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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」17

 あなたを監禁した男は未成年で、教授の講義を受けていた。ゼミも予定されていた。おれが帰国するより前に、だからあなたは教授とはなしをした。  病室に入る前にあなたの従姉に引きとめられた。彼女はあなたには連絡しないでくれと頼まれているのと口にしておれを別室に連れて行った。従うより他なかった。  性的暴行のはなしはそこで聞いた。警察に訴えないという件も。病院に送られた犯人の遺書には成人と同時にあなたを道連れに死ぬと記されていた。しかもその日は救出から二日後のことであった。  おれはあなたが生きていさえすればそれでいいと思ったはずだ。けれどそれは大きな間違いだった。そのことに気づいたのはあなたの顔を見たときだった。  あなたはおれに、大事な研修中に申し訳ないと謝った。死ぬような怪我じゃないから呼ばなくていいと言ったのに、すまない。戻れるなら戻ってほしい。せっかくのチャンスを俺の不手際のせいで台無しにしてしまって申し訳ない。  あなたの意識はおれに対して閉じていた。いや、開くことがどうしてもできないといったふうだった。おれは、あなたという恋人を失ってしまったのかもしれないとようやくにして悟った。  嘘偽りなく記しておく。おれは、そのことに、異国であなたの危機を知らされたとき以上の衝撃を受けた。  それからはあなたも知っての通り、おれは二か月ほど休職した。研修期間とかぶっていたせいでさほど迷惑をかけずにすんだ。なによりも、研究センター設立の本来の「意義」が試されるときだとみなが理解してくれていた。心の底からありがたかった。  実質フルタイムで完全復帰したのは一年後になった。怪我自体は順調に回復したけれど、あなたが「夢使い」として復帰できるかどうかが鍵だった。  あなたがおれの前で泣いたのは、事件からひと月もたったあとだった。あなたのはなしは断片的で、ほとんど前後がわからず、そのときの様子を時系列にそって組み立て直すのが大変そうだった。おれは長くそういう仕事をしてきたのに何も出来ず、ただひたすら、あなたの言葉を奪わないようにしようと気をつけた。あなたはままならぬ言葉に苛立ちながら、それでも話そうとしてくれていた。たぶん、おれのために。  彼女と寝たのかと問われ、おれは首を横にふった。あなたはようやくおれの目をちゃんと見るようになっていて、だから話した。駄目でした。おれは女のひととは暮らせない。  あなたは小さな吐息をついて、なにも言わずにおれの肩に頬をあずけた。おれはその肩をそっと、息をひそめるようにして抱いた。  そんなふうにして、あなたとの距離をちぢめた。時には触れることも、話しかけることすら許されない日もあった。あなたはそれでも、おれを頼りにしてくれた。  あのマンションで、あなたが傷ついた獣のように蹲っているのを見守るだけの日々が永遠に続くように思ったこともある。あなたはものを食べられなくなった。おれの作った料理を捨てるに忍びず、かといって口にも入れられず、椅子にすわって半日過ごしたときもある。手入れされない夢秤は心なしか曇って見えた。あなたの部屋で初めてそれを見た朝、あれほどに美しく輝いていたものが。  それでも、あなたの師匠は心配ないと断言した。これで駄目になるようならそれまでのことだ、世のなかの人間は特別な異能など持たずに生きていけるのだから、と。まして右手は健在であの腕前だ、ただの夢使いとしてでも喰うに困ることはない。夢見式に専念すればいい。  おれは、それに対して何も返さなかった。何故なら師匠はさっきの言葉を吐いたのと同じ口で、もしも彼がこのまま夢使いとしてでない人生を歩むとして、それでも側にいられるものかとおれの目を見て尋ねたから。  おれは黙って頷いた。師匠は安堵したようには見えなかった。けれどそれ以上、問い質すこともしなかった。いざとなれば引き取ると言い出しかねない顔つきだった。おれは、たとえあなたのただひとりの師匠であろうと、いっときであれ、あなたを自分以外の人間に預けるつもりはなかった。  あなたがじぶんの左手に、つまり魘を扱う手に多大な自負心をもっていることは知り抜いていた。あなたの師匠が稀に見る優秀な晏使いであるせいもあっただろう。師匠はあなたと同様、夢見式復興を優先させようとするセンターの仕事には遺憾の意を表明しながらも、後進の育成に精力的に携わっていた。それは、あなたがほとんど反抗的といっていいほどに魘使いとしての名をあげていくのと似ていたかもしれない、  あなたたちふたりの態度は、夢使いの異能の研鑽とその伎の保護伝達にあたるのだが、一部の夢使いたちからは能力に恵まれた人間の驕りと受け止められてひそかな反撥を招いていた。  だからなのか、あなたの失墜の噂は瞬く間に広まった。もとより高額な支払いをすることで著名な依頼人を幾人も抱えていたあなたへの不満や反感は強くあったのだろう。また、下世話な興味を抱くものたちも少なくなかったに違いない。あなたはそれをおれに必死で秘匿してきたし、おれもそれを見ないように努力してきた。  あの事件で、そういうやり方が間違っていたと考えた。だからおれは、どうにかしてあなたを説き伏せ、あなたの依頼人との関わりにじぶんを介入させた。  つまり、あなたをおれの管理下に置いたのだ。  むろん、今に至るまでその件を口外はしていない。けれど気づく者もいる。ヒモ付きの夢使いは非合法な組織に接収される〈外れ〉と似ている。他ならぬ、あなた自身がそれを誰よりも理解したはずだ。  けれど、それをおれに面と向かって指摘しなかった。  おれ自身、いったい何をしているのかと自分へ問わずにすませられはしなかった。それでも、不安という魔物を追い払うことは難しい。削除されたとはいえ、鎖に繋がれたあなたの全裸写真が流出した事実の引き起こす何かも恐れた。  この二年、おれはあなたを囲い込んだ。  師匠が無言のうちにおれに確認したのは実はそのことだった。おれはそれを後になってそれと知ったが、変えようもなかった。  あなたの弟子は、あの事件の後いつからか、おれと親しく話しをしなくなった。おれはだから、本当はわかっていたのだ。  おれが、あなたから離れなければならないのだと。

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