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第50話 世界で二人ぼっち

しばらくは何事もなく穏やかな日々が続いた。大学の講義や課題の提出も順調で、たまに苦戦すると先輩がお泊まりに誘ってくれた。アドバイスを受けながらいつもよりいいレポートを書き上げ、そのあとのんびりとお家デートをした。 そんな毎日だったけど、今朝は朝から気だるくて熱っぽい。風邪を引きはじめてるのかな?って思いながら講義を受け、別の講義だった田中くんと安永くんに合流するため、食堂へ向かった。すると途中で廊下の先に構内を移動する先輩たちを見かけた。 向こうが僕に気づいた様子はない。先輩はこのあとも講義がある筈だから、あとで連絡しようかな。 そんなことを考えながら歩いていたら、突然体がぶわっと熱風を浴びたように熱くなった。 ハッハッ、ハッハッ……。 呼吸がどんどん荒くなってきて、ふらふらとよろめいて側の壁に手を付いた。 何、これ。 力が入らなくなり、足がガクガクしてまともに立っていられない。 エレベーターで急速に落下するような浮遊感に襲われ、壁に縋って前にも後ろにも動けなくなった。 誰か……助けて…… (せ、先輩、) 先輩を見ると、気付かず廊下の向こうに消えそうになっていた。 (行っちゃう……) 「先輩、せんぱ……」 視界が立ちくらみのように周りからだんだん昏くなってきた。気絶しそうになってる……まずい! 「りぃ!」 助けて! 「りぃ!りぃ!りいー!!」 とうとう目の前が暗くなり、足からガクンと力が抜けた。 そのまま膝から崩れ落ちそうになった時、前のめりに倒れかけた僕の体は地面に着かずに誰かに受け止められた。 あ……来てくれた…… 上質な布の柔らかな肌触りとフレグランス、大きな手としっかりと広い胸、柔らかく包む抱き方。そして何より彼自身から立ちのぼる僕が安心する匂い。 大輪の花を思わせる瑞々しくて華やかなこの香りは、深呼吸すると時おり心の奥底を甘く切なく引き絞る。 見なくてもわかる。先輩だ。 「大丈夫?晶馬くん」 「は、い……呼んでごめんなさい」 「何言ってるの、呼んでくれなきゃ嫌だよ。こんな弱ってて無防備な姿、他の人に見せちゃダメ」 先輩は僕を抱きしめて頬ずりをした。 「やっと来たね、発情期(ヒート)。よかった……」 そうか、これ発情期(ヒート)だったのか。 心底安心したような声だった。 あれ、もしかして先輩、僕に発情期(ヒート)が来ないの心配してた? 「突然でビックリしたよね。もう大丈夫、帰ろう」 見上げると蕩けそうな笑顔があった。 良かった。発情期(ヒート)、嫌がられてない。 それから先輩は僕の携帯から田中くんに電話を掛けて発情期(ヒート)期間中の僕の休講のお願いをしてくれた。そして自分の携帯でも同じ期間分の申請を取った。 僕が腕の中で朦朧としているうちに諸々の手続きが終わり、いつの間にか車の後部座席で肩にブランケットを掛けられて先輩に寄り掛かるように座っていた。覚えているのはその辺りまでで、意識はゆっくりと沈むように途切れていった。 「着いたよ晶馬くん」 気がつくと僕は先輩の膝に頭を乗せ、体を強張らせていた。震えが止まらない。 再び発情期(ヒート)になった体が、心を置き去りにして快楽を貪ったあの時間を思い出したのだ。 僕は以前発情期(ヒート)が怖かった。 愛せない罪悪感があるくせに、運命の相手に冷たい目を向けられると矛盾して心が傷ついた。はしたない仕草と下品な言葉でプライドもなく逐情をねだる自分の醜さに絶望した。発情期(ヒート)が終わって目覚めると、残っているのは部屋に散らばる狂った宴の跡だけだった。首や胸や手先にできた血が固まってない傷はヒリヒリと痛み、空っぽになった心には虚しさだけが広がっていく。 為す術もなく流される、あの時間がまた始まる…… 無意識に胸を掻き毟ろうとした。その指を握られ、虚ろに視線をさ迷わせると、僕は抱きかかえられて運ばれている途中だった。ふかふかした場所にそっと降ろされて、頭が柔らかな枕に沈む。 連れてこられたのは先輩のマンションだった。先輩はオートロックを抜けてエレベーターを上がり、家の鍵を開けると最奥の部屋へと運んでいった。 ドアを開けて最初に出迎えてくれたのはいい匂いの柔らかな風だった。 この匂いは先輩に似ている。少しほっとして大きく息を吸うと、そよ風の匂いと先輩の匂いが胸いっぱいに広がった。体中が暖かくて幸せな気持ちで満たされ、強ばった体から力が抜けていく。 「大丈夫、何も怖くないよ」 穏やかな声に見上げると先輩が優しい目で僕を見ていた。四隅の紐が解かれ、ベッドの周りに布が広がる。ピタリと空間が閉まった。 「ほら、これで世界で二人ぼっち」 僕はゆっくりと周りを見回した。 そうだ、ここは…… 僕が雷から逃げ込んだ最終地だ。ここで僕は巣を作り、先輩に愛を証明している。 この部屋で先輩は僕に言葉と体で何度も愛を教えてくれた。 決して以前のように愛のない交わりなんかじゃない。 ここは大好きな(つがい)のいる世界。 怖いものが何もない、二人だけの世界​─── 「りぃ」 僕は大好きなりぃに両手を差し出した。

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