115 / 120

第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」9

 おれが間違っていた。というより、すっかり忘れていた。あなたは下手したら一日一食だけでも十二分に平気なのだと。ほんとうに何もかも忘れてばかり――いや、ちがう。忘れていたわけでなく、おれがあなたという恋人に過剰に期待しすぎなのだ。  そう考えて吹き出した。  それだけおれは、あなたが好きなのだと。あなたにおれを好きでいてほしいのだと。  まるで成長していない。  だが、それも悪くない気がした。  あなたの好きな炊き込みご飯を用意し、同じく好物の具の味噌汁を作った。正直にいえば、味噌汁やおでんの具にしてもおれとあなたは好みが似ている。だからそれはたいていおれの好物でもあるのだが、あなたには、あなたの好きな物だとしか言わないでおいたものも数多い。おれはあなたをひたすら甘やかしているのだ。  煮物だけはあなたのほうが断然うまいと思いつつ、まずいとは断じて思わせない味に仕上がったと安堵して、もういちど寝室に入ってもあなたは昏々と眠り続けていた。おれは魚を焼いてひとり寂しく食事をとった。その後、あなたがおれのために買ってきてくれていた苦いコーヒーを淹れて様子を見にいったときも、あなたははっきりとは目を覚まさなかった。  おれはしずかに雨戸を閉めて足音を忍ばせて寝室をでた。  どれほどあなたが疲弊していたか、いや、それは誤魔化し過ぎだ。おれがあなたをどのくらい痛めつけたのか、恐ろしいくらいだった。おれは本当に今ここにいて許されるのだろうかと考えてすぐ、おれの居場所はあなたの傍ら以外他にないと心の底からおもった。  おれの手には、教授から受け取ったあのひとの書状があった。これをいつ、あなたに伝えたらいいのかさえ、今のおれにはよくわからない。けれど、おれはそれをしっかりとあなたに伝えられるはずだと自分へとくりかえし言い聞かせた。あなたはあの海で、その向こうにある大陸を臨むようにして海外に行きたいと口にしたのだから。  風呂を沸かした。あなたが目を覚ましてゆっくり湯船に浸かれるように。  ふたりで風呂に入り、あなたの髪を洗いたかった。その身体のすみずみに掌を這わせ指で触れ、くまなくおれの手で磨きあげたかった。  あの温泉で、横になったおれに跨ったあなたを思い出す。あなたは皮膚が薄いから硬いタイルに押し伏せられるのを嫌ったのだろう。両足の甲を傷めたあなたがあの事件以降はじめて、もう大丈夫だからとおれの腰のうえで身体を弾ませた。あなたの髪が揺れ、その快美な舞いにとことん狂わされたおれは、あの夜ほんとうに死んでしまえばいいとおもった。そうすれば、あなたに別れを告げなくてすむと、馬鹿なことばかり真剣に考えていたのだ。  それもこれも、今だから言えることではあるのだが……。  風呂からあがり、寝室のドアをあけるとあなたがようやく目を開けた。おれをそうと見分けたが、けれどすぐまた眠そうに瞼をとじたのでおれは慌ててあなたに水を飲ませた。そして枕に頭をつけたと同時にことりと音がするように寝付いてしまったあなたの横にこの身をすべりこませた。

ともだちにシェアしよう!