったりしなかったからそこにつけこんだ。  さびしそうにしていた。ちょっとした物音にすぐ反応した。何かを待っていた。  ほんとうは家に帰りたいのだとわかった。でも自分から帰るとは言えないひとだった。  わたしたちはそれからしばらく仲睦まじく暮らした。昼間、ママが気を利かせて出かけてくれた。本音はごはんをつくるのがめんどうだったらしい。それとたぶん、言わないはずだったことを口にして、居辛かったんだとおもう。ママはあんなんで実はひそかにハードボイルドなひとだった。  あのひとは鉛筆でわたしの横顔をかいてくれた。こっちをお向きなさいって言ってくれたのに恥ずかしくて……だから横顔。  じぶんの横顔ってちゃんと見たことなかった。不思議な感じがした。  額に入れて飾ってある。データにして持ち歩いてる。わたしの宝物。  ときどき、いまでもそれを見て泣く。もう二十歳になるのに十二のときの初恋を忘れられない。  好きだった。大好きだった。あのひとは大人で結婚してて、わたしはこどもだけど、ほんとにほんとに好きだった。  あのひとを、じぶんだけが開けることのできる匣(はこ)の中に閉じこめておきたかった。事実、わたしはその肉体を魘で覆おうと試みて、恐ろしくなってやめた。  あれが劣情とよぶものになりえなかったのは、わたしが子どもだったからでも女だったからでもなくて、あのひとの放つ馨が夢秤王の祝福に満ちていたから。  だからあのひとを本来の居場所へと送り出した。晏の使い手のもとへ。あのひとをあがない、あがなわれたひとのところへ。  それでも。  それでも、わたしの恋情のほとんどが夢使いとしての特殊な能力に由来していると考えるのは恐ろしかった。彼女のことは諦められた。でもそうじゃなかったら。もし、そうじゃなかったら……わたしは何をしでかすだろう?  魘でひとを覆い雁字搦めにして埋め尽くすこともあるかもしれない。あのときは力量不足だった。でも、今なら出来るかもしれない。そう考えて膝が震えた。  懼れが、重石のようにわたしを苦しめた。ふとしたときに、冷たい水底に沈んで二度とそこから這い上がれないような気分になることが度々あった。  そういうときは激しい自己嫌悪に陥った。あんなに好きだったひと、あの綺麗でやさしいひとを恨んでる自分が怖かった。それと同時にじぶんのもって生まれた力を捨ててしまいたいと願うことさえあった。  師匠に相談できるはなしじゃなかった。  もとより師匠は恋愛事に疎いひとだった。しかもどうやらその初恋のひとも彼女で、もっというと彼女はわたしの師匠の師匠にあたる男の「妻」なのだ。それは知ってたけど、師匠の件は初耳だった。  なんていうか、よくわからないけど、それを知ってだいぶ踏ん切りがついた。じぶんでもおかしかった。  教えてくれたのは師匠の恋人だ。彼は師匠曰く、元バイト先の同僚でいちばん仲のいい友人で同居人だそうだ。なにそれ無敵じゃん、て本人の前で口にしたら微苦笑でうなずいた。肯定するんだっておどろいた。そういうのはわかっていても誤魔化すものだとおもってた。そしたら、あのひと嘘つけないひとだからね、と聞きもしないのにこたえた。それはわかる。弟子のわたしが師匠はもうちょっと大人になるべきだって心配になるくらいだから。  おれの初恋も年上のひとだったよ、と彼はいった。もうこの視界にはいないけど、と。  わたしは今、彼の初恋のひとのはなしを、師匠を育てたひとから手紙で知らされた。それで、こんな文章をしたためている。  それともうひとつ、わたしの「準備」が整ったから。  けどそれはまたべつのはなし。  あの年は、ほんとうに色々あって、なんていうか、ひとつの節目だったとおもう。  二度目の恋の相手は同じく夢使いの素養のあるひとで、初恋のひとの「養子」だ。お互いが一人前になったら結婚しようと約束した。  人生ってよくわからない。  でも、悪くないなっておもう。  了

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