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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」30
叔父からメールが届いたのは試写会のほんの数日前のことだった。ぶっきらぼうをとおりこして、この国の言葉を忘れた人間のような文面だった。だったら外国語で寄越せと毒づいたほどだ。とはいえ、それがらしくもあっておれはため息と同時に微笑んだ。
著名な映画監督のもとに出入りしていた過去が功を奏したのか、はたまたその後にまた違う映画賞を受賞したせいか前評判はよかった。いわば凱旋映画なのだからと張り切った代理店の力も大きかったのかもしれない。
前日の夜は老舗のホテルで家族全員と会食した。このときばかりは弟も顔を出した。出世する官僚にはそれなりに社交性というものがあるのだとおどろいた。弟は長年の屈託など水に流したと言わんばかりに笑顔だったが、注意深く話題を選り好みした。たぶん、次に会うときは誰かの葬儀だろうとおれは感じた。それでも家族なのだと、酔った頭で考えていた。
海外の長い姉は外国人のような顔をしていた。化粧や服装が垢抜けていていかにもアパレルの広報室にいる人間らしかった。母の、いいひとはいないの、という素朴すぎる質問に肩をすくめてこたえなかった。それからおれを見て、手助けしてくれという仕種をしたがおれは頤をひいて首をふった。
妹はおれをちゃんとおぼえていた。覚束ない声をあげてよろこんだ。
父は、老けていた。病気をしたのが祟ったようで足がほそくなっていた。それでも闊達に話し、弟にアドバイスなどして真摯な態度で頷かれ満足そうだった。
母は、ちいさくなった。あたりまえすぎる感慨にわらいそうになったくらいだ。この年の女性にしてはすらっとして腰の位置の高いひとだったはずが、猫背にみえた。それでもよそいきを着て髪をととのえた母は十分に綺麗だった。そう思えたじぶんにほっとした。
喫煙ルームに立つと母が顔をのぞかせた。おれは煙草をしまいソファへと移動した。隣り合って座り、母はおれのほうを見ないでいった。お友だちを、連れてきてくれてもよかったのよ、と。
おれは口を噤んだままでいた。
母はやはりこちらを見ずに続けた。
「お父さんの手術のときにお見舞いいただいたでしょ。お礼のお便りをさしあげたのよ。そしたら、吃驚するような綺麗な字で、とてもこころの籠ったお返事をくださったの。不躾なようだけど、今時あんなお便りを綴られるのはどんな方なのか気になってお電話でお尋ねしたら、『夢使い』だっておっしゃるから、ああ、あなたらしいなあと思って」
まるで知らないはなしだった。顔に出さないでいられたかわからない。母はでも、まだ前を向いていた。
「あなた、叔父さんと一緒であの亡くなった夢使いのひとに夢中だったものね」
それもまた、知らないはなしだった。叔父は、あのひとに妻を寝取られて憎んでいたのではなかったのか。
母は膝のうえにおいていた手をくみかえて、大きなため息をついた。
「子供が四人もいて、ひとりはまあ身体が不自由だからしょうがないけれど、そのうち三人が誰も結婚もしなくて孫もいないけど、みな元気でいてくれるだけでありがたいって思わないとねって、今日ここに来る前にお父さんと話したのよ。もう昔みたいな時代じゃないでしょ、うるさいこと言って嫌われないようにしないといけないって笑ったの」
母はそう言って立ちあがった。おれは座ったまま、おれを産み育てたひとを見あげた。
「だから明日、連れてきなさい。わたしたちふたり、いつまで揃って元気なのかわからないし」
そう言って微笑んだひとからおれは目をそらした。たぶん、言わなければならないのだろうと口をひらく。
「……ありがとう。でも、別れたから」
母の困惑が伝わってきた。何て言っていいかわからないという様子にいたたまれなさがました。きれいに磨かれた女物の靴を眺めながら、今度そういう機会があったらそうするよ、本当にありがとう、と伝えた。そして、煙草すってから戻る、と立ちあがる。
おれは、そこに立ち竦む母の背中を見ないようにして密室の戸をあけた。そこに背をついてしゃがみこみたいくらいだったが耐えた。今日はめかしこんで、いいスーツを着ていたのだ。恰好の悪い姿勢など、断じてとるものか。
どういうわけか、翌日の昼に彼の師匠から電話があった。さすがに身構えて出たが、相手はおれが資料館にいないとこたえるとすぐにも電話を切ろうとするので慌てた。
「何か急ぎのご用件ですか」
「いや、急ぎって程のものでもないんだが、年取るとせっかちでいかんな」
苦笑する様子に、おれと彼の件をどうこういう話ではなさそうだと判断した。そもそものところ知らない可能性もあると踏んだ。ところが、もしもしーという高い声で電話がかわった。その妻であるひとが出て、おれは今度こそ本当に身構えた。
「遠距離恋愛大変じゃない?」
その問いかけにどうこたえたらいいか迷わなかった。
「別れたので」
「え、ほんとう? 彼、だってあなたなしではいられない身体のひとなんじゃなかったの」
隣りには配偶者、つまり彼の師匠である人物がいるのにこのひとは……というため息が漏れそうになった。彼女はそういうこちらの気持ちをすぐに察したが、謝罪しなかった。かわりに労りも何もない至極冷徹な意見を述べてくれた。
「あなたがものすごく苦労してたものね、別れて当然よ」
「それ、彼にも言えますか」
「言ってあるもの。今ごろようやくわかったんじゃない? わー、楽しみ」
師匠がおまえな、と窘める声を耳にしたが彼女はちらとも反省していなかった。
「ああいうひとにはどうにかしてわからせてあげなきゃって思わなくもないけど、でも、ある程度の才能あるとそのまま突っ走れるのよね。ひともついてきちゃうし」
「それ、仕事の愚痴になってませんか?」
おれは声を低くして問うてみたが彼女はやはりまた気に留めなかった。
「あ、わかる? そうなのよ、でもそういうところあるでしょ?」
それには不承不承ではあるが首肯した。と同時に、今からもう十二年も前のことになるのか、彼らふたりの馴れ初めにかかわった日のことなどを思い出す。それはあちらも同じだったらしい。
「あたし、彼の友達だけど、実はあなたと話した時間のほうが長い気がするわ」
「おれも同じこと思ってましたよ」
ずっと以前、彼の居場所にじぶんを割り込ませた罪悪感、そのことにどうしようもない居心地の悪さをおぼえ続けていた日に、ふと、そこに受け容れられたと感じたときのひそかなよろこびがこの身にさざ波のように押し寄せた。おれは、それをこの今になって思い出した。
「そういうわけで、彼抜きでも今後ともよろしくね。あのね、あなたの叔父様の映画、もう向こうで見たのよ。じつはそれで電話かわってもらったの。本当に、とても素晴らしかった……」
吐息のように語尾がかすれた。
このひとの何かを評するときのあけすけなほどの正直さを、またその奇妙な勘の良さを、おれは好もしくおもっていた。それを信用もしていた。またこのひとの夫となった彼の師匠の洗練と卒のなさ、その勇敢を少々うっとうしく思いながらも敬愛してもいた。
永遠に失ったとおもえるものの片側に、こうした想いも寄り添うことができるのだと、それまでおれは知らなかった。
ここずっと抱え続けた痛苦がそれで癒されるというわけでもないが、おれはその電話のあいだそれをいくらか忘れていられた。それは、この二か月近くおぼえのない感覚だった。
さほど大きくない劇場にひとが満杯にはいっている。友人と代理店の手配でおれたち家族は招待席を用意されていた。ところが席に座ってすぐ、スタッフに呼ばれた。叔父の姿がない、という。頭を抱えた。父は肩をいからせてあいつはまったくと声に出したが、母は何がおかしいのか朗らかに笑い転げた。姉はおれに、舞台裏へ手伝いにいくよう促した。
その名前だけで観客の呼べる俳優たちが出演する映画ではない。ひとえに叔父の来歴、つまり映画界の巨匠の内弟子だった過去を頼りにした宣伝を目論んでいたスタッフは蒼白な面持ちで突っ立っていた。が、おれはなんだか拍子抜けして笑いそうだった。押しかけてきた友人とおれは廊下で肩を抱き合って、このほうが内容にも合うし好い宣伝になるんじゃないかと馬鹿笑いした。ところが、そうもいかないと、代理店のエライひとがおれの前に立った。とりあえず、舞台挨拶をしてくれと。
話すことなど何もなかったが、叔父と連絡をつけてくれた店長の名前を出されてはいうことを聞くしかない。業界人のいやらしさに呆れたが、おとなしく従った。
おれはスクリーンの前に立った。
あなたが、弟子といっしょに扉に入ってくるのが見えた。息が止まるかとおもった。あなたもきっと同じだっただろう。けれどあなたは弟子に手をとられ、教授が腰をあげた場所へと足早にむかった。おれは、アシスタントの若い女性に促された。叔父の受賞歴、そしてこの国での来歴が語られた。そういえば、おれの叔父もおれと同じ大学の出だったのだ。すっかり忘れていた。
マイクを預けられて、おれは何を話したらいいかようやく思いついた。
いつも、話しを聞く側できた。そういう仕事を長いことした。今は古文書と格闘している。ひとのはなしを聞くのが好きだった。それを書きとめるのも。ときにはまったくのつくりごとをじぶんで創造することもあったけれどだいたいは、ほとんど現実のことを少し変えて綴った。叔父も同じだった。叔父とじぶんは似ていると親族に言われ続けた。たしかに容姿も似ている。性格も、少しは。ただ何よりも、なにかを記録するのが好きだった。それが文字であれ音声であれ映像であれ。
海のはなしをした。じぶんと叔父の住まいはこの国の北、その東の突端にあると。この映画では大陸の西のはしにある街が舞台になる。
どうぞ、ご覧ください。
そう、あなたへと語りかけた。あの海を見せたかった、このおれの願いが届くように。
海鳴りの音がする。
花の咲く春に、そのひとがやってくる。朝日に長く美しい髪を靡かせて。田舎にはそう見られない洒落た服をきて。産休の教師のかわりという。三つ編みの少女は遠くからそのひとを仰ぎ見る。この町で叔母がいちばんに美しいとおもっていたけれど、女神みたいなひとがきた。少女はじぶんの頭に戴いていた花冠をそのひとへ渡す。
主役はその少女の叔母だった。かつて出版社に勤めていた。けれどつまらない男にひっかかり、妊娠して実家へと帰ってきていた。男とは別れたはずなのに、そいつは田舎まで押しかけてきてまんまとその家におさまった。それでも結婚という軛に繋がれて、彼女は安堵していた。美しくて魅力的な素晴らしい女友達もできた。退屈しないですみそうだった。
けれどあまりにも飛び抜けて美しいひとは小さな町にとって事件のようなもので、そのひとは騒動の種になった――……
おれは、知らなかった。この映画を観るまで知らなかった。あのひとが、本当は誰を頼りにしていたのか。
叔父だった。
考えてみれば、それになんの不思議はない。あの田舎で、あのひとと同じだけの教養を、藝術を愛するこころを備えもっていたのは叔父ただひとりだった。堅物の父は問題にならない。女たちの喧しさをあのひとは好きではなかった。その肉体を欲することはあっても、話し相手にはならなかっただろう。
男は、じぶんの妻となった女の浮気を疑う。けれどその小さな田舎町に、彼女が惚れるような男は見当たらない。そして気づく。その相手が誰なのか。
叔父は、あのひとを殴りに行かなかったはずだ。寝取られたのは妻ではない。叔父は、あのひととその妻に裏切られたのだ。
映画は、少女とその女性のささいでありながら濃密な交流を舐めるようにうつしつづける。花冠が編まれるところから、それが朽ちていくときまで。革張りの本の背表紙を、少女のほそい指がその金文字をなぞる仕種を執拗にうつす。文字をなぞるのと、互いの肌を舐めながら喋る女たちの情事が重なる。言葉に言葉を重ね、詩を暗唱し高らかにうたいあげる声と、寝台で悦楽を貪る獣じみた喘ぎが共鳴する。少女は学ぶ。おのれの肉体の熱とおののきの麗しさを。
少女の教育を隠れ蓑に、女たち二人は逢瀬をくりかえす。ときに彼女たちは少女を互いの駆け引きの道具につかう。けれどそれさえも、少女にとっては極上の愉しみでしかない。女神のように美しいひとの謎めいた言動、都会的で現代風な叔母の親密さ、それらふたつに少女はひたすらに惑乱され、どうしようもないほどに幸福だった。
おれは知らなかった。何も、知らなかった。あのひとがおれの要求をのんだのは、おれが叔父に似ていたからだと。その甥だったからだと。その残酷で、あわれな感情をおれは知る。誰かの面影を他の人間に重ねてみることの虚しさと苦しみの、言葉に尽くせぬ痛みを。
いたいけな少女を誘惑したことを責め詰るひとみには、その不道徳とふしだらを糾弾するだけでなく、じぶんの姪への嫉妬がありありと浮かぶ。だって知らないと困ることでしょうと口にされたときには已む無く気後れとともに同意した。もっと穏当な、書物のうえでの知識を問うても意味がないと、目の前の女と寝てはじめて理解したから。けれど、旦那と寝たときにはそんなに嫉妬しなかったのにと嘲られて、思わず手をあげた。
いくつかの諍い、たくさんの嘘、夥しいほどの告白がくりかえされる。恋情に酔い熱に浮かされて囁かれる求愛のそれ、または強要され追い詰められたものの悲鳴として。
少女はふたりの諍いを覗きみる。じぶんが愛されていないと気づいた少女が海で溺れ、彼女たちはじぶんたちの罪深さに気づき、互いと自身を憎むことをおぼえる。
そして片方の女の腹は膨れはじめる。
男はその執着に倦み、とうとう逃げ出した。
年老いた詩人が彼女たちを見守り、解けなくなってしまった糸目に、その節くれだった指を差し入れる。
男の子が生まれ、ふたりは離ればなれになることを決意する。大人ではない少女だけは、その町を出られない。
あの詩人が祖母だとおれは気がついた。あのひとは嗜みがあると褒めていた。
それから数年後、都会に暮らす叔母から手紙が届く。あの女性が事故で亡くなった報せに少女はおどろく。娘と呼ぶに相応しくなった彼女は、その耀くほどに美しい金色の髪を飾った瑞々しい花冠が萎れて茶色く干からびたものを指でまさぐる。それを解き、詩をうたいながら海へと投げる。ずっとはじめから編んでいた髪も解く。
風に、その髪が煽られる。
海猫の鳴き声とほそい声がかぶさる。
赤い夕陽がその頬を照らす。
ただ海だけが、いつもそこにある。
海だけが――……
幕が下りて、明かりがついてもおれは立ちあがることができなかった。海鳴りの音に全身をひたしたまま、周囲から置き去りにされていた。
ふと気づくと両親は姉と妹をともなって如才なく、先ほどおれを壇上にあげた男へと挨拶をしにいっていた。あなたを振り返ろうとしたそのとき、横から声をかけられた。
彼女だった。
「すぐ斜め後ろの席にいたんですけど、ぜんぜん気がつくご様子がなくて」
苦笑を浮かべた顔にどう謝ったらいいかわからなかった。彼女はそのまま続けた。
「実は、あなたの叔父さまから連絡を頂戴して。今日少しだけ、お話しさせていただきました。叔父の想い出を聞かせてもらって嬉しくて……」
叔父は、おれたち家族には会いもしなかったくせに彼女には逢ったのだ。それが、いかにもそれらしくて笑わずにはいられなかった。彼女はそんなおれを見て再び口をひらいた。
「おはなしの途中で、叔父と同じ夢使いだという学生時代のお友だちからも電話をもらいました。ただそれだけなんですけど、どうしてもそれをお伝えしたくて。呼び止めて、すみません。どうぞ行ってください」
どこへ行けと言うのか。おれは彼女の白い顔をのぞきこむ。あのひとに、おどろくほどに似ていたけれど、まるで違う人間の顔を。
彼女は、いま初めておれを見たような表情でこちらを見つめた。それからおずおずと口をひらいた。
「あのですね、ずっと言いたかったことがあるんですけれど」
おれはそれを遮った。おれからどうしても言いたいことがわかったからだ。
「あなたは全然あのひとに似ていない」
彼女はにっこりと目をほそめて深く何度もうなずいた。
「そうなんです、わたし、ずっとそう思ってたのに誰もそう言ってくれなくて。ああよかった。これでもう、亡霊だのなんだのみんなに言わせないです」
おれも肯いた。ずっと、おれはこのひとにあのひとの影を重ねてきてしまったことを謝罪するつもりで。
彼女はおれの目をしっかりと見た。こんなふうに今まで見つめられたことはなかった。
「どうぞ、行ってください。あのひとのところへ」
おれはそれを聞き終える前に駆けだしていた。
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