113 / 120
第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」7
細心の注意をはらい寝室の扉をしめた。
予想通り、教授が立っていた。そのまま書斎に案内した。ドアをあけて先に通し、後ろ手にしめる。
教授はすっかり空になったそこを眺めた。そして、あなたのために残した本の幾冊かを手に取った。おれは黙って煙草に火をつけた。灰皿はきれいだった。
教授はふと、ペーパーバックに目をとめた。あなたの好きな古典SFや冒険小説だった。あなたがこの家に引きこもっていた間、あなたはおれの本を紐解くか、子どもが夏休みに読むような物語を読み耽っていた。あなたは自分のそういう状態を茶化すように哂ったこともあるが、おれはあなたが長いこと自分に禁じてきた習慣をそのときに復活させたことをひそかに喜んだ。あなたが文字通り、幼い時代から生き直していると感じたからだ。
教授は本を丁寧にもとに戻し、おれの顔を見た。おれは煙草を消した。
「残念ながら、あなたに刺されるようなことは何もありません」
でしょうね、と首肯するわけにはいかなかった。
「あなたに感謝されるようなことも、もちろんしませんでした」
教授はそこでいったんおれから視線を外した。言いにくいことがあるときの癖だ。それは互いに知っていた。
「来年度以降、大学とセンターにあなたの居場所を用意するつもりはありません」
事実上のクビを言い渡されても衝撃はなかった。先ほど彼女から話しを聞いていた。あなたの師匠の弟子がいま、教授の下でセンターに詰めていることを。
「こんなことをしても彼を手に入れられるわけではないとわかってはいるのですが、ひとときなれど独占したいと願う気持ちを捨てられはしないので弱ります」
教授があなたの依頼人であることはもう聞いていた。あなたを「あがなう」には金がいる。それは当たり前のはなしだ。そう考えながら、おれの口は勝手に動いた。
「ほんとうに手に入れるつもりだったんですか」
教授はおれを見あげた。その顔に言い放つ。
「おれでさえ、そんなふうに思えたためしがないのに」
言い終わらぬうちに教授が吹き出すのをおれは見た。
「そこ、わらうところですか」
すみません、そう言って笑い納めた教授は、おれを振り仰いで呟いた。
「それでも、その手をすり抜けてはいかなかった。違いますか?」
それが何をさすのかに気がついた。
おれと教授は無言で向かい合った。ややあって教授がふとまた視線を外し、囁き声で告げた。
「なかなかできることではないと、私は思いますよ」
互いに、ある人物を思い出していた。
おれは煙草に火をつけようとして、やめた。
なんとなしに、今はこの空気のなかにいたかった。
教授はそういうおれの気持ちを察してか、再び本を手にした。それから頁に目を落としたまま口にした。
「それにしても、私の横暴になんの文句も言わず引き下がるつもりですか」
「おれが教授の立場ならおれは殺しても足らないくらい邪魔ですし優秀な人材も得たようなので何を言っても無駄でしょう。彼に懇願してもらえば別かもしれませんが、それで純なひと相手に妙な取引でもされると困りますしね」
「あなたその顔でえぐいことさらっと言いのけますね」
何を今さらという気分で見おろすと、教授が悪戯っぽく微笑んだ。
「まあ、そういうところがあのひとの気に入りだったんでしょうが」
そう言いながら、懐から封筒をさしだした。封はあいていた。外国語の書類にあのひとのサインが入っていた。
「あなたの推薦状です。いずれこういう日が来ようかと用意しておきました」
亡くなる前に。という言葉は伏せられた。
我々が所属する会は、海外のある機関と提携していた。そこの最高責任者宛ての書状だった。おれはすっかり言葉を失っていた。
「あなたにお見せしたとおり、彼への要請はすでに来ています。あなたが早いというなら、出発する時期はふたりで相談すればいいでしょう」
「教授……」
教授は片手をあげて押しとどめるような仕種で首を横にふった。
「礼を言われるようなことは何もありません。あなたは研究センター設立のときから多大な力を尽くしてきた。しかも格別の地位、それにふさわしい栄誉や報奨を欲しがらず。おかげで土台は固まりました。あちらの施設は彼女に任せておけば安泰です。気兼ねせずに行ってきなさい」
それから、おれが謝意を述べようとするのを遮るようにして続けた。
「海外に出るとなればあなたより、彼の負担が大きくなる。しっかりと支えてあげてください。私からの要望はそれだけです」
教授はおれの顔を見ようとしなかった。そのまま本を棚に戻して横を通り抜けた。だからおれはただ深く、閉まった扉の向こうへと頭を下げた。
あの、ガラス細工のように澄み切った両眼にこの姿は見えていることと信じて。
ともだちにシェアしよう!