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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」27

 あの日からの記憶がない。毎日なにをして過ごしているのかがわからない。ただ、あがないだけが意識と肉体を目覚めさせ、依頼人からの連絡がようやく背骨の抜けた肉の塊を人間らしく立たせている。  葬儀の連絡は依頼人の会社からいただいた。斎場で例の御婦人に再会した。あのあと一度だけ話したと教えてくれた。あなたの齎(もたら)してくれた香音について長いながい夏休みをもらったみたいだってわらってたわ。そう呟いてから、宿題を出し忘れたわね、と遺影を振り返った。白い花に囲われた依頼人の面差しは、じぶんの知らないひとのように見えた。私人としての顔を見せてくれていたのだと当たり前のことを感じた。  それからふと、ご一緒だったかたはお元気なの、とたずねられた。弔電は彼の手配だろう。だからこそどうこたえていいものかわからなくて正直に、彼はべつの職場にうつったと伝えた。すると、気遣うような表情を向けられた。じぶんという人間は、本当に何もかも筒抜けなのだと可笑しかった。そのひとは少し掠れた声で告げた。 「この年齢になると、驚くことなんて何もないなんて思うこともあるくらいなのに、そんなことないのよね」  俺は、そのひとの両目を見つめた。垂れた瞼にひとみの一部が隠されて、いつも微笑んでいるように見える目を。彼女もこちらをまっすぐに向いた。そしてゆっくりと言葉が紡がれる。 「いきなりこんなことをお願いするのは本当に不躾だとおもうのよ、ごめんなさい。でもね、〈外れ〉た私のぶんも、あがないをしてちょうだい、あなたにはたくさんの香音を鳴らしてほしいの」  うなずくのを躊躇ったのは、そのひと自身の気後れのためだった。 「あなたにはあなたのあがないがあるのだし、だからこんなことをお願いするのは筋違いだと思うのに、なんだかそう言いたくなってしまって……ごめんなさい」 ただ頭を横にふった。 「長いこと〈外れ〉た自分をどう捉えていいかわからなくて、でも、私もいっとき、夢使いになって香音を鳴らしたい、この視界を廻らしたい、そう願った日々がたしかにあったのよね。忘れたくて忘れたわけではないのに……こうして話すことができるなんて、それこそ、夢みたいだわ。不思議ね」  うつむいたひとの柔らかな和紙のように白い額を眺めた。わたしでよければよろこんで、とこたえると、そのひとは晴れやかに微笑んでこちらを見あげた。  「どうもありがとう。またいらして。今度はお仕事じゃなくて、約束よ」  差し出された手を強く握って、はい、と深くうなずいた。  教え子と思われるひとびとが硬く握手するじぶんたちを、どういう知り合いなのかと首を捻りながら遠巻きにしていた。  例の海岸へは向かわなかった。鴎が頭のうえを横切るのを目で追っただけで、タクシーで駅に直行した。帰りの列車に乗り込んで窓にうつる自分をみた瞬間、強烈な吐き気に襲われた。手足が痺れ冷や汗がとまらずにトイレで吐いた。指定券が無駄になったがずっと立っていた。座れなかった。  壊れている。  自分でじぶんを嘲笑った。  仕事がある日はいい。  そうではない時間をどう過ごしているのかが、本当によくわからない。  粗相はしていないようだった。誰も、ほとんどの依頼人は変化に気づかなかった。  気取られないためには内に籠るしかない。  迷惑は、かけない。  かけられない。  ひとりになるとわけもなく涙が流れた。彼がそばにいないことを嘆いているのか、愛想尽かしされた自身の至らなさを悔いているのか、それすらわからない。  この痛みと苦しみはきっと時間が解決する。永遠にこれが続くことはない。いずれにせよ死がそれを断つのだから、みずからそれを選ぶのは不遜だ。胸が苦しくてあちこちが痛み、眠れずに頭がおかしくなりそうでも一日は過ぎる。  俺はメールを受信し電話にも出て依頼を受けた。時間の区切りはそれでついた。無理やり、つけた。  ときどきふいに、冷たい子ね、という母の声がよみがえる。  あれは祖父の四十九日の法要の数日前のことだっただろうか。試験を理由に行かないと告げた。ほんとうは女のひとと逢うためだった。父は受験生なんだから構わないと取り成してくれた。母は眉をひそめた。たぶん、母は察していた。けれどそれを表に出さなかった。そのかわり、あんなに可愛がってもらったのに冷たい子ね、と呟いた。父は父でそれを聞かずに、志望校は決まったのかと尋ねてきた。こたえるのが面倒くさくてたまらなかった。すると、大学にはちゃんと行きなさい、そのあとはお前の好きなようにしていいから、と諭した。せいいっぱい譲歩しているのだと言いたげだった。黙っていると父が続けた。いい大学さえ出ていればいざとなってもどうにかなる、夢使いだなんて不安定な仕事につくんだから、食えなかったらどうするつもりだ。  師匠も、じぶんを見出してくれたその祖父である大先生も、両親のような公立学校の教師よりもずっと稼ぎがよかったし尊敬もされていた。それが特殊な例だというのも知っている。たしかに師匠は女蕩しで有名だったけれど、人妻やどこかの店の女性と関係をもったりはしなかった。父と母がそれを理由に師匠を嫌うのはおかしいと思っていた。しかも師匠はこの国で一番いい大学を出ていた。だから、あのひとたちが師匠みたいになってくれるなという、ほんとうの「理由」が気になった。  俺はたぶん、それを知っている。知っていて、今まで忘れてきたのだ。忘れたふりをしてきた。  ただたんに、あのひとたちは、俺が「夢使い」になることが嫌だったのだ。父の妹、俺の叔母の出奔のせいもある。だが、それだけではない。あのひとたちは「夢使い」が恥ずかしい、劣ったものだとおもっていた。けれどそれを、口にするほどには差別的になれなかった。  教師だったから。  それとも、  それとも、  俺が「息子」だったから、か……。  それでもあのひとたちは俺を息子として何不自由なく育ててくれた。  ただし、「息子」でなかったらもっと寛容だったかもしれないと想像すると胸苦しくなった。他人ならば、または自分たちから遠く離れた物事であればよしとしたのか、あのひとたちにもうそれを尋ねることすらできない。死んでしまっているのだから。  自嘲がこみあげた。俺には、わからないことばかりだ。  わからない、が。  俺は何故、両親や、そして彼さえもよろこばなかった「夢使い」であることをやめようとしないのだろう。    俺は、夢使いでなければ、誰かにちゃんと愛されたのだろうか。  いま、ひとりではなかったのだろうか。  彼のベッドに潜りこむ。枕に顔を押しつける。もう気のせいとしか思えないほどの彼のにおいを求めて。彼のやわらかな髪がまとっていた香りや濃い叢に籠る熱が欲しい。釦はずしてという囁きを聞く。それに従う。絖感のある生地でやわやわと胸をこする。貝殻でできたそれでたちあがった胸を弾くようにしていじる。絹が汗ではりつく。ちゃんと両手つかって。いわれたとおりに前を擦りあげるが足らない。背骨のしたに熱く猛るものを捩じ込まれたい。指じゃ足らないの、と彼がわらう声を聞く。見せて、写真おくって。おれも足らない、あなたに触れたい。帰ってきたら一晩中眠らせないから、覚悟して……。  そのとおりにされた。  そのとおりにされて、捨てられた。  いっそのこと、性愛の充足のために相手を必要としたし、欲されたのだと言い切れれば気は楽だ。  安らぎや温もりを求める欲求を愛と名づけるのは愚かしい。じぶんがじぶんであることをただ受け容れてほしいと願うのもこどもじみている。赤子ではないのだ。  たんに相手の希望とおのれの願望が合致しなかっただけのことだと考えるくらいの知恵はある。保身という名の狡猾さも。  じぶんには、夢使いであること以外には何もない。  俺よりも優れた夢使いがいると知っているのに。どうやっても越えられないとわかっているのに。彼は俺をその夢使いのかわりにしただけなのに……。  それでも。  俺を生かすのはただ、あがないのとき、だけなのだ。

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