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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」8

 そのころの上得意はある組の役職もついた構成員だった。年齢は一回り上、顔に奇妙な痣のある大男で自身を不細工だとよく嘲った。俺はそう思わなかった。いや、そういうことを気にしないのだと教えられた。  男が俺の前に専属にしていたのは卒寿を迎えようとする古老だった。さすがに最近は年に一遍もないくらいでだいぶ間が開いた、よろしく頼むと頭を下げられた。  ともかく依頼が変わっていた。何世紀のなんという夢使いがこういう伎を残していてそれを真似てもらいたいなどという依頼が続々ときた。当然こちらも勉強せねばならず得手不得手も意識させられた。どうしても駄目だったときは肝を冷やした。熨斗袋に手の切れそうな新札を用意する男が財布から規定の額をさしだした。俺は受け取らなかった。かわりに次の約束を取り付けた。意地もあった。だがそれだけでなく、じぶんの能力を使い尽くす依頼人に恵まれた幸運に溺れていた。  数か月たったころ、あんたと寝るには幾ら積めばいいと問われた。意味を掴めず聞き返しそうになって慌てて口をつぐんだ。男はぐいと顔を近づけてきた。そのなりでまさか今まで一度も夜伽したことがないとは言わないだろう。  ありません。  男は目が飛び出るほど驚いたようだった。そして俺が嘘をついている様子がないせいか眉を寄せて腕組みした。 「夢使いってのは色を売ってなんぼじゃないのか」 「そういう考え方をする夢使いもいます。けれど、わたしはしません」 「恋人への義理立てか」  そういうわけではないと説明したが、顔色を変えてしまっていた。腹芸は苦手だ。相手もそれに気づいた。 「惚れてるってことか。ならそのほうがいい。寝取られるより寝取るほうが愉快だからな。しかも相手は美男ときてる。堪らんな」  言葉がでない俺の顔を見おろして男は傲然とわらった。  そこでお引き取り願えばよかったのだろう。収入だけならご新規を開拓するなり仕事量を増やすなりすれば解決できた。だが、その数か月の充実ぶりを補えるだけの依頼人はいなかった。  そのころ若く勢いのある起業家や駆け出しの芸能人の依頼もよく受けた。彼らにとってはパーティーの余興、またはドラッグのかわりのようなものであったかもしれない。俺は俺で、その軽薄な付き合いのただなかにある焦げ臭いような孤独の匂いに魅かれていた。  そうした狂騒の合間に男に呼び出された。昼間ホテルに着くと髪の長い男とすれ違った。物凄い形相で睨まれてなお、何故なのか気がつかなかった。男が午睡をとるのはそれまでも何度かあったからだ。  部屋に入って寝乱れたベッドとシャワーの音で何がそこで行われていたか察した。それでも俺は、バスローブをひっかけて出てきた男へと平静をたもって接しようとした。  いま出ていった男、〈外れ〉らしく香音もろくに鳴らせないは尻の具合も大したことないはで二度と呼ばないつもりでいたが、あんたに背格好が似てるもんだから。  〈外れ〉とは、夢使いとして正式に組合に登録していない者をいう。叔母がそうだったと聞いていた。ただでさえ弱い立場の我々のなかでも最悪の地位に甘んずることも多い。非合法な組織に接収されやすいとも。修行の途中で脱落する者がなるだけでなく、高額な組合費を納めるのを嫌う者もよく〈外れ〉た。我々の組合費はすなわち「保険」として機能する。何らかの厄介ごとに巻き込まれやすいがゆえに互助の精神がいきわたっているのだが、あまり仕事がない夢使いにとっては重荷でしかないのも現実だった。  今日のご依頼は。  こないだのはなしは考えてくれたか。  それは、最初の契約時にその件は書面にてお断わりしています。  ずいぶんつれない物言いじゃないか、え? 今だって、あんたにどれほど執心してるかわかってほしくて野暮をしでかしたのに、あんたは知らんぷりでご依頼は、ときた。  男は波打ったシーツのうえに腰掛けて煙草に火をつけた。俺は黙っていた。気の利いた断り文句を口にして切り抜けた経験もあったはずなのに、そのときは声が出なかった。  冷たいおひとだね。  煙とともに吐き出されたそれに胸をつかれた。俺は視線を床に落とした。わけのわからない羞恥に襲われた。するとどうしてか、唇から言葉が漏れた。  母にも、よくそう言われました。昔のことですが。もう二十年ちかく前、いえ、七つから幾度聞かされたことか。  あんたの親ならまだ若いだろう?  わたしが高三の時に事故で二人とも……。  そうか、それじゃ苦労したな。俺も高校のときお袋を病気で亡くしてる。こういう稼業にお定まりだが、親父の顔は知らない。  男はそこで煙草を揉み消した。そして、大学に行ってないのはそういうわけか、と呟いた。それにはただ頷いた。そのまま男は立ち上がり、もうひとつのベッドのほうへと移動した。 「一時間きっかりで起こしてくれ。お袋の夢を頼む」  そんな単純な依頼は初めてだった。でもそれがどれほど大切なものかは痛いくらいに理解できた。  ホテルを後にしてから電話した。一度の呼び出し音で出た。何故ここにいない、振込なんてのはごめんだと言っただろうがという不満声に返した。 「わたしからのささやかな御礼です。何年ぶりかで母の声を思い出しました」  沈黙が落ちた。それから呻くようにして、あんたってひとはまったく、と声をあげた。俺はわらいそうになった。いや、たぶん笑ったのだろう。香音の出来には自信があった。卵菓子のような甘い匂いがあの部屋いっぱいに満ちていた。あの男も俺も、香音の良し悪しにだけはどうしようもなく正直だった。笑っているだろうと見抜かれたが、そんなことはありませんとこたえてすぐ、それで逃げたつもりか、と問われた。穏やかな声だった。なのに俺の心臓は脈打った。 「……わたしは、逃げも隠れもしません」  これでもう御仕舞いにしましょうと言えばよかったのだ。あのときなら可能だった。  言わなかったのだと、彼に声高に罵られるまで、俺はそのことにさえ気づかなかった。

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