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第2話

 結局、銭湯を出たのは午後九時を回った頃だった。三十分の特番のあと、今度は八時のニュースが始まり、遠野は多分それを見ていた。その隣で松岡も同じ画面を見てはいたが、それは字義通り“見て”いただけで、内容は何一つ頭に入っておらず、様々に切り替わる映像を眺めながら松岡はひたすら遠野の言葉を反芻していた。不運。家族全員が不運。そうであれば、そこに悪役はいないのか、云々。ただ、いくら考えるのが苦手と言っても、今日はそれが輪をかけて酷く、思考の断片を拾い集めてまとめようとしても、頭の中に鉛でも詰め込まれたかのような重さで上手く纏まらず、拾ったはずの欠片も数分毎に指の隙間からこぼれ落ちるような始末で、一時間もそうしていた割りには、松岡自身は得るものの何もない時間だった。  急に、帰ると言い出した遠野について銭湯を出ると、外は小雨が降っていた。といってもぱらぱらと降り落ちる程度の雨で傘を差すほどではなく、コンビニでもまだ、傘の販売は始めていないようだった。  「……寒くないすか?」  「いや、別に?」  行きよりもかなり早足で人混みを抜けながら、ちらりとこちらを見て問う遠野の様子が、先程までと少し違う事に松岡も気づいてはいて、何かあったのかと思いはしたが、短い付き合いの中でもこれまでずっと、遠野は必要なことは伝えてきてくれていたし、少なくとも自分よりは頭も回りそうだと思うから、遠野が説明しないなら兎に角、この男の言う通りに動けばいいと特に尋ねはしなかった。何も説明がなくとも、遠野が何か急いでいることは確かなようで、行きはあれほど執拗に人混みを通りたがって遠回りをしたのが嘘のように、今はひたすら最短ルートを進んでおり、頻繁に人気のない道に入るため、一応用心棒として置いてもらっているのだからと、松岡はその度毎に周囲に目を配りはしたが、特に警戒すべき動きはないまま、駅前の中華料理屋までは行きの半分の所要時間で引き返した。  「……ちょっと、待って」  途中、一度だけ立ち止まった遠野が寄ったのは薬局で、五百ミリリットルの水一本とカップ入りのロックアイス、氷のうを買って店を出てすぐ、再び家に向かって歩みを進めながら、自分は財布から取り出した錠剤ひとつを買ったばかりの水で流し込んだ。  「……具合、悪いの?」  「いや、俺は、平気」  奥歯にものの詰まったような言い方に、どうかしたのかと問いかけたが答えらしい答えはなく、取り合えず早く駅前抜けましょうと遠野は大股で歩き続け、会話をする気のない遠野の背中を追いかけながら、松岡はこの男の不自然の理由を探ろうとしたがどうにも頭の芯がどんよりとして考えるのが億劫で、そこから十分、結局互いに無言で歩いた。  微かな違和感を覚えたのは、最後の角を曲がってアパートが視界に入った時だった。アパートまで、直線距離二百メートル。車二台がギリギリすれ違える程度の幅しかない道の右側に、こちらを向いて停車する黒い乗用車一台。松岡らの向かいから犬を連れてゆっくりと進んでくる老人が一人。遠野はこれまでと変わらない速度で進んでいる。老人が車の脇を抜ける。同時に、運転席の窓が音もなく開く。車は、街灯の光の輪の外に停車しているため、運転席の様子は見えない。足早に歩く遠野と老人がすれ違う。運転席からの距離は十メートル弱。遠野が進む。松岡は思わず、遠野の服の裾を引いた。  「なに」  「……っ!」  振り返った遠野が何か言いかけたとき、運転席から、ゲームでしか見たことのないサプレッサーの銃身が差し出され遠野を向くのがスローモーションのように見え、松岡は反射的に遠野を突き飛ばし、道端に積み上がっていたゴミの中に二人で突っ込み、その背後で、プシュっと空気の抜けるような音が小さく鳴った。男二人が派手に乗り上げたせいでばさばさと崩れたゴミの音に驚いた老人が振り向いたのと、ギュルルと派手な音を上げて車が発進したのがほぼ同時。  「……っ、あんた、怪我は!?」  松岡に乗り掛かられる形でゴミに埋まった遠野は一瞬呆然としていたが、すぐに状況を察知し、松岡の肩をつかんで跳ねるように上半身を起こした。焦りのあまり蒼白な遠野と目が合い、こんな顔もするのかと松岡はその顔に少し見入った。頭の芯がぼうっとする。この感覚は、知っていた。  「……全然、大丈夫」  かすりもしなかったと応じ、松岡はすいと身体を起こす。身体の中心から、ずくりと熱が産まれる。熱い。まずいなと思う。  「……あんたら、大丈夫かい?」  立ち上がった瞬間、立ちくらみに似た感覚に襲われブロック塀に片手をついて身体を支え、無理に笑って振り返り、犬を連れてこちらを窺う老人にちょっと酔っぱらっちゃってとあえて気楽な声で応じたが、その間にも、内奥の熱はじわじわと全身に回っていた。老人の反応を見、この人は大丈夫そうだと判じる。軽く息をついて前方に視線を戻すと、遠野はタイミング最悪だなとイラついた様子で呟いていたが、それは恐らく先程の出来事に対しての言葉であり、遠野自身の様子は少し前までと変わりなく、取り敢えずこの場に危険はないと結論し、松岡は軽く息をついた。  ヒートがくるには、本当は少し早い。いつも通りならあと一週間は猶予があったはずで、だから、油断した。もともとズレの少ない方ではあるのだ。ただ、ここ数ヶ月は確かに少し、不安定なところがあり、頓用の薬も時々使っていた。そもそも、昨夜家に帰ったのは、薬の手持ちがなくなったからで、多分大丈夫だろうとは思いながら、実家に少し残薬があった気がして、明後日の受診までそれで凌ごうと考えたからだった。しかし結局目的は達せず、だから今は、薬がない。  薬がない時の対処法ってどんなだったっけ。確か昔、中学の全校集会でそんな話があったはずだが、まぁなんにしろ鍵のかかる個室は必須と脳内でひとりごち、なんとか気を紛らわそうとしてみたが、一度溜まり出した熱は強まるばかりで収まる気配はなく、理性を覆いつくす勢いで湧き出す本能の禍々しさに松岡は苛立ち、くそったれと小さく呟いた。どくどくと心音が煩い。身体の中の音が、いつもよりも大きく聞こえる。高熱に浮かされたときの感覚に近い。足元が覚束ない。  「……松岡サン、悪いけど、走るんで」  突然耳元で声がして、耳朶に触れた吐息の熱さに、身体が跳ねる。  「っ……と、なんかあった?」  「家の方に誰かいる。ちょっと、腕、掴みますよ」  言った直後に手首をぐっと捕まれ、ひゅっと喉が鳴る。たかがそれだけの事に、全身がぞわりと反応する。触れる。触れられる。怖い。怖いと感じる。それなのに、本能は欲しがっている。喜んでいる。矛盾している。……それが酷く、気持ちが悪い。  腕を引かれて走り出す。遠野は人通りのない狭い路地を選んで進んでいるようだったが、松岡にはもう周囲を気にする余裕はなく、せめて足手まといにならないようにと必死で足を動かした。  「……そこカギ壊れてるんで。入って」  そうしてどのくらい走っただろうか。遠野が松岡を離したのは、かなり大きな資材置き場で、その裏手に位置する小さな錆びた鉄扉は確かに、少し力を込めるとギィと音を立てて開き、薄く開いた隙間から身体を滑り込ませるようにして中に入ると、遠野もすぐにそれを追い、扉をもとのように閉じて更にその奥へと進んだ。巨大な材木がずらりと並んでいる前を過ぎると、その先には小さなプレハブの小屋があり、松岡を小屋の前で待たせて遠野は小屋の裏手に姿を消し、数秒後に戻ったときには小さなカギを手にしており、勝手知ったる様子でプレハブ小屋の扉を開けた。入ってと促されるまま小屋に入ると、そこはちょっとした休憩スペースになっており、部屋の真ん中には四人掛けのテーブルとパイプ椅子四脚、隅にはシンクと火口二つが備え付けられていた。遠野は内側からカギをかけながら、朝七時前までは誰も来ないすよと小声で言った。  「……前にここでちょっと働いてて、そんときに確認したんで」  遠野は扉を一度引いてカギを確認し、ふうと息を吐き出してフローリングの床に直接腰を下ろした。松岡は、カーテンのないガラス窓をちらりと見やり、遠野とは少し離れた場所で、同じように地べたに直接腰を下ろし、膝を抱えて身体を丸めた。  「……多分、あんたも顔見られたんで、一緒に来てもらいます」  すんませんね、俺の不注意でと遠野は言い、今さら何をと松岡が男に視線をやると、遠野は逃げる間も離さずにいた薬局の袋から氷のうやら氷を取り出すところで、真っ暗な部屋の中で手元に視線を落とす男の表情は影になって見えず、何を思っているのかは何一つ読み取れなかった。  「本当はもう少し時間作るべきだったんすけど……このまま、今日明日中にはここ離れます。で、しばらくは戻って来ない」  封を開けた氷のうに、少し溶けかけたカップアイスを入れながら遠野は言い、それは最初に話を了承した時点で分かっていたことで、今更、なにも困らないと松岡は思う。やっぱり甘い。あれだけ話しておいて、こちらが怖気付いたら離すつもりだったのか。脅迫してきた相手に名を名乗った松岡を遠野は律儀だと笑ったが、この男も大概、人が良い。  「……もともとそのつもりだったし」  大丈夫と、続けようとして口を噤む。みっともなく、声が震えていた。  触れ合いから解放されて皮膚のざわつきが治まったように感じたのはほんの一瞬で。一番強い刺激から解放された肉体は、次には細微な刺激も感知しはじめており、肌と服の擦れるざらついた感触、ちくりちくりと首筋を髪が擦れる感覚、どこかから吹き込む冷気が肌を撫でる感覚、ひいては自身の呼気が唇にふれる感覚まで、今はとにかく、ありとあらゆる感覚が鋭敏で、そのどれもが快楽を追って蠢いている。触れられたいと、本能が叫ぶ。ふざけるなと、松岡は唇を噛んだ。そうでもしなければ、おかしな声をあげそうだった。  「……あんた、薬は?」  氷を入れた氷のうに、先程の飲み止しの水を注ぎながら、遠野が言った。  「抑制剤……ま、持ってりゃ飲んでるか」  どうすっかなと、呟いた遠野の、言葉の意味を理解するまでに数秒かかり、直後、松岡は弾かれたように立ち上がり、その拍子にパイプ椅子に身体をぶつけ、椅子が倒れて大きな音をたてた。  「……匂い、っ」  「すっ、げぇすね。しんどそうだ」  壁ギリギリまで下がっても、遠野との距離は二メートルにも満たない。扉は遠野の側にあり、逃げ出すこともできない。座り込んだ姿勢のまま、氷のうの蓋を閉めた遠野がこちらを見上げた。暗闇の中、目が、合う。  ー……涼介、っ、隠れてっ!  姉の背中越しに、父の視線が松岡を向いていた。不器用で優しかった父の面影はそこにはなく、呼気を荒くし、歪んだ表情でこちらを睨む強い視線は、ただひたすらに恐怖でしかなかった。  ー逃げて!早く!  細い腕で父を抑えながら、姉が叫ぶ。怖い。怖くて怖くて仕方がない。何が、とは形容しがたい。そこにあるのは、ひどく本能的な、生理的な恐怖。今まで絶対にここにあると信じてきた地面が、溶けて消えて、無くなってしまうような怖さ。足が動かない。動けない。  揉み合いの最中、一瞬こちらに目を向けた姉は松岡を見て悲しげに瞬き、手近にあった固定電話を掴み上げ、それを父の頭めがけて振り下ろした。ガツンと鈍い音がして父が怯んだ一瞬、普段なら想像もつかないほどの強い力で松岡の腕を引いた姉は、すぐそばのトイレに松岡を突き飛ばし、鍵かけて出てきちゃダメと手短に告げた。姉の手で扉が閉じられる直前、目に入ったのは、額から血を流して立ち上がった父の悲壮な表情と、ごめんと笑った、母そっくりの姉の笑顔だった。  あの日、世界がひっくり返った。何もできない松岡はただ呆然と、壊れゆく世界を眺めていた。これは、俺が壊した、世界。  「……松岡サン」  目がおかしい。呼び掛けても反応のない相手を前に、そう考える。確かにこちらを向いていて、視線は合っている。それなのに、見ていない。こいつは、俺を見ていない。奈落、という言葉がふと浮かんだ。なにも写さない漆黒は、底無しの奈落のようで、遠野はごくりと喉を鳴らした。屍と見つめ合っているようだと思う。眼の玉の抜けた眼窩の虚。生者のそれとは一線を画した、光をすいとる瞳。死んだ目。そのくせ、松岡の喉からは、ゼイゼイと喘息のような呼吸音が聞こえていて、堰を切ったように溢れだす匂いは強まるばかりで、それはもう悲しいほどに生きている。  何となく。何となくではあるが、松岡がΩと知った時、その事情を察した。銭湯のテレビを見たときの反応。多分、同じ。  「……聞こえてっか分かんないけど、話すから聞いてくださいね……」  うちは、妹がΩなんすよ。  奈落がぞろりと、動いた気がした。 両親はβだった。遠野はβの中でもかなり鼻が効く方で、幼い頃から、Ωの匂いを感じていた。ヒート中でなくとも、成熟したΩは常に微かなフェロモンを発していて、体質的に、遠野はそれも嗅ぎとることが出来た。それがΩフェロモンだと知ったのは随分後になってではあったが、香り自体はずっと薫っていて、子供の頃は単に、いい匂いのする人と認識していた。保育園の先生や、小学校の頃に通わされていたそろばん塾の中学生、それから、町ですれ違う人。それが“分かる”遠野にとって、匂いは別段珍しいものではなく、そこにあるのが普通だった。それが普通でないと知ったのは、中学三年の冬。妹の甘い香りを嗅いだ日だった。  世間は年の瀬で、なんとなくそわそわとした空気に満ちていた。遠野の家族も例外ではなく、夕食どきの両親の会話はいつもよりも少し浮ついて聞こえたし、つきっぱなしのテレビから聞こえてくるタレントの声も、数日後に迫ったクリスマスや大晦日の浮き足立った雰囲気に飲まれてどこか陽気で、受験勉強の追い込みで疲労の蓄積した脳は拒絶反応を起こしており、遠野は早く食べて部屋に戻ろうと、掻き込むように食事を口に運んでいた。  ー……ただいまー!  もう少しで食事を終えようというタイミングで、部活を終えた妹の楓が帰宅し、玄関から威勢のいい声が聞こえた。吹奏楽部のコンテストが二月にあるから、今頑張りどころみたいよと、母が先日話していたが、確かに最近、妹の帰りはいつもよりも遅い。  ーお腹すいた!ご飯何? 食事の開始に間に合わずに戻った妹がリビングに飛び込み、母はシチューと笑顔で応じ、楓の食事の準備のために席を立った。  ーシチューならパンがいい  そう言った楓が、パンはー?と声を上げながら、遠野の脇を通過した時、ふわりと、甘い香りがした。ピアノの発表会の時、祖母が差し入れてくれた大きなブーケのような、甘ったるい香り。保育園の先生、そろばん塾の中学生、道ですれ違った大人たち。みんな、少しずつ違ってはいたが、こんな香りをさせていた。甘くて、優しい香り。……昨日までは、楓は“匂いのしない人”だったはずだ。  ー……何その匂い  遠野がこれまでに出会った人たちはいつも、最初からその香りをまとっていて、まさかこんな風に突然、香りが後からし始めることがあるなんて、考えたこともなかった。だから、本当に純粋に、遠野は不思議に思って訊いたのだ。このいい匂いはなんなんだろう。  ー何、匂いって。私変な匂いする?  嫌だな、と楓は言い、すんと自身の袖口を嗅いだ。  ー自分じゃわかんないー。お母さん、私変な匂いするー?  楓はすんすんと袖口を嗅ぎながら母のもとへかけて行き、母は別に何もしないけどと怪訝な顔をし、遠野に向かって言った。  ー変なこと言うのやめなさいよ。女の子なんだから。気にするでしょ。  ー別に、変な匂いなんて言ってない。香水?  ー香水なんてしないよー。禁止だもん。えー?でもなんで?いい匂いする?  いい匂いならいいけど、分かんないなと楓が言い、お母さんも分かんないと、その隣で母が言った。  ーうん、なんか花みたいな匂いするじゃん  一度気がついて仕舞えば、その匂いは、温め直したシチューの香りにも隠れることなく薫っており、楓が帰ってから、室内は花畑のような香りに満ちていた。心地のいい、安心する香り。  ー……笹本さんもいい匂いするんだよな  親の転勤の都合で先日、遠野のクラスに転入してきた女の子。彼女も、“いい匂いのする人”だった。中三の秋というひどく中途半端な時期に転入してきた彼女と話したことはほとんどないが、転入初日、顔をうつ向けて小さな声で自己紹介をした彼女の匂いは、とろりと甘く、食べ頃の桃みたいだった。  遠野の言葉に、両親がピクリと反応した。  ー……樹、  テレビを見ながら食事をしていたはずの父が、いつのまにかこちらを向いていた。  ー匂いって、今までにも嗅いだことあるのか  ーあるよ。時々、そういう匂いさせてる人、いるよね?  ちょっと甘くていい匂い、と遠野は続けたが父の同意は得られなかった。黙り込んだ父に困って台所に目を転じると、母は大きく目を見開いてこちらを見ており、遠野と目が合うと、なぜか慌てたように楓を背中側に隠した。あの頃はまだ、母よりも小さかった楓の身体は、母の影になって、遠野からはすっかりみえなくなった。  これは後になって知ったのだが、笹本の転校は、以前通っていた学校で突然ヒートになったことが理由だったのだそうだ。もちろんそのことは他の保護者には伏せられていたが、人の口に戸は立てられず、両親はそれを知っていた。  劇的な変化があったわけではない。ただ、この場所から逃げ出したいと思うには十分な違和感が、家族の内に常に付きまとうようになり、何気ない日常に付随する不信や猜疑が、遠野を家族から遠ざけた。  「……って言っても、うちは別に何もなかった。何もなくてもなんか変だった。だから、逃げ出した」  気持ち悪かったんすよね。遠野が告げると、松岡は確かに光の戻った瞳でこちらを見返した。  時おり窺うように自分を見る両親も、それまでと何も変わらず白々しく振る舞う妹も、そして、こんな風に産まれた自分自身も。全部が気持ち悪かった。それでも、家族は一緒にいるのが自然だと、多分家族全員が思っていて、だからそれぞれ皆、普通でいようと必死だった。必死で、家族の形を保っていた。その努力はそれなりに上手くいっていて、端から見れば十分以上に、出来すぎた家族だっただろう。医者家系の長男で大学病院で内科医をしている父、笑顔が素敵で町内会活動にも積極的な専業主婦の母、T大進学率が国内屈指の名門私立高校に通う兄と、自由で無邪気で愛らしい妹。一人一人がそのように振る舞い、自分すらも欺いて、何とか家族で居続けた。しかし、その歪に最初に音をあげたのは、他ならぬ自分だった。  高校二年の夏、人生で初めて、Ωのヒートに遭遇した。五限目の授業中。昼過ぎの気だるい空気が漂う教室で、その匂いに反応したのは遠野一人だった。匂い自体は、何度か嗅いだ記憶があった。廊下ですれ違ったことのある、一年の女子。中体連では百メートル走全国常連だったようで、遠野の学年でも話題になっていた彼女の、青リンゴのような爽やかな香り。その香りが、ここ数日強まっていることには気づいていた。が、ここまでの強さは初めてで、学年毎にフロアが違うにも関わらず、香りは遠野の鼻にまで届き、ほとんど暴力のように遠野を襲った。ざわりと肌が泡立ち、身体が熱くなる。何が起きたかを理解する前に、身体が反応する。一瞬で、苦しいほどに膨れ上がった欲が、快に向かって走り出す感覚。止まらない。止められない。脳が痺れるような快に隣接するのは、外力によって臓腑をかき回され、内奥に眠る不浄を引きずり出されるような、不快感。机に突っ伏して寝た振りをしながら、血が出るほどに唇を噛み締めて匂いが去るのを待つ間、遠野の胸にあったのは恐怖だった。彼女のことは何も知らない。この青リンゴの香り以外、何も知らない。それなのに、気持ちは何一つなくても、こんな風になる。両親が自分に向ける視線の意味を、その時、遠野は初めて理解した。俺は、傷つける側なのだ。意図するとしないとに関わらず、自分は、そういう風に産まれついた。  それからはもう、毎日が恐ろしかった。猜疑、不信、ブーケの香り。両親、妹、自分。信じられるものは何もない。間違っている。自分が、ここにいることが、間違っている。いつか、壊してしまう。いつか、傷つけてしまう。それは明日かもしれないし、十年後かもしれないし、一秒後かもしれない。だから、その恐怖から逃れるにはもう、逃げるしかなかった。  「……似てるんすよね、あんたの匂い」  震える松岡の姿を目に写し、遠野は呟いた。プレハブに充満する松岡の香りは、どこか、楓に似ている。華やかな、ブーケの香り。  松岡がΩだと確信を持ったのは、銭湯でだった。それまでは気がつかなかった。最初に会ったときは血の匂いが、次に会ったときにはタバコの匂いが、その匂いを覆い隠していた。……いや、本当は。本当は、気がついていたのかもしれない。  「だから、何」  だからなんだと、松岡は問う。だから……だから、なんだろう。楓に似た匂いをしたこの男を手元に置きたいと思ったのは、なぜだろう。  「……嬉しかったのかも」  ふわふわと甘ったるい香り。ひどく魅力的で、ひどく脆い。俺が、壊すかもしれない香り。俺が、捨てた香り。  煽られない訳ではない。意思に反して引きずり出される、欲の感覚。遠野の中のαが呻いている。獣の唸りが、身体の奥から沸き上がる。それでも、それ以上に。この男の不幸を、どうにかしてやりたいと思った。  「……俺ね、普通のαよりちょっと敏感なんすよ。だから嗅ぎなれてる分、耐性は強いんで」  なんもしません、と遠野は松岡の目を見て告げた。信じて欲しい。この男には、不信も猜疑も、向けられたくはない。俺に、俺を、信じさせて欲しい。  「……さっき、飲んでた薬」  松岡がぼそりと口を開いた。その言葉は唐突で、何のことを言っているのか分からず遠野は一瞬口を噤んだが、直後にはああと合点がいった。  「あれは病院でもらえる吐き気止め。これ飲むと、鼻、ちょっと鈍るんすよ」  答えながら、遠野は松岡の様子をざっと確認した。生理的なものであろう震えは続いている。立っているのも辛そうで、体を壁に預けるようにしてなんとか立位を保っている状態だ。匂いも強いまま。ただ、目には力が戻っており、呼吸もやや荒くはあるが正常。  「……これ」  遠野は、先程準備した氷のうを松岡の足元に放った。  「首冷やすとちょっとマシって、妹が言ってたんで」  とりあえず座ったらと声をかけると、松岡はおとなしく従い、俯いたまま氷のうで首の辺りを冷やし始めた。不安も、恐怖も、消えてはいない。それでも、松岡が自分の言葉を信じたことに安堵して、遠野はほっと息をついた。  「……妹って、」  とりあえず松岡が落ち着いたことを確認し、さてここからどうするかと遠野が頭を回しはじめたタイミングで、松岡が口を開いた。  「妹って、今どうしてんの」  「入院中。Ωは関係ないすよ。普通の、病気」  「……連絡とか」  「は、取れないすよね。こんな状況だし……まあこうなる前も含めてもう十年くらい連絡とってないから、この状況だからってのは言い訳か……結局、逃げたんすよ」  妹がΩだったから。家族が信じてくれないから。そうやって、周りの責任にして、逃げた。そんな風に逃げ出しておいて、今さら。取り返しがつかないところまで行って初めて、“家族のために”と言い訳をしながら、こんなところにいる。金がいる。妹のために。妹を救うために。そのためならなんだって出来る。自己欺瞞も甚だしい。これも結局、自分のための、自分が許されるための贖罪だった。  遠野の答えを聞いた松岡は特に何も答えずそのまま黙り、すばらくするとまた、膝を抱えて丸まった。その様子を見、とりあえずは大丈夫そうだと判じた遠野は、この場所を離れるための算段を始める。喫緊の問題は松岡だった。どこにαがいるか分からない以上、この状態の松岡を人と出会う可能性のある場所に連れ出すことはできない。とはいえ、あいつらにここまで近づかれた以上、徒歩で逃げるというのは非現実的だ。抑制剤はない。吐き気どめの効果に気づいて以来薬は常備しているため、財布の中にあと何錠かはあるのだが、Ωフェロモンの放出にも効果があるかは分からない。更に先のことを考えると、これから松岡と行動を共にするとすると、抑制剤の処方を受けるためにΩの身分証を確保する必要がある。しかも、定期的に名前を変えるとなると、それは可能なのか。αに関しては統計上の抜けがあるが、Ωは薬の服用が必須の都合上、政府統計もかなり正確に取られていて、実在しないΩの身分証をいくつもとっかえひっかえすることは多分難しい。  「……邪魔んなるなら置いてけば」  考え込む遠野の横で松岡が言い、声につられてそちらを向くと、膝を抱えたまま、上目にこちらを窺う松岡と目があった。  「……置いてかれたら、あんたどうすんの?」  「分かんないけど」  「……用心棒なんだから、知らないとこで死なれても意味ないんで」  せめて盾くらいにはなってもらわないとと遠野が言うと、確かにそうかと松岡は呟いた。置いて行くつもりはない。  「……匂いが、分からなくなればいいんだろ」  とりあえず一回吐き気止めを試すかと遠野が財布を探りはじめたところで、松岡が口を開いた。暗すぎて手元が見えず、薬を探すのに手間取り、遠野は手元に集中したまま応じる。  「何か方法あります?抑制剤ないんすよ」  「……あんたが噛めばいんじゃない?」  「は?」  突拍子もない申し出に、遠野は思わず手を止め、松岡を見やった。  「番うと、他のαには匂い感じられなくなんじゃなかったっけ?」  そう、そういう機構だ。間違ってはいない。  「……いや、でも……」  「細かいとこ良く分かんないけど匂いは消せるし……ああ、それとも相手いる?……いやでも緊急事態だし、許してくれんじゃない?αは一人としか番えない訳じゃなかったよな、確か」  ふわふわと甘い、花のような香りをさせながら淡々と紡がれる松岡の言葉に、混乱する。状況だけ考えれば、悪くないアイデアではある。そうなってしまえば、すぐにでもここを離れられるし、身分証の問題も解決する。確かにそれはそう、だが。  「ていうか、あんた分かってます?Ωが番える相手は一人すよ」  倫理の問題だと、遠野は思う。そういう都合で、どうこうして良い話ではない。多分。それに第一、その話は、遠野が松岡の匂いに耐えられることを前提にしている。番った相手に対しては、フェロモンは変わらず有効なはずだ。一説には、特定の相手に対してはむしろ強まるという話もある。  「それは知ってる。それでも俺に不都合はないから言ってる。別に……寝て欲しいって言ってるわけじゃないし、あんたに相手がいても大丈夫。とりあえず、ここを離れるのにはそれがいいんじゃないのって話」  あとはあんた次第と松岡は締めくくり、言い終えるとそのまま、再度顔を俯けた。唐突な申し出の真意を測りかね、遠野は男に視線を送り続けたが、つむじを眺めていても、松岡の考えなど分かるはずもなかった。  相手。相手はいない。別に。こんな生活で、そんな相手を作る余裕はないし、もともと淡白だから、特に困ったことはなかった。時々そんな気分になっても、金さえ出せばどうとでもなる。それにもともと、誰かと一緒に居続けることはあまり得意ではない。  番の詳細は、遠野も正確に説明できる自信がなかった。分かっているのは、番になることで、Ωフェロモンの効果が特定のαに対してのみになるということ。αの側は、他のΩフェロモンの感受性がごく僅かに鈍るが、ゼロにはならないということ。番になった相手との身体接触と体液の交換によって、Ωのヒートを収めることが出来るということ。  テレビやら本やらからから得た知識を引っ張り出してみたが、情報があまりにも不足している。……そして、それ以前に。  「……怖く、ないんすか」  ため息に乗せて、遠野は松岡のつむじに問いかけた。怖くはないのか。噛まれることが。それから、こんな、動物的な絆を結ぶことが。遠野は、遠野自身は、それがとても怖かった。  「……怖いよ」  怖いに決まってんだろと松岡は低く続けた。  「……ヒートんなると……触られたいと思う。誰でもいいから触ってくれよって……すっごい嫌なのに、でも、誰でもいいから触って、楽にしてくれって、そうも思う」  俺は、自分が怖いと松岡は言い、するりと顔を上げた。  「だから、この衝動の対象があんた一人になるんだったら、その方がいいなって、思って」  暗闇になれた目が松岡を映す。色の白い全身が、薄く、赤く、染まっている。目元も、赤く蕩けて、苦しげに薄く開かれた唇も、内から透ける緋色が目を引いた。久々の感覚が、遠野を襲う。欲。どろりと引きずり出される欲が、視界を霞ませる。影響を、受けないわけではない。我慢できる。人よりも少しだけ、我慢が効くというだけ。  くそったれと思う。結局、煽られている。大丈夫だなんて強がりを言って、本当は、触りたい。触りたくないのに、触りたい。  「……正常じゃないんすよ、あんた。ヒートに当てられちゃってる時にそんな事言ってっと、後で後悔しますよ」  煽るなと思う。煽らないで欲しい。……たがが、外れてしまう。せっかくここまで耐えた努力が無に帰す。本能に負ける。傷つける。それだけは絶対に嫌だった。  赤らんだ肌が艶かしくて見ていられず、視線を逸らしてそう告げると、分かんない奴だなと松岡がひとりごちた。  「……俺は、あんたならいいって言ってんのに」  遠野が顔を上げると、松岡はこちらを向いて笑っており、誘うようなその表情にざわりと鳥肌が立った。ピタリと動きを止めた遠野を見、松岡は首に当てていた氷のうをぱっと手放し、重力に引かれた布袋は、ぐしゃりと音をたてて床に落ちた。甘い香り。心地良いだけではない、強い香り。  正常、と遠野は先程自分で口にした言葉を脳内に反芻した。先に、正常を外れたのは、俺の方か。一人でいいと思っていた。この先ずっと。そう思っていた自分がこの男に声をかけたあの時、遠野の正常は、多分もう、機能を止めていた。一人がいいと、思っていた。一人でいいと、考えていたはずなのに。家族に、妹に、似た香り一つ。たった一つで、揺らぐ。  十年前、家を出たあの時から、遠野はもう、大切なものは作らないと決めた。自分には何も守れないから。両親のことも、妹のことも、遠野は遠野なりに大切だった。それなのに、最後には自分を優先する。自分が苦しみから逃れられれば、それでいい。そう言う風にしか出来ない。だからもう、大切なものを作るのは辞める。そう、思った。  「他に選択肢、ないと思うけど?」  言いながら、松岡は首を傾けると、片手で襟足をかきあげ首筋を露にして、上目に遠野に視線を送り、どうぞと言った。甘い、ブーケの香り。  ーお兄ちゃん、  遠野が大学進学のために家を出る前日の深夜。電気は消したまま、何となく寝付けず布団にくるまっていた遠野の元に、足音を忍ばせて楓がやって来て、涙に濡れた声音で囁いた。  ー私のせいで、ごめんね  狸寝入りで聞いた言葉と、ふわりと薫った甘い香り。  もし、やり直せるなら。お前のせいではないと、抱き締めてやりたい。お前は何も悪くない。父さんも、母さんも、悪くない。不運だった。ただ皆少し、運が悪かっただけ。  もしも、やり直せるのなら。今度は、絶対に、失敗しない。絶対に、泣かせない。  嫌になったら言ってと、勤めて冷静に告げてはみたが、本当に止まれるかと問われたら、自信を持ってイエスとは言えない。松岡が逃げ出さないよう、座ったままゆっくりと距離を詰める。大した距離ではない。遠野の手が松岡に触れる距離まで近づくのに、時間にして十数秒。松岡は、遠野が手を伸ばすと一瞬、ふるりと身を震わせたが、逃げることはなかった。  どうしようかと一瞬悩んで、遠野は取り合えず、無造作に投げ出されていた手に指先で触れた。熱い。  「っ、」  びくりと、松岡の肩が跳ね、挑発的に襟足をかき揚げていた手がずるりと首の上を滑る。指先の触れ合い一つで溶け出すほど、ぎりぎりの状態だったことに驚く。Ωのヒートの辛さなど想像もつかないが、薬なしで慰めも与えられず一時間以上放置された松岡の身体は、見た目以上にぐずぐずだった。  「……だいじょぶすか」  「いい、からっ……早くしろよ」  ほんの少し触れただけでびくついているくせに。松岡は震えながらも憎まれ口を返す。結構、負けん気が強いタイプなのかもしれない。  そろりと指先を撫で、手の甲を上り、そのまま手首を掴む。小さな動き一つに反応して身じろぐ松岡はいつのまにか目を閉じていて、息をつめて遠野の次の動きを待っている。最初は、あんなに勢いよく逃げていたのに。全部、遠野に任せている。手首を掴んだまま、もう一方の手を松岡の胸の辺りに当てる。心臓が、早鐘のように打っている。  「っぁ、……な、に」  多分反射的に。松岡は胸に触れた遠野の腕をぐっと掴み、きゅっと体を丸めた。ぶるりと、身体が震えた。その瞬間、何かが、ふわりと溢れて止まらなくなる。この気持ちにどんな名前がつくのか、遠野は一瞬考えたが、遠野を掴んだ松岡の指先がするりと柔らかく皮膚を撫で、その感触に思考が霧散する。ブーケのような匂い。がっしりとした手首の感触。腕を掴む手の強さ。薄く開いた目が、潤んでいる。今までより近い距離で、こちらを見上げる瞳と目が合う。きゅっと心臓が縮こまるような心地がして、遠野は緩く捕まれた腕をそっと動かし、親指で松岡の頬に触れた。頬も熱い。耳も真っ赤だ。香りは甘い。でも、その甘さに惑わされてはいない。遠野には意思がある。自分の意思で動いている。大丈夫だと思った。大丈夫、止めろと言われれば、止められる。遠野はふぅと息を吐き、内に溜まった熱を吐き出した。  「噛むけど、気、変わんないすか」  こんと額を合わせて、近すぎてピントの合わない顔に向かって問う。苦しくて仕方ないはずなのに、松岡はにぃっと口角を上げて笑った。  「早く、って、言ってんのに」  いいかげんうざいと遠野の頬に首筋を擦り寄せる松岡の気持ちは分からない。分かりようがない。それでも、一貫して拒否の色はない。あんたがいいなら、それでいい。  首の辺りは匂いが特に濃い。知らなかったなと遠野は思い、目眩がするような香りを吸い込んだ。この辺かなと首筋に唇を当てて呟くと、松岡はくすぐったいと声をあげ、分かんないなら取り合えずやってみればという言葉に励まされ、その部分を一度、唇で軽く吸い上げた。松岡はふっと短く息を吐いた。  「噛みますよ」  予告して、あ、と口を開けると、腕を掴む松岡の力が一瞬ぐっと強まった。怖い。怖いと言っていた。遠野は宥めるようにもう一度、松岡の首筋に唇を押し当て、それからゆっくりと、松岡の首筋に歯を立てた。  「ん……はっ、ぁ、痛っ」  歯を立てた一瞬、松岡の身体はきゅっと緊張し、直後。くたりと弛緩した身体を遠野が支えた瞬間、これまでにないほどに濃い香りが松岡の全身から吹き出した。  「っ、」  意識を持っていかれそうな感覚に遠野は息を詰め、知らず噛みつく力が強くなる。ぐらりと、視界が揺れる。甘い。甘い香り。この段になって、気づいたことがある。松岡の匂いは、少し、違う。楓のそれよりも、少し、甘みが深い。花の咲き乱れる果樹園。噛り付きたくなるような、熟れた果実のまろみある香。ぎりりと噛み締めた肌まで甘い気がして、噛みついたまま吸い上げる。  「ふ、ぁ、んっ……」  匂いだけじゃない。声も、体も、全部。全部甘い。じゅっと音を立てて口を離し、すぐにまた首筋に唇を寄せ、噛み痕をべろりと舐める。ふるりと、腕の中の身体が震える。もっと。もっと、欲しい。 「っ……、と、待って…」 遠野さん、と、切羽詰まった声で名を呼ばれ、はっとする。いつの間にか松岡の両手は遠野の胸に当てられており、待ってと弱々しい静止の声をあげていた。  慌てて身体を離すと、露になったうなじには血の滲む噛み痕と鬱血痕がくっきりと残っており、遠野は咄嗟に松岡の顔を覗き込んだ。  「だい、じょうぶ、」  大丈夫かと、問う言葉が途中で詰まる。真っ白な肌を真っ赤に染めて。今にも零れ落ちそうなほどに目を潤ませた松岡の、やばいと呟いたその唇を塞いだのは、ほとんど無意識だった。  「ん、んっ…ふ」  熱い息を吐き出す唇に噛みつくようにキスをして、性急に舌を差し入れる。ヒートを抑えるのには体液の交換、という思考もなかった訳ではないが、それは完全に後付けで、ただしたいからした、というのが正確だった。松岡が鼻に抜ける上ずった声を上げるたび、背筋がぞくりとする。触れあう舌先が甘い。角度を変えながら口腔内を貪るうちに、松岡は苦しくなったのか段々と喉を反らす姿勢になり、覆い被さる遠野は松岡の顎を押さえて逃れる事を許さず、ようやく唇を離したときには、松岡は肩で息をしていた。  「……渋ってた割には、随分情熱的なことで」  待てって言ったのに。しばらく呼吸を整え、最後にはぁと吐息を漏らした松岡は、先程よりもいくぶんかマシな表情でこちらを見上げて言い、自分の非を自覚していた遠野は、すんませんねと応じた。  「……あんなんなると、思わなかったんで」  唇に残る生々しい感触を手の甲で拭い、遠野はすっくと立ち上がった。多分、先程よりマシなのは松岡ばかりではなく、かなり薄くなった松岡の匂いのお陰で遠野の脳内の霧もかなり晴れており、足元から送られる松岡の視線に晒されても平静を保てる自分の状態を確認して、遠野は安堵のため息をついた。  番が成立したことは、感覚で分かった。さすがに、キス一つではヒートを終わらせるほどの影響はなかったが、フェロモン放出はかなり減少したようで、松岡の発する匂いは先ほどよりも穏やかになり、身体の震えも止まっていた。しかし、遠野がつけた首筋の歯形はくっきりと赤く濃く、本人からは見えない場所にある痛々しいその痕は、恐らく数日は消えないだろうと遠野は思い、なぜか一瞬、喜びにも似た感情が胸に湧いたのだが、遠野がその意味を追いかける前にその思いはゆらりと揺らいであっという間に輪郭を失い、あとに残ったのは、とりあえずでかい絆創膏を買おうという小さな決意一つだった。  「動けます?」  「お陰さまで」  遠野の問いかけに松岡は間髪いれずに応じ、ばさりと頭を振って乱れた髪を軽く整え立ち上がった。倒してそのままになっていたパイプ椅子を起こす松岡から目を外し、時計で時刻を確認する。23時5分。  「……電車、まだ動いてるかな」  「上りならまだあるとは思うけど、そんな遠くまでは行けない」  「バスは?」  「バスはとっくに終わってる。てか、荷物は?」  部屋になんか置いてたやつという松岡の問いかけに、あれは置いて行きますと応じる。  「どうせ着替えとラジオくらいしか入れてないんで」  必要なものは、移動先でまた買えばいい。まあそれも、無事に移動できればの話だ。今日までに歩き回って確認したこの辺りの周辺地図を脳内に浮かべる。  「……こっから一駅歩いて、電車で行けるとこまで行って、そっからはタクシーで」  「了解」  遠野のざっくりとした説明に松岡はそう応じ、一駅ってどこまでと口にしながら、おもむろに首筋に手を伸ばし、遠野の噛み痕をかりりと掻いた。あ、と思ったときには手が出ていた。  「……掻かない方がいいすよ」  遠野はぱしりと松岡の手を掴み、驚いた様子でこちらを向いた松岡に告げた。ぱちりと噛み合った視線。骨張った手の感触に、ざわりと胸が騒ぐ。  痕、残りそうだからと呟きながら手を離すと、松岡は不機嫌そうに眉をしかめた。  「あんた、身長いくつ」  「八十三」  プレハブの鍵を開けながら応じると、隣で松岡がむかつくなぁと呟いた。  「あんたもそんな小さくないすよ」  「七十八!普段そこまで見下ろされることないから、なんか腹立つ」  遠野は笑い、松岡は羽織のフードを被って首筋を隠し、細く開いた扉から、するりと闇のなかに飛び出した。  意義のない存在に、存在する自由はない。服のシミになって、タバコの火消しに使われたコーラに、松岡は自分を見た気がした。父を壊し、姉を汚した。自分さえいなければ、ああはならなかったはずだ。茜の魂も、もっと純粋に愛される場所に産まれ落ちたはずだ。自分さえいなければ。  不運だと、遠野は言った。全員が、不運だった。ならば、悪者は、自分ではないのか。あんたの家族を壊したのは誰かと聞いたら、この男はなんと答えるだろう。前を行く遠野の背中を追いながら、松岡は思う。その答えを、聞いてみたい。あんたの中身を見せて欲しい。この男の目を通すと、俺の世界は一体、どう見えるんだろう。ただ、それを知りたいと思った。  退路は絶たれた。松岡の前にはただ、望洋たる平地が広がっており、いつ終えるとも知れない無間の歩みが待つ。さりと、パーカーの分厚い布の上から首筋に触れる。じくじくと熱を持つ傷の痛み。この痛みが縁だ。終わりの見えない乾いた平野を行く遠野の、その背中を追う。追いかけて行く。  「……松岡サン、行きたいとこあります?俺は人が多いとこならどこでもいんすけど」  仕事しやすいとこがいいなと、前を行く男が、切れ長の目を更に細めてちらりと流し目を寄越す。行きたいところ。俺も、と松岡はすぐに返す。  「どこでも、いい」  あんたがいく場所なら、どこでも。それがとりあえず、松岡の目的地だった。

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