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その手が届く君との距離
育ってきた環境上、人に甘えるのが苦手だった。
物心付いた時には親が離婚して母と二人暮らしだったし、小学生の頃は正義感の強さから優等生タイプと誤解され、学級委員まで任されたこともあった。ただ曲がったことが嫌いなだけで、人をまとめる才はないと痛感したのでそれは一回こっきりでやめたが。以来、リーダー系のものはなにがあっても引き受けないと密かに決めていた。
そんな経緯もあって、桃原俊介 は、人に自分の内面を見せるのが苦手なまま高校生になっていた。
人付き合いが苦手なわけではないし、人といるのが嫌いなわけでもない。友達も普通にいると思う。けれど、その誰とも深くは付き合えないのだ。楽しい時に楽しむだけで、苦しい時、辛い時にそれを打ち明けられる相手がいない。母は仕事で忙しく、子供ながらに甘えてはいけないと感じていた。だから、その方法がわからない。
周りは誰も彼も大体は気のいい奴らだから、俊介が声を発すれば聞いてくれるとは思う。それでも俊介は一歩が踏み出せないでいた。そんなことで悩むくらいなら一人でどうにかやり過ごした方が楽だと、そう考えて。
「俊介、なんか今日元気ないな? どした?」
それに、藤山 ヒロキだけが気付いた。今まで母にも友達にも、他の誰にもそんなことは言われなかったのに、彼は事も無げにそう言ってのけたのだ。
ヒロキとは中学時代に出会って、出席番号が前後という縁もあって仲良くなった。性格や、嗜好も全然違うのに不思議と馬が合い、よく二人でいるうちに自然と相棒と称されるまでになった。でも俊介の中ではそこまでで、やっぱり自分の内面を晒せはしなかった。そのはずだったのに。
我慢はできても、隠し事ができるタイプではなかった俊介は、聞かれるがままあれよあれよと自分のことも話していた。まるで、ヒロキに導かれているかのように。
どうせ家に帰っても一人だから、まだ帰りたくないと呟けばそれを耳ざとく拾って遅くまで遊びに付き合ってくれる。母子家庭なことを打ち明けたら、ヒロキの家で夕飯をご馳走してくれる。俊介が家でご飯を作って、ひとり食べてることを知ったら「俺も誘えよー」と押しかけ、一緒に食卓を囲んでくれる。「うま!俊介、天才じゃね?」と笑顔で褒めちぎり、おいしそうに完食してくれる。
そんなようにして、ヒロキだけが俊介の孤独に気付き、そして手を差し伸べてくれたのだ。戸惑う俊介でも思わずその手を取ってしまうくらい、近くまで。
だから不思議なことに、どこにいても、誰といても、そこにヒロキさえいれば居心地が良くなったのだ。
「こんなちっちゃくてむにむにした手なのになあ」
「俊介くん? 人の手むにむにしながら藪から棒にどした?」
ある日の昼休み。学校の屋上に俊介とヒロキはいた。
『ヒロキを膝の上に乗せ、後ろから抱きしめるような形でその手を触る』
それが現在の俊介のブームで、そして現在進行形でそれを行っている。小柄なヒロキは俊介の膝にすっぽり収まるので、俊介からするとなんというか、抱き枕のような感覚でなにもかもがちょうどいいのだった。
「なあ、前から気になってたけどこれ楽しいの?」と、ヒロキが軽く身を捩らせる。
「楽しい」
楽しいというか落ち着くというか、つい気持ちよくてやってしまうのだが、俊介はその一言に留めた。楽しいというのも決して嘘ではないからいいはずだ。
「ま、俊介が楽しいならいいけどさあ」
そう言って、ヒロキは俊介にその背を預けてきた。決して否定せず、揺蕩う水のように受け入れてくれるのがヒロキなのだ。こんな奴は、今まで俊介の周りにはいなかった。
ヒロは、不思議だ。でも心地良い。
改めてその懐の深さに感心しながら、なんとはなしにその手を握って、落ち着く。指と指の間に指を滑らせれば、「そこはくすぐったいって」とヒロキが緩く握り返す。その繰り返しだった。
元々、一つおもちゃがあれば黙々とそれで遊んでいられるような俊介なので、やはり黙々とヒロキの手も握っていられる。放っておかれれば、多分いつまでもこうしていられるに違いなかった。
「なあ、俊介ぇ」
それを、ヒロキが留めた。と言っても話しかけてきただけで、体勢はそのままだ。
弄る手を止めないまま、俊介も「んー?」と応じる。
「こないだ凜香 ちゃんに告白されたんだって?」
「は? 誰がなに?」
「んで、振ったんだって?」
「は? だから誰がどうして振ったって?」
「それ俊介、自分に問い掛けてんの?」
クスクスと、ヒロキが笑う。
ヒロキの言葉は、時に不親切でわかりにくい。俊介は禅問答でもされている気分になっていた。誰が誰を振ったというのか。
「凜香だよ、増田 凜香ちゃん。ちょっと前に俊介に告白して来たんだろ?」
フルネームで言われて、俊介はようやく思い出した。確かに先日女子生徒に告白をされたし、言われてみるとそんな名前だったような気がする。
けれど、だからどうというものでもなかったので、俊介は「ああ」と気のない返事をしていた。
「ひでえなあ、告白してきた相手の名前覚えてないの?」
「下の名前なんて今初めて知った」
「俺らと同じクラスの子なのに?」
「クラスメイトの名字と名前、全員把握してるのなんてヒロくらいだろ」
実際ヒロキは、クラスメイトどころか学校中の生徒の顔と名前を把握してるのではないか、と思うくらい情報に精通していた。しかもメモのようなものは存在せず、全て頭に入っているというのだからこれまた驚きである。
全く、授業はほとんど聞いてないし不真面目そのものなのに、この頭のどこにそんな膨大な情報が詰まってるんだか。手を弄る傍ら、眼前にある茶髪の頭をぼんやりと眺める。
猫っ毛のヒロキは毎朝頑張ってセットしているらしく、そのかいあってか髪はピンと外側に跳ねていた。整髪料の匂いが俊介の鼻腔をくすぐる。
「凜香ちゃん、だめだった?」と、まるで湿っぽくない口調でヒロキが尋ねる。「可愛いと思ったけどなあ」
だめもなにも。俊介はコキ、と首を鳴らしていた。「見た目がどうこうっていうか、よく知らねーもん」
「いや見た目の話じゃなくてさ。あんまり前に出るタイプじゃないけど気の回る子だし、優しいし、派手すぎないけどおしゃれだったから、そういう意味で可愛いなって」
「てか、ヒロやけにその凜香ちゃん? に詳しくないか?」
「え、そう?」
「可愛いとか、優しいとか」おまえこそ好きなのではないか、と思えてしまう。
「話す機会多いと自然に見えてくんだろ?」
「機会多かったんか」
「俊介のこと好きな子は、大体俺にいろいろ聞いてくんのよ。なにが好きかとか、どんな子がタイプかとか」
「なんだよそれ。めんどくせ」
回りくどくこちらを探ろうとしてくるそのやり口になのか、ヒロキをダシに使われたことに対する怒りなのか。理由はいまいち判然としないが、俊介は嫌悪感を剥き出しにしていた。
元より付き合う気がないから振ったんだが、やはりその選択は正しかったと改めて思う。
「別に、俺のこと聞かれたからって話したくない奴と無理に話すことないかんな」
俊介はヒロキの肩口に顔を埋めた。そのまま深く息を吐く。「てか、知りてえなら俺に直接聞いてくればいいのに」
「そこは恥ずかしいだろうよ、恋する乙女はよ」無茶言うなよ、とヒロキが苦笑する。
「だいいち好きな奴とかよくわかんねーや。俺、ヒロとこうしてる方が居心地いいし、楽だし」
言って、俊介はその存在を確かめるように頭をぐりぐりと動かす。「俺は抱き枕か」と、ヒロキが小さくぼやくのが聞こえた。
「でもさ、俊介」
静かに揺れる水面のように、ヒロキが穏やかに呼びかける。その声音に、第六感でなにかを感じた俊介は顔を上げていた。
「これ、俺以外の奴にはやんない方がいいかもよ」
「え、なんでだよ」
元より、ヒロ以外の奴とこんなことしたいとも、できるとも思ってないけど。
そう続くはずの言葉は、声にならずに終わっていた。
顔をこちらに向けたヒロキが、触れるだけのそれで、俊介の唇を塞いでいたからだ。
一瞬で離された唇は、何事もなかったかのように笑みを象り、そして軽く言い放つ。
「隙だらけだし、こんなことされても文句言えないから」
「は、……ちょ、え?」
「さーてと」
狼狽える俊介をよそに、ヒロキはぴょんと立ち上がって伸びをした。彼が腰に付けている鎖がちゃり、と音を立てる。
「いや、おま、いま、な……っ」
「授業遅れるぜ? 俊介。俺先行ってるなー」
「はっ? ちょ、ヒロっ」
俊介の訴えにも似た呼び掛けは、扉が閉まる無機質な音に呆気なく阻まれていた。
なにが、どうなったのか。頭の整理が追いつかない。いま、俺はヒロになにをされた?
自分の唇を、そっと指でなぞる。あんな一瞬で伝わるわけないのに、それでも熱を帯びているように感じてしまう。
ヒロキにキスをされた。つまりは、そういうことなのだろうか?
いや、わからない。ヒロキは不思議な奴だ。彼なら、おふざけのような意味でも、単に釘を刺す意味でしてきたということも十分に考えられた。そういう奴だから。
こちらのことばかり気にしてぐいぐい聞いてくる割に、自分のこととなると多くは語らず、笑って受け流す。そんな、どこか捉えどころのない奴だから。
曖昧さを嫌う俊介がそれでもヒロキといたのは、それ以上に彼といる空間が安らぎになっていたからに他ならない。甘えすぎていた自分を恥じる気待ちでいっぱいだった。なんでもっと ちゃんとあいつのことを聞いとかなかったんだよと、自責の念にも駆られる。
いや、でも冷静に考えたら有り得ないだろう。ヒロキは親友だし、相棒だし、男だし、今までだってそんな目で見たことなんかなかった。
そんなつもり、まるでなかったはずなのに。
戸惑い以上に、胸の高鳴りを感じているのは、どうしてなのか。
ヒロキの温もりを未だに感じる右手で、俊介は、抑え付けるように心臓に手を添えていた。
「……なんだよ、これぇ」
ヒロキは、どんな気持ちでキスをしてきたのか。今までなにを思ってこちらに接し、その目にはなにが映っていたのか。
ヒロキの気持ちは、今どこにあるのか。それを知りたいと、俊介は強く思っていた。
誰かのことをこれほど考え、そしてこんなにも知りたいと願ったのは生まれて初めてのことで。
それが、人を好きになるということなんだと。
後に、俊介は知ることになる。
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