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第1話

※作中に登場する薬品名、病名、宗教名は実在しますが、実際のものとは関係ありません。 ※特定の疾病、障害を批難、差別する意図はありません。 ※登場人物の関係性の中で発生する会話は全て架空のものです。 ※読後の『この小説を読んで傷ついた』『苦しい思いをした』『現実に即していない』『侮蔑的だ』『削除を求める』等のご意見にはご回答できません。 神様どうか、この鍵を開けたら死体を見つけちゃいましたなんてことになりませんように──江里口(えりぐち)は毎回そう思いながら恋人が住むアパートのドアを開ける。 「有基(ゆうき)~生きてるか~」 電気がついていないから、寝ているのかもしれない。足元にはストロング系チューハイの空き缶が無数に転がっている。玄関のすぐそばのキッチンには料理をした形跡は相変わらずない。燃えるゴミのゴミ箱の蓋はちゃんと閉じられているから臭くない。1Kの間取りで隠せるものなどなにもなく、灰色のカーテンで仕切られた居間を覗きこむと、そこには誰もいなかった。 「……コインランドリーかな」 汚れた洗濯物がないことを確認し、江里口はスマートフォンでメッセージを送った。 ──いまどこ? 返信が来る前に、枕元に雑然と置かれた大量の薬の袋と、恋人が置きっぱなしにしている鞄の中のお薬手帳をチェックする。 「また増えてんな」 薬の名前を検索する。パキシル、ソラナックス、ジェイゾロフト……パキシルはやめたんじゃなかったっけ? まあ、同じ医師が処方しているから誤りというのはないのだろうが。毎回思うのだが、なぜ薬というのはこんなにも必殺技にしたら強そうなものばっかりなのだろう。滅多に風邪も引かないし怪我もしないので病院とは無縁の江里口はその程度の感想しか持てない。 ピコン、返信があった。 ──カネヨシの向かいのコインランドリー ちなみにカネヨシとは二人でよく行くラーメン屋で、この近所にはコインランドリーが多数あるので、恋人は場所を分かりやすく説明してくれたのだ。 ──いま有基の部屋ついたけど、そっち行く? ──さっき洗濯始めたばっかりだから、よかったら来て ──了解 江里口はビニール袋に空き缶を放り投げながら返信した。 「いてっ」 屈んだら洗濯機に頭をぶつけた。そう、この部屋には洗濯機があるのに、恋人は家で洗濯をしない。干す場所がないとか、いくつか謎の理由を述べていたが江里口はよく分からなかった。ただコインランドリーに通う習慣が、引きこもりがちな恋人が外に出る動機になっているのはとてもいいことだと思うので、なにも言わない。ビニール袋の口を縛って、入ったばかりの部屋を出た。秋の夕暮れは驚くほど早くて、もうすぐ夜になりそうだった。途中のコンビニで煙草を買って、尻ポケットに入れてコインランドリーに向かう。カネヨシの角を曲がると美味しそうな豚骨スープの香りがする。夕飯はラーメンがいいななんて考えながら信号機の向こうを見つめると、コインランドリーのガラスの向こうに人影が見えた。たぶん、有基だ。自然と駆け足になる。信号は青いままだった。 「エリ」 重い扉を開けると、猫背の有基が振り返ってちょっと笑った。江里口だから、エリ。有基は灰色のだぼっとしたパーカーを着て、平べったい椅子に座っていた。 「よ。なあ、夕飯ラーメンにしない?」 「食欲ない。ここじゃないとこにすればよかったな」 有基は笑った。カネヨシのせいで江里口がラーメンの気分になってしまったと分かったのだろう。首を振ると、また洗濯機に向き直る。有基は特に雑誌やゲームを持っていなかった。こんなに長い間、暇じゃないんだろうかといつも思う。 「って有基、いつ飯食った?」 「……今朝は、あれだ、あの……パンと味噌汁食べたよ」 「それだけ?」 「昨日の夜は……パンと、なんか、パン食ったよ」 「体をパンだけで構成すんじゃないよ」 はは、と有基は控えめに笑った。一人暮らしを始めて、炊飯器の米を何回も真っ黄色にしてしまってから、食パンが有基の主食となったことを知っている。パン屋巡りが好きだったこともあるから、近所の美味しい店でたまに買ったりしていると教えてくれたこともある。 「蕎麦とかだったらちょっとは食が進むかな……『近所の蕎麦屋』」 「えっなにやってんの」 「知らない? グーグルにこう言うと、ほら、出た」 「あ、マジで? なにこれ」 二人で江里口のスマホを覗きこむ。 「CM見てない?」 「NHKの集金が来るからテレビ置いてないの知ってんだろ……」 げんなりした顔をする有基を、無性に抱きしめたくなる。でもここは外だからそれは我慢する。 「こんなに店あんだ……知らなかった」 「じゃあ夕飯、蕎麦で」 「うん。ありがと」 有基はそう言うと、ぼんやりと洗濯機を眺めた。ぐるんぐるん、と服が回っている。そっと恋人の横顔を盗み見る。痩せていて、頬が落ちくぼんで、目だけがきらきら、潤んでいる。途中で脱色をやめた髪は中途半端なグラデーションを作って、耳を隠すぐらいまで伸びてきた。 「……東山がさぁ」 「うん?」 「この前、レポートの提出があったんだけど、そのテーマが『食文化の変遷と経済』で」 「……うん、あんまり難しい話はしないで」 「簡単にまとめると、いまの学食の値段は適正じゃないから次期総長は自分にみたいなプロパガンダで」 「変な話……はは」 笑いながら有基はうつむいた。 「俺は東山のこと嫌いじゃないけど、公私混同はよくねえなと思ったね」 「そうだね」 有基とは同じ大学に通っていたけれど、楽しみにしていた学生生活は、恋人が入学して3ヶ月で休学になってしまうという微妙な感じで始まった。夏休み明けたら来なくなるパターンだとまわりは言ったけれど、それだけじゃないのは分かっている。休学して部屋にこもっている有基と江里口は、だんだん話が合わなくなってきて、それ以外の共通の話題と言えば、高校時代の話になるのだけれど、それも触れてはいけないことのように思えて、なんとなく話題に出しづらい。 「……いつも思うんだけど暇じゃないの?」 10分くらい無言になったので声をかけるが、ぼーっとしている有基には聞こえていないらしい。つんつん、とパーカーの袖を引っ張った。 「え、なに?」 「マリ」 江里口が唐突にそう言うと、ほぼ反射で有基は答える。 「バマコ」 あははは、と二人は笑う。 「エストニア」 「……タリン!」 今度は有基が問いかけて、江里口が答える。二人は高校生の頃に、どんな経緯だったかほとんど覚えていないが、世界の国名と首都を記憶するというゲームをやったのだ。思い返すと本当に無駄な時間の過ごし方だったと思うのだが、その頃は本当に楽しかったし、いまでもクイズ番組を見るとその瞬間だけ二人は大活躍する。 「いつか本当に行ってみたいよな。いろんな国の首都」 「……まあ、いつか、の話」 そう言うと、有基は目を瞑った。未来の話をすると、この男はだんだん閉じていく。前からこうだっただろうか、でも大学受験の時期は絶対に同じ学校に入ろうなと、頑張っていた気がする。学力に差があったから少し無理をさせた感は否めないが、ちゃんと話し合って決めたことだ。親元を離れてそれぞれがひとり暮らしをすることも、そのとき決めた大事なことだった。でもそれくらいの時期から、通院している気がする。 「……ちょっと出る」 「ん」 コインランドリーに有基を残して、江里口は外に出た。しばらく歩くと自動販売機が密集している角に灰皿が置いてあって、もくもくと何人かが煙草を吸っている。なかには電子タバコの人もいて、最近のトレンドだよなと商品名を検索しながら火をつける。大学一年生、れっきとした未成年。違法だけど別に、そんなに気にしていない。大学ではそういうことを見咎める先輩と、まあ普通だよなって無視する先輩がいて、その辺を見極めて吸っている。 (……有基が大学休むようになってから、増えたかな) 有基は嫌煙家だ。というか、吸わないように遠ざけていると言ったほうが正しい。本当は吸いたいらしいけど、複雑な心境がそれを許さないと言っていた。 「お母さんが俺を妊娠したとき、お父さんは死ぬほど頑張って禁煙したんだって。だから俺が吸うのは絶対におかしいらしい」 そんなことを言っていた。もう家から離れてるんだし、そんなに気にすることでもないのではと江里口は思うが、体によくないのは本当だから積極的にこちら側に誘い込むことはしない。それに、喫煙云々よりそもそも飲酒が有基にはよくないと思う。酒で薬を飲むのはやめろと言っているんだけど、たぶん飲んでるだろうな。 「気にしない方がいい」 これは、有基を一番傷つける言葉だ。人生で降りかかるあらゆることを気にしなくて済むなら有基はこうならなかった。ざらざらと、段差がたくさんある、恋人の体を思い出す。あ、でも最近は急に夜中に呼び出されたり、連絡を取ろうとしたら入院してた、とかはなくなったなあとちょっと安心する。 ──そろそろ洗濯終わる ぴこん、と連絡が入った。一本しっかり吸い終ってから、コインランドリーを目指した。 「エリ、の、パンツ」 「あー、ごめん置きっぱなしにしてた」 「ううん、いいよ。あと靴下」 ぽい、ぽい、と幾つか洗濯物を渡される。身長は有基のほうが少し低くて、痩せている。本来ならば洋服を交換したりすることはできないのだけれど、基本的にだぼだぼしたジャージやパーカーを選んでいるせいで、江里口でも有基の服を着ることができる。 「蕎麦だっけ?」 「うん、鴨南蛮が美味しいらしい」 「ふうん……」 がさがさ、と業務用スーパーの保冷バッグに洗濯物を突っ込んで(江里口のものも結局入れて)二人は歩き出した。外は真っ暗だ。手を繋ごうと思ったけど、有基はずっと手をポケットに突っこんでいたから触れなかった。 「あそこ」 「ああ、なんか見たことある」 「代沢にも店舗があるらしい」 「だいざわ? ってどこ?」 「うーん……知らね」 「知らないのかよ」 暖簾をくぐると、蕎麦のいい香りが広がった。 「いらっしゃいませー! 二名様ですかー? こちらどうぞー!」 テーブル席に案内されて、メニューを見る。 「鴨南蛮推しがすごい……」 「本当だ……他のメニューないのか?」 ひっくり返して眺めると、カレーうどんとか、カツ丼とかまあ普通のメニューもあった。 「鴨南蛮セットの、ミニカツ丼にしようかな」 「……うん……」 有基はなかなか決まらないようで、さっきからずっと同じページを見つめている。 「ゆっくり決めな」 「……うん……」 最終的に『温かいきつねそば』に決まるまで、15分かかった。 蕎麦屋を出て、コンビニとドラッグストアに寄っていろいろ買って、有基の部屋に戻った。 「あ……掃除した?」 「うん。缶潰すまでするのはいいけど、まとめとかないと転ぶぞ?」 「ありがと……」 靴を脱いで順番に入る。買ったものをいったんキッチンに置いて、カーテンの向こうに有基が入ったあと、すぐ後ろから抱きしめる。 「んー…? なに、なんかあったの」 「なんも~」 「座らせて」 「んー」 伸びた髪の間に鼻を入れてくんくんすると、ちょっと汗の匂いがする。 「シャワー浴びてないから、ちょっと、あのさ……」 そのまま二人で、ベッドの上にぎし、と座る。尻ポケットの煙草がぐしゃりとつぶれる音がした。後ろ手に有基が手を伸ばして、ポケットの中を探り、煙草を見つけ出して遠くへ投げた。 「……だめ」 「ごめん、ごめん」 ちゅ、ちゅとキスをして機嫌を取る。目を瞑ってそれを受け入れる有基を見つめて、はっと気付いた。 「食後の薬飲んだ?」 「……飲んでない、飲まなきゃ」 上体を伸ばして、枕元に置いてあるビニール袋をガサガサと探る。 「なに飲むか分かってる?」 「うん……えーっと、これと……」 ぷちぷちとシートから出すのを横目に、キッチンで水を汲んでくる。 「はい。水いっぱい飲んで」 「うん……ありがと」 ざらざら、と薬が口の中に消えていく。これはキメセクになるんだろうか、と考えながら、でも別に意識が朦朧としているとか、感度が上がるとかでは全くないんだから大丈夫なはず、と楽観する。薬を飲み終わってコップをテーブルに置くと、有基がちょっとそわそわし始める。さあ、セックスをします、という感じに慣れないらしい。もう何度もこの部屋で抱き合ったのに、最初はいつも緊張してしまうんだと言っていた。がっつきたいけど、あんまりプレッシャーを与えたり焦らせたり、出口がない感じにすると大変なことになるので、ゆっくり気持ちをほぐすことにした。 「ちょっとごろごろしよ」 「……うん」 先に布団に潜り込んで、おいでと呼ぶとびくびくしながら入ってくる。ぽん、ぽんと背中を叩いて額や目にキスをする。 「ゆっくり、な?」 「……うん」 性欲もあんまりなくなってきているのを知っているけれど、有基が受け身である以上、勃起できなくても問題はない。問題ないことはないんだけど、セックスに支障はない。 「いや、支障はないことはないけど……」 「ん? なに」 「ううん」 すり、すりと額を胸に押し付けて、有基はぎゅっとしがみついた。 「……明日、有基がこの前教えてくれた、パン屋さん行く?」 「エリ、食べることばっかり」 「たしかに」 江里口は、分からないのだ。どうしたら、有基ともう一度楽しい時間を過ごせるようになるのか思い付かない。江里口にとって悲しみや苦しみは、だいたい空腹が満たされれば解決されることが多かった。自分が一般的に見て、かなり単純な精神構造をしている認識が一応ある。美味しいものを食べて寝ればたいていのことはなんとかなる。好きなアニメ映画でも、『空腹が人間によくないものをもたらす』みたいなことを言っていた。それを全面的に信じている。 「……どこにも行きたくない」 「ずっと籠ってるとキノコ生えるぜ」 「生えないよ……」 体全体をゆっくり撫でて、腰に手を回す。ジャージ越しに骨が分かるくらい痩せていた。薬を飲むと副作用で太る、とネットで書いてあったのを見て少しだけ期待していたのだけれど、有基には当てはまらなかったみたいだ。 「……来なくても、いいんだよ、無理して」 「無理してないよ。会いたいから」 「……嘘つかなくていいよ……」 嘘じゃないんだけど。まあ信じてもらえないだろうから、黙ることにする。そのまま、そっとパーカーの袖口に指を入れた。 「……やだ……」 とても小さい声でそう言ったけれど、聞こえないふりをして手首を撫でる。両手共にそうすると、有基のパーカーの中で手が結ばれる。ざらざら、だんだん、ぶくぶくした、細い腕。 江里口は、両腕が傷跡だらけの、薬と酒をチャンポンして大量に飲んでは何度となく病院に搬送される、この人間を愛している。 「あ、あのさ、あの……明日……あした……」 明日も来て、たった一人の恋人に、それが言えない男を愛している。 「明日も来るよ」 そう言って、江里口はできるだけ優しく服を脱がせた。 高校生の頃から、有基にはそういう傾向があった。そもそもに家庭環境が複雑らしく、江里口はよく知らないのだがお母さんとお父さんが宗教のなにかで、親戚はまた別の宗教のなにかで、そのせいもあってあまり友達ができなかったらしい。いじめられたことはないらしいけれど、自分は他の家の子とは違うんだと思いながら育ったと言っていた。ひとりで過ごすことが多かったから、落ち込みやすいというか、考えこみやすいというか、物事のすべてが自分の身にズドーンと降りかかる、そんな気がしてしまうと言う。 江里口は、有基と知り合って初めて希死念慮という言葉を知った。言葉を知っただけで漢字で書けない。なんとなく死にたい、とか、まあ生きてりゃそんなときもあるのかもしれないなと思う。 体育の授業でも、夏でも、有基はずっと長袖を着ていた。江里口は仲良くなるまで、本当に寒がりなんだと思っていた。初めてクラスが同じになったのは高校二年生のときで、その頃はなんとも思っていなかった。明確に意識をし始めたのは、高二の夏休みの補習だと思う。有基は友達が少なかったけれど、その少ない友達のほとんどが女子だった。有基は確かによく見ればかっこよくて、受け答えも丁寧だし、馬鹿なウェーイという男子高校生に比べれば格段に女子のウケがいい。更に言うと、ちょっと静かな、どっちかというとオタク系の、図書室とかによくいるタイプの女子にめちゃくちゃモテていた。 ──そういえば図書委員と付き合ってんのかな。どういうエッチすんだろ。 蝉がみんみん鳴いてクソうるさい授業中にそんなことを妄想して、カッとどこからともなく怒りが湧いた。嫉妬、怨念、苛立ち、今まで感じたことのない強い感情だった。 江里口は人生においてあまり悩むことはなかったが、ひとつだけ自分が友達と違うと明確に認識していることがあった。自分がゲイだということだ。幼稚園くらいのころから男の子が好きだったし、テレビで女優やアイドルを見ても、友達とAVを見ても、女性を全く魅力的だと思えなかった。ただこれは、広い意味で「男性が好き」ということであって、幼稚園の時を除けば特定の誰かが好き、ということはなかった。自分の性質を隠さなきゃいけないとか、親に申し訳ないとか、これからどうなるんだろうとか、行き場のない性欲はどうしたら? とかいろいろと考えたりもしたけれど、なんとなく親元から離れて東京で生活したら全部が解決する気がして、早く大学生になりたいなと思っていた。 そんな江里口だったから、有基が──当時はまだ石澤と呼んでいた──石澤が女子とセックスをすることを想像して、物凄い嫉妬に駆られて気付いたのだ。たぶん石澤のこと好きだ。なんでか分かんないけど好きだ。セックスしたい。まあセックスできなくてもいいからなんかこう、いちゃいちゃしたい。石澤に笑ってほしい。あわよくばセックスしたい。そんなこんなで、とりあえず友達から始めようと勝手に決めて、アプローチを始めたのだった。首都を覚えるゲームも、その一環だったような気がする。 「なあ、大学東京にしてさ、ひとり暮らししたらよくない? お父さんとかお母さんとかと、離れられるかもしれないし」 「うーん」 「それに俺、卒業しても石澤と一緒にいたいな」 「……う、うん、俺も……」 つけこんだと言われればその通りだと思う。江里口はゲイで、とにかく男とやりたい盛りだったし、有基は弱っていて、頼りにするものがほしかった。家庭にそれを求めても叶えられなかった。そうして、二人は故郷をほぼ捨てたような気持ちで出てきたけれど、まだ有基は親の庇護のもとにあり、厳密に言うと江里口もそうで、まだ二人で立って歩けるほど強くない。江里口がいまできることと言えば、なるべく有基を入院させず、症状を悪化させず、何年かけてでも大学を卒業できるように協力する、ということくらいだ。 でもそれは、そんなに難しいことではないような気がするのだ。いや、本当は物凄く困難なんだろうと思うし、いますぐに有基の親が来て、実家で看病すると言ってもおかしくない状況だと分かっている。ただ、どうしてか、なんとなく上手く行く気がするのだ。理由は分からない。 服を全部脱がせたら、有基は恥ずかしそうに体を丸めた。 「見せて」 「……う……」 よいしょ、と腕をひっくり返すように開かせる。新しい傷はないようで、一番新しいものもかさぶたがほんのちょこっと残るくらいにまで回復していた。肉が見えていたときは縫わないといけないんじゃないかと心配になったけど、最近の絆創膏はめちゃくちゃ性能がいいらしい。有基は、まだ血管に対して横向きに切る。血管に沿って縦に切ると本当に命に関わるらしいから、どうかそれだけはしないでほしいと思う。 「増えてない。えらい」 「……ううう……」 江里口の性欲のためだけにセックスをしているようなものなのだが、全身を見ることで有基の自傷の範囲が分かるから、チェック機能として働いているなと思う。 「足はどうかな」 「……ってない、やってない」 そう言って足の指の関節をちょっと切っていた時期があるので──関節は、曲げると全く気付かない──体中くまなくチェックする。有基は金属アレルギーがあるので、ボディピアスの類はしない。刺青もしないし、煙草を吸わないから根性焼きもしない。いまのところ両腕以外に傷はなかった。 「本当だった。いい感じ」 ちゅーっと頬にキスをすると、恥ずかしそうに足で蹴ってくる。そのまま頭を撫でて、耳を撫でる。 「……エリ、あの」 「ん?」 「あの、ありがとう」 「なにが~」 柔らかい耳たぶを引っ張って、噛みつく。 「ふへ、へへ」 江里口には少し年の離れた妹がいる。8歳のときに生まれたから、まだ小学生だ。両親が妹に向ける愛情や怒りを目にしたとき、自分はこうやって育ってきたんだなあとなんとなく感じたのを覚えている。オムツを換えるとかミルクをあげるとか、そういう基本的なことだけでなく、絵本を読んであげるとか、めいっぱい褒めてあげるとか、優しいキスとか、高い高いとか、そういうこと。いけないことをしたら怒って、危ないことをしたら全力で止める、そういうことが『人間を育てる』ということなんだとしたら、有基はそういうことを受けてきていないんじゃないだろうかと思ってしまうのだ。江里口は有基の両親に会ったことがない。卒業式にも来なかったし、有基が頑なに会わせようとしなかったから、これまでもこれからも会わないだろう。この世に有基という人間を送りだしてくれたことはとてもありがたいけれど、今でも家賃や仕送りや学費を滞りなく与えてくれるのはとても感謝しているけれど、それでも、憎く思わずにはいられない。人を恨むのは好きじゃないけど、これだけはずっとそう思うのだろう。 「あ、の……し、しよ」 そういう、まっとうな愛情みたいなものに似たなにかで触れ合ったあと、すぐにセックスに持ち込んでしまうのは本当はよくないんだと思う。というか、たぶん現実的にはセックスしないほうが体にはいいし、セックスしないと自分に価値がないと有基が思い込んでしまう可能性のほうが心配だ。だけど、本当に一瞬だけ、その激情のさなかで有基がリラックスできる瞬間がある。自傷のことも忘れて、とろんと気持ちよく、言いたいことが言えるようになるときがあるのだ。 「ちょっと時間空いたから、痛かったら言って」 「ん……」 ドラッグストアで足りなくなっていたローションとゴムを買った。あと痔に効く軟膏。たぶん久しぶりだから、切れはしないけど腫れると思う。終わったら塗ろうなと言ったらめちゃくちゃ恥ずかしそうな顔をしていた。 「……いっ……たくない」 「ちょっと力入れて……」 尻に何かを入れようとするとき、ちょっといきむくらいにした方が入りやすい。ローションまみれの小指から薬指、中指とゆっくり入れていくと、有基の腰がびくびく跳ねた。 「んっ、ぁ、ぁ……」 指に吸いついてくる感触に、早く突っ込みたくて仕方がない。でも我慢。たまに無理して受け入れようとして、過呼吸みたいになってしまうからだ。 「有基、息して、そう、吸って……ゆっくり吐いて……」 「んーっ……んっ」 ぶるぶる、震えながら必死で息をする。それに合わせて中を刺激する。 「もうちょっとだから」 「ふっ、ふっ、ふっ……」 少し呼吸が浅くなってきてしまったので、いったん止めて指を抜いた。もどかしそうに足を振るが、それはそのままにして額を合わせる。 「大丈夫、できなくても帰らないから、ゆっくりしよ」 「あ、あ……あ、ご、ご……」 謝られそうになったので、口を鼻で押さえた。そのままぐりぐりと押し付けると、溜まっていた唾液がこぼれる。 「なんか飲もうか、口乾いた?」 「あ、ちょ、待って……」 呼吸が整うのを待つ。ちなみに江里口の陰茎は爆発的に勃起していたけれど、中断されることに慣れてしまっているので特に問題はない。セックスしているときに吐かれたり、痙攣して失神されたりするくらいなら自分の欲望をおさえたほうがずっといい。 「……副作用で、口、乾くけど、」 「うん」 「いまは、平気……もうちょっとしたら、できるから、待って、」 「オッケー」 そのまま、顔を隠すように江里口の胸に頭を押しつけてくる。背中を撫でると、お返しのように背骨をゆっくり撫でられた。 「エリ……」 「ん?」 「五十音順……」 江里口は笑った。 「アクラ、アシガバート……アルマトイ?」 「ヌルスルタンでしょ」 「そうそう、旧アスタナ、アスマラ……アスンシオン、アディスアベバ……」 江里口は思い付く限りの首都を言った。そのうち、有基の手が伸びてきて、勃起した陰茎を扱かれる。 「オスロ、オタワ……オ、オはもうないか……?」 「もう大丈夫。入れて。あとオはもうないよ」 そう言うと、有基はゴムを取り出して江里口に被せ始める。ぴち、と毛を巻き込まないようにしっかりはめられて、さらにごしごしと高められた。 「無理になったら言って」 「うん」 面と向かう体勢で、恥ずかしそうに有基が足を大きく開く。赤ちゃんがオムツをかえるときみたいに、全部が丸見えになった。 「息して」 「うん」 「入れるから」 「……んっ、ん……ぅうん……」 切っ先が、ずぶずぶと入っていく。ローションのぬめりが足りなくて、途中でちょっと足すとするんと奥まで入った。 「っ! ぁ、ぁん……はぁ……はぁ……」 「久しぶりー……きもちいい……」 きつきつの有基の中はかなりの圧迫感で、ぎゅうぎゅう揉まれてマッサージされているみたいだ。びく、びくと震えるのがすごくいい。 「あ、あ、動いて、……うごいて、はやく」 入ってしまうと、そのままでいるのが落ち着かないらしくすぐに運動を要求される。ぎゅん、ぎゅんと絡みつく内側を力強く抉ると、とてもいやらしい声を上げた。 「ぁあーっ、ぁあん、やぁん、ぁあ、あ……」 ごちゅ、ごちゅ、と音を立てて腰を送りこむと、ほとんど勃起していない有基の陰茎が揺れる。メスイキの感覚のほうが強くなってしまったのは、性器で得られる快感が極端に少なくなってしまったからだと想像する。 「え、り、え……り、え、り」 「ん?」 「もっと、おく、つよく……つよくぅ……」 望まれたとおりに、腰をよいしょと持ち上げてほぼ垂直に突きこむ。腹の奥で空気のはじける音がして、ぐちょ、ぐちゃ、とローションが泡立つ。 「あーっ、あっ! あっ!」 目を大きく開けた有基が、叫びながら両手を伸ばして、江里口の腕を掴んでくる。腿で腰を支える形で両手を有基に差しだすと、そのまま有基の首を絞める形に手が持っていかれた。 「……はっ、はっ、ねえ、言って、言って」 この『言って』は『イッて』ではなく、ある言葉を聞きたいという意味だ。 「お願い、おねがい、おねがい……」 本当はこんなこと言いたくないし、本心でもないし、悲しくなるんだけれども、有基が望むなら仕方ない。江里口は少しだけ指先に力を込めて、有基の顔を覗きこんで囁いた。 「……お前みたいなクズ、人間のゴミ、税金の無駄遣い、社会のお荷物、お前なんか生まなきゃよかったって、ママもパパも思ってるよ」 あああああ、と絶叫して、有基はドライで達した。そして、わーん、えーん、と子どものような泣き声で叫ぶ。そのまま中を何度も突いて、江里口は射精した。 「……あああ、あああ、ふああああ」 泣かせてやりたい。ひとりでは泣けないこの男を、涙の代わりに血を流すこの恋人を、ちゃんと泣かせてあげたいと思う。引き抜いてゴムを外していると、後ろからべっとりと体重をかけられる。 「……パパ……ママ……あのね、エリが、すごくきもちく抱っこしてくれるんだよ……いいでしょ……神様はね、ここにいるんだよ……」 とても小さい、有基の勝利宣言を聞いた。 順番にシャワーを浴びて、二人で真夜中に食パンを食べて、寝ることにした。有基はそのまま布団に入ろうとしたので、江里口は枕元の袋をガサガサ言わせる。 「あ、忘れてた」 ちゃんと水で飲むのを見届けてから、狭いベッドに並んで布団をかぶる。電気を消しても寝付けないのか、何度も寝返りを打つ有基のポジション取りは難しい。背中を向けたり、抱きついてみたり、仰向けになったり、うつ伏せになったり。 「……床で寝ようか?」 「や、だ! やだ……ちゃんと寝るからここにいて」 「別に寝なくても。横になって目閉じてるだけでも体にはいいらしい」 「ふうん……」 ぎゅ、と肩にしがみついてきた。しばらく静かだったので寝たかな? と思ったら、小さい声がした。 「エリ?」 「ん?」 「……寝たら……明日が来る」 「寝なくても来るよ」 「そりゃそうだけど……」 江里口は頭のてっぺんにキスをした。 「でも明日は、いつもの明日じゃなくて俺とパン屋に行く明日だ」 有基は笑った。そして「ごめんね」と言った。江里口は高校時代のことを思い出していた。 光化学スモッグ警報が発令され、校庭で予定されていた体育の授業が、体育館に変更になった。種目はバスケになり、江里口は緑色のビブスをつけて、クラスメイトとパス練習やドリブル練習をしていた。そのとき有基は──石澤は、どうしてか見学していて、同じく見学していた女子と一緒に採点係をやっていた。ミニゲームをやって、体育教師が考案した謎の体操をやって、掃除をしていたとき、石澤とすれ違った。話したことはなかったけど、なんでか目が合ってしまい、そらすこともできずに「お、おう」と言うと、石澤はこう言った。 「江里口は、かっこいいな」 じゃ、と石澤は軽そうな荷物を持っていなくなった。思えばあの時、好きになってたんだと思う。補習より前からずっと。 あの日のお前はどこにもいない、と今では思うけど、同じようにあの日の自分もどこにもいないのだ。ただ、もう一度言ってほしい、明るい太陽の下じゃなくていい、別にどこだって構わない。有基にかっこいいと言われる人間に、自分はなりたい。だからそれだけをずっと待っている。 例えば有基が、自分の名字だけを好きになったんだとしても。 ──エリ、エリ、レマ、サバクタニ ──わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか おしまい

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