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手にしてみると、見た目よりもずっしりと重い。
ブローチ状になっているそれを、シャルに教えてもらった通りに右胸に着ける。
不思議なもので、それを身に着けた途端なんだか右胸の辺りが暖かくなる……ような気がした。何か魔力的なものでも篭ってるのだろうか。
黒羽も、俺と同じようにエンブレムを着ける。
俺よりも様になってるような気がするのは勘違いではないはずだ。
「うんうん、とてもよく似合ってるね。まるでそのエンブレムも君に着けてもらって喜んでいるように見えるよ」
「そう、ですかね」
「そうだとも。これで、君はこの学園の一員だよ。改めて、歓迎させてもらおう、伊波君」
シャルがそう頭を下げたとき、鐘の音が響く。空気を揺らすほどのその音、振動に驚いたとき、「そろそろ一限が始まるみたいだ」と誰かが口にした。
「授業が始まる前に教室に入らなければ、その時間帯の授業を受けることは不可能だ。君たちの場合は初日早々遅刻もよくないだろう。急いだ方がいいかもしれないな」
「急ぐって言ったって、どうしたら……」
「最初は適当でいいさ。……っていいたいところだが、君はまだこちらの世界に慣れていないみたいだしね。ここから先に青い扉がある。そこが、文学部の教室がある棟への入り口だ。まずは、文学部がいいんじゃないか。文字通り、この世界の理について学ぶんだ。いい案だろう?」
文学部……。
確かに、五つの学部の中では一番無難そうだ。
俺は、文学部棟へと向かうことを決める。
その旨を伝えれば、黒羽は反対するわけでもなく「伊波様の仰せのままに」と重々しく頷くだけだ。
「また後で休み時間頃に迎えに来るよ。頑張ってな」と、巳亦。
「何か困ったことがあれば僕を頼り給え。魔界学部は文学部の隣の棟だよ」と、シャル。
「文学部……そっか、文学部……うーん」と、テミッド。
なんとなくテミッドの反応が気になったが、各々授業へ向かわなければならない。
俺は3人と別れ、黒羽と共にシャルから教えてもらった文学部棟への通路に向かって歩き出した。
通路自体は一本道になっており、迷子になるということはなかったが、壁一面に書かれた見たことのない文字。その量は次第に増えていく。なんだか、陰気臭いというか……ジメジメしているというか……。
人の気配がどんどん遠くなっているような気がする。無人の通路に、俺と黒羽二人分の足音だけが響いた。
「な、なあ……シャルの言ってたのってこっちだったよな……?」
「……ああ、間違いないと思うが」
「でも、青い扉なんてどこにも……」
だだっ広い通路に声が反響する。ないではないか、と続けようとしたときだ。胸のエンブレムが光る。そして、それに反応するかのように辺りには濃霧が立ち込めた。無味無臭。どこから現れたか分からないそれに驚いたとき、黒羽に「伊波様!」と腕を引かれた。
そのときだ、先程まで俺が立っていたそこには壁が現れる。
そしてその中央部、薄汚れた壁の中央、真っ青な蝶番の扉がそこには在った。
「……っんな……ッ!」
「なるほど、エンブレムを所持していない者には入れぬ棟か……。現れないのなら入る術がないな」
ふむふむと感心する黒羽。言いたいことは分かるが、これ下手したら現れた壁に巻き込まれる可能性があるのでは?そう思うと素直に感心できない。
「と、とにかく……ここが文学部棟の扉……だよな」
「伊波様、自分が先に行こう」
「あ……うん、よろしく……」
こういうとき率先して前を行く黒羽の存在は心強いが、心配になるのもある。そんな俺の機微を知ってか知らずか、躊躇いもなく扉のノブを掴んだ黒羽はそのままゆっくりと扉を押し開いた。
瞬間、扉の隙間からは生温い風が吹き込む。前髪が揺れる。そして、鼻腔を擽るのは埃と黴と、本の匂い。
扉の向こうには、先程来た通路とはまた違う世界が広がっていた。天井を見上げれば、天井全体に地図のような図形が浮かんでいる。あらゆる星を象った模型がオーナメントのようにぶら下がっていた。
そして、壁一面を埋め尽くす本棚と、隙間無く詰め込まれたたくさんの蔵書。その中には見慣れた文字の本もあった。
「っ、す……ごい……」
まるで別世界だ、なんて言葉しか出てこない。10メートルはある天井、そこまでの壁を全て本が埋め尽くしてるのだ。色鮮やかな背表紙すら壁紙の一部のように見えた。無秩序に並べられた背表紙だからこそそう思えるのか。
「そんなにそれが珍しいのですか?」
静まり返っていたホールに、一つの足音が近付いてくる。
落ちてくるその柔らかな声に振り返り、ぎょっとする。
黒。真っ黒なローブを頭からすっぽり被ったその影は、口元しか見えない。それでも男性だとわかったのは長身と、低く、けれど落ち着いた声音からだ。
「伊波曜君と、黒羽君ですね。話は聞いています。僕は文学部講師で……一応、主任になります。グレアと申します」
「初日にこの棟を選んでいただけるなんて、光栄です」とグレアは唯一見える部位である口元に笑みを浮かべる。肌同様、真っ白な、寧ろ紫にすら見える唇からは生気を感じさせない。怪しげな見た目に反して、シャルとはまた違う、優しげな男だった。
「よろしくお願いします」と頭を下げれば、グレアは心なしか嬉しそうに笑みを深める。
「あの、主任ってことは……先生……?」
「ええ、一応教鞭をとる立場ですね。……とはいえ、この学園の先生方の中では下っ端も下っ端ですが」
浮かぶのは苦笑い。下っ端というのは年齢的なものもあるのだろうか。声が若く聞こえるだけに、なんとなく気になった。
「伊波君と黒羽君は、1限目はなにを受講する予定かとかは決めてるんですか?」
「あ……いえ、何も……」
「そうですか。でしたら一応、1限目で受けることができるのは天文学と歴史学ですね。どちらが興味がありますか?」
「え、えーと……黒羽は?」
「伊波様の選ぶ方を選ぶ」
ま、丸投げだ……。とはいえ、天文学と歴史学……。どちらも気になるが、それよりも。俺は、頭上に浮かんでるあの月のことを思い出す。
「……天文学ですかね」
前々から星に興味があった、というわけではない。けれど、この世界の、魔界の星には興味があった。俺達の住む世界から見える宇宙とはまた別の宇宙が広がる、この世界には。
「そうですか。うれしいですね、実は、天文学の授業は僕が受け持ってるんですよ。本日の授業は第Ⅳ教室で行われます。この棟は少々入り組んでいて迷うでしょう。ご案内しますね」
そう言い、嬉しそうに愉しそうにグレアは先を歩く。ふわふわと漂う幽霊のような男だと思ったが、足はちゃんと付いているようだ。先を歩くグレア。その後ろをついていく。
「授業とはいっても、全てを完璧にこなせというわけではありません。他の生徒ならともかく、伊波君は所謂特別待遇生徒。赤点を取って手酷い仕置を受けるわけでもありません。が、僕の授業ではあくまで一人の生徒として扱わせていただきます。わからないことがあれば言ってくださいね」
「は、はい……」
「そんなに緊張しなくてもいいですよ。初日から馴染むのも大変でしょうし、今日は一日学園の空気を感じ、慣れていただきたいと思ってます。大体の授業の流れから、文学部棟の教室配置。大変だと思いますが、僕も一緒に協力しますので頑張っていきましょうね」
「……はい!」
ぐっとグーを作って見せるグレア。教師というよりも保育園の先生の方が合いそうな朗らかな人だが、だからこそ安心した。……相変わらず顔は見えないが。
「黒羽さん、良かったね、いい人そうな先生だ」
「……伊波様、油断は大敵ですよ」
「わ、わかってるけど……」
どんどん歩いて行くグレアを一瞥する。黒羽は相変わらず警戒心丸出しだけれど、会話の邪魔に入らないということはそれなりに安全圏の人なのだろう。
棟の中はどこまでも本で埋め尽くされている。時折本の雪崩に巻き込まれて居る魔物もいたが、その度にグレアは助けてあげていた。優しい人だ。
この短期間で強烈な人たちに在ってきたお陰か、余計グレアの優しさに癒される自分がいた。
どれほど歩いたのだろうか。何段もの螺旋階段を登り、やってきたその通路はがらっと雰囲気が変わっていた。
落書きのような星が描かれた壁紙。高窓からは、不気味なあの月が綺麗に見えた。大分建物の上階へとやってきたようだ。金平糖のような星も、近い。
「ここが、第Ⅳ教室となってます。空に近い場所なので、すぐ傍に月も星もあるんです。天文学は基本この教室ですね。教室に入ったら空いてる席に座ってください」
「あの、自己紹介とか、挨拶とかしなくていいんですか?」
「しなくて大丈夫ですよ。教室の中のメンツは授業の度に変わります。その度に初めましての挨拶なんて僕たちはしませんからね。まあ、でも、皆興味津々だと思うので話しかけられたら相手にするくらいでいいと思います」
「……分かりました」
気は楽だが、緊張しないと言えば嘘になる。
「では、僕は道具を取ってくるので先に教室に入っててくださいね」そうグレアはゆらゆらと隣の扉へと入っていく。とは、言われても。
「……緊張する」
「何かあれば自分が守る。……心配しなくても大丈夫だ」
「そ、そういう意味じゃないんだけど……ありがとう、黒羽さん」
というわけで、扉を開く。
薄暗い教室の中。天井は一面ガラス張りになっていた。夜空が広がる教室の中、既に集まっていた生徒たちは入ってきた俺達に誰一人反応しない。それぞれ本を呼んでいたり熱心にノートに何かを書き殴っていたりと、自分の世界に入っているようだった。これもこれで驚いたが、何よりも驚いたのは教室の広さ、その席の多さに対しての出席率の悪さだ。
ざっと見て両手で数えることが出来る程の人数しかいない。あんなに有象無象の生徒が学生寮にはいたというのに。
教室にいる生徒たちを一瞥しながら、俺は、教室の隅を通って一番後ろの席へと座る。
繋がった机とベンチ状の椅子に腰を掛ければ、隣で本を読んでいた青年はこちらをギロリと睨みつける。どうやら俺が座った振動に反応したようだ。「あ、ごめん」と口にすれば、青年は何か言いたそうにしていたが、後ろにいた黒羽を見て慌てて口を閉じる。顔を逸らす。別の席へと移っていく。……露骨だ。
「伊波様に挨拶もなしとはいい度胸だな」
「ちょっ、ちょっと……黒羽さん、さっきグレア先生言ってたじゃん、挨拶しなくてもいいって」
「けれど、あのような態度は…」
確かに、今まで過剰なまでに敬られるか、絡まれるか、遠くからにやにやと物色されるかだっただけにこのように嫌悪感を丸出しにされるのは初めてだった。
けれども、和光が作った校則を考えると無理もないか。下手に俺に危害加えた扱いされれば地下牢で拷問される。そんなの、俺なら一生関わらないだろう。
避けられるのは寂しいが、自分が歓迎されてばかりの人間ではないのは仕方ないことだ。
俺は、念のため朝用意していた鞄から、学園側から支給されたノートと万年筆を取り出した。
隣に腰を掛ける黒羽が、本当に勉強するつめりなのだろうかという顔で見ていた。この世界で暮らすのだから、知っていて損はないだろう。俺は、こうなったらとことん学ぶつもりでいた。ヤケクソとも言う。
程なくして、地を這うような鐘の音が響く。床までもが揺れているようだった。
教壇側の扉が開き、グレアが入ってきた。
すると、俺が入ってきたときとは打って変わって水を打ったように静まり返り、皆が皆己の手を止めるのだ。
「おはようございます、それでは、本日の授業を始めましょうか。本日のテーマは『月になった男と星の関連性について』です」
そして、静まり返ったそこで発表されるテーマはまるで、お伽噺の絵本を読まされているかのようなメルヘンな授業だった。
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