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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」1

 いくらか書き残したことがある。  おれはあなた宛の書簡のふりをして、このはなしをしはじめた。じっさいに、あなたがこれを読むことがあるのかどうかはわからない。ただおれは、あなたという稀有な「夢使い」について、書き記さずにはいられないのだ。「あなた」についてはもう、諦めた。それはおれの「仕事」ではないし、ほんとうのところ、あなたのことは誰にも知られたくないのだ。おれが何をおいても語りたいと願う「あなた」と、おれだけの「あなた」、それらがけっして分けられるものではないとわかってはいても。  それでも今は、筆が進むに任せるのをゆるしてほしい。むろん、キーボードを打っているのだが。たまにメモを取る以外は。  あのあとおれたちふたりはタクシーに乗ってマンションに戻ってきた。あなたはあの例のコンビニ、つまりおれたちが出会った場所から並んで歩きたがったのだけれど、おれがとめた。  あなたは両足ともに無残に引きずっていた。あくまで軽い調子でそれを指摘し、抱えて歩けと命じられたら謹んでそうするとおどけた口調で申し出ると、あなたはそんな恥ずかしい真似ができるかと眉をひそめて車にのることに同意した。あいかわらずだった。  おれはといえば、その足取りをビルの屋上でみたとき肝を冷やしたばかりだ。あの柵も何もないガラス張りの場所の突端へ、あなたは覚束ないようすでふらふらと吸い寄せられるように進み出た。妙なタイミングで声をかけるのは憚られた。  あなたはそこで立ち止まり、こころもち頤をあげて両の手を宙にさしだした。  視界のすべてがあなたの両腕へとおりてくるかのようだった。  暗闇を切り裂くひかりが、ひろげられた両の手に集いくるかとおもった。おれは背後に何か凄まじいものが押し寄せる轟音を感じとった。たぶん、それがあなたのいう《香音》なのだと後から思いついた。そのときは、そそれを高波のように畏れただけだった。怖くはなかった。おれはあなたに見惚れていたから。  捧げるように高くもちあげられたあなたの両手がわずかに下がったそのとき、おれは迷わずあなたの名前を呼んだ。  あなたが、そこから墜ちていかないように。  結果、いま、あなたはおれの腕のなかにいる。タクシーをおりてエレベーターに乗り込み、あなたを壁に押しつけるようにしてくちづけた。あなたは抗わなかった。いつもならこんなところでと暴れるのに。ただそれは、あなたもそれを待ち望んでいたせいではなくて、腕をあげるのも億劫なほど眠くて堪らなかっただけのようだ。おれはその頭をかき抱きながらこっそりと笑った。あなたは車のなかでおれに寄りかかり船を漕いでいた。おれはあなたが欲しくて堪らないというのに。  ほんの少しばかり腹立たしい気持ちもないわけではなかった。けれどその昔からあなたというひとは、おれといると眠くなると口にしてはばからないひとだったと思い出す。  あなたは夢使いだから、ひとが眠っているときにいつも起きているのだった。  だから、あなたの寝姿を知っているおれは、ほんとうに奇特なにんげんなのだ。  そんな神話だか昔話がなかったか。  そう考えながら、あなたの右腕をとって自分の肩へとまわし箱をでる。通勤通学時間にはまだ早い。だが、朝独特の慌ただしい気配がそこにある。あなたはすぐさまそれに気がついて、ひとりで歩けると言い放ちおれから離れた。     ふらついてはいなかった。  おれは、あなたの後姿を見守った。あの海岸でその背を目に焼き付けたときのように。あなたはそれを、おれが家の鍵をもっていないせいかとおもったのか振り返った。  そしてポケットから海のように深い色をした青いキーケースを取り出しておれを見た。  おれはあなたでなく、あのひとがおれたちに色違いでプレゼントしてくれたそれを眺めた。 互いに、それぞれのやり方であのひとに言いたいことや言うべきことがあるのがわかった。今ここにある沈黙を埋める言葉がどれほどの量になるのか測りきれないほどに。  それとはべつに、あの場所の鍵をそこから抜いていったことで、ただでさえ辛いなか、あなたへさらなる責め苦を味あわせたであろうことも想像ができた。何かを期待しないではいられなかったはずだ。それとも、そう考えるのはおれだけか。今となっては、それをあなたに問う必要さえない。また、あらためて赦しを乞うことでもない。そうも思う。  おれはその鍵を、あの揃いのキーケースごと置いていくことはできなかった。あなたのためでなく、あのひとに対するおれ自身の想い出のために。  稀有なひとだった。  おれたちの人生においてだけでなく、この視界にとってさえも。  あなたはたぶん、おれの口に出さない言葉をくみとったのだろう。かすかに頷いた。  それからあなたは何をおもったか、ふと、鍵穴にそれをさしこんだままおれの顔を斜めにみた。そのとたん、まるで刃物で刺されたかのような欲情が襲いきて、背中から覆いかぶさるようにして唇を奪う。あなたは自分がなにをしたのかわからないといった顔であわてふためいた。けれどそれもほんの一瞬で、あなたの髪に手をさしいれ、耳に指をはしらせながら角度を変えてくちづけをくりかえすと、我を忘れたようになり、熱をもった身体を摺り寄せてきた。  たまらなかった。  だからおれは、あなたが文字通り死にそうに眠いとは知っていたけれど、このドアをあけてあとはもう、あなたを眠らせないと誓った。  ところが。  ドアの向こうには、おれの家族とあなたの弟子、そして教授までいたのだった。  つまるところ、おれもあなたも、それに気がつかないくらい互いに夢中になっていた。

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