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第1話

「おかえり」 ただいまと呟きながらリビングの扉を開けた古川に、戸塚は努めて明るい声で応じ、ソファの上からとびきりの笑顔を向ける。 「今日鍋だから待ってた。早く着替えて来いよ」 ほら、と立ち上がりざま戸塚が示したダイニングテーブルの上には、ポータブルコンロと、既に一度煮立たせた鍋が置いてあり、飲むなら燗でも付けましょうかと少しおどけて続けると、疲れきった顔をした古川の顔にようやくほんのり生気が戻り、いいアイデアだと少し笑った。その笑顔を見て、思わず頬が緩む。可愛い奴だよなと、胸の内に思う。古川の帰りを待つ間戸塚が流し見ていたテレビでは23時のニュースが始まるところで。いくら鍋だからと言っても、土日休みのサラリーマンが、平日真っ只中の水曜の夜に、こんな時間まで食事もとらずにいた意味に何ひとつ思い至らないまま、それでも戸塚の思惑通りに笑顔になる古川が、たまらなく可愛いと思う。 「じゃあ、この前貰ったいいヤツ開けちゃおう」 だから早く来いよと、寝室に向かう古川の背中に声をかけて、一人になったリビングで戸塚は鼻歌交じりに鍋の火を入れ、キッチンで燗の準備を始める。 ここ数週間、古川はいつにも増して帰りが遅い。原因は分かっている。古川が入社当初より希望していた現在の部署に異動して3年。そこで先日、初めてプロジェクトリーダーに抜擢されたのだ。しかも、“憧れの上司に、名指しで”。本人がそう言っていたのを思い出し、湯を張った鍋に酒を注いだ徳利を入れながら、戸塚は思わずにやりとしてしまう。 ー凄いんだよ、本当に。知識も半端ないし、なんて言っても分析が凄い。いろんな可能性を全部並べて見せてくれるから説得力があるし、実際、赤坂さんが担当の案件はみんな凄いスムースに進んでる 俺もああなりたい、と決して感情的でなく、でも瞳を輝かせて語る姿は、子供みたいな純粋な憧れに満ちてキラキラしていて、とても可愛かった。そうしてその赤坂さんが、次のプロジェクトリーダーに自分を名指したのだと、彼は本当に嬉しそうに戸塚に報告し、期待に応えたいと、それからは毎日、遅い時間に帰宅するようになった。 変なとこでバカなんだよなと、こぽこぽと沸き立つ鍋の水面に、恋人の顔を浮かべて戸塚は思う。古川哲郎は、変なところでバカなのだ。古川は賢い。勉強は、まあそこそこだったけれど、それとは別の次元で、彼はとても賢い。頭が回る、というのが適切な表現なのかは分からないが、状況を理解したり、知識を応用して物事を考えたりすることが得意なのだ。仕事でも古川の働きは評価されているようで、だからこそ花形部署への異動願いも通ったのだろうし、上司の期待もなるほどその通りだと思うのだ。目配り気配りができていて、教えたことはすぐに覚え、それを応用して自分なりの考えを組み立てることができる。その上柔軟で素直で一生懸命となれば、誰だって、この男を使いたいと思うだろう。それなのに、古川には致命的な欠点があり、本当にもったいないと戸塚は思う。 「……あったまった??」 熱燗が温まるのを鍋の横で待つ間に古川は着替えを終えたようで、寝室から出てくるとそのまま、キッチンに立つ戸塚の方に寄ってきて、横から鍋を覗き込んだ。そうしてついでのように、戸塚の指先に古川のそれがするりと絡まり、指先の感触を確かめるようにいたずらを始める。リズミカルにきゅっきゅっと指先に力が込もるのは恐らく無意識で、もう少し待ってと答えながら戸塚は笑みを抑えきれず、思わずふっと笑ってしまった。 「なに?」 急に笑い出した戸塚の挙動に驚いたのか、古川の指の動きはきゅっと戸塚の指先を握りしめたところで止まり、鍋を見つめていた視線がすいと戸塚を向いた。 自信が無いのだ。つまり、この男は。尊敬する上司に仕事を任されることは嬉しい、けど、本当に俺でいいのかとか、かけられた期待に応えられるんだろうかとか、失敗しないだろうか、とか。要するに、プレッシャーを感じやすい。そのくせ、人前じゃそれを表に出さないから、周りの誰も古川の不安に気づかない。しかも、実際に能力もあるから、結果的には上手くやるのだ。本人はプレッシャーに押しつぶされないように必死で、全然余裕なんてないのに、周りの人は皆、古川が軽々とそれをやり遂げたかのように錯覚する。 だから。だからと戸塚は思う。俺の前でだけ弱ってるのが余計に、すごく可愛い。 こちらを見つめる目元が赤い。寝不足でクマもできているし、いつもはツルツルの肌も、今はざらついて顔色が悪い。それでも、こんなに疲れ切っていてもきっと、仕事ではいつも通りに振舞っているこの男を励ませるのは、だから、自分しかいないのだ。 可愛いなぁと胸の内にひとりごち、戸塚は掴まれていない方の手で、古川の荒れた頬をさらりと撫でた。 「……お疲れ様」 疲労の見える瞳を見つめ返し、握られた指先を一度外し、指を全部絡めて再度ぎゅっと手を繋ぎ直すと、古川は一瞬、驚いたように目を見開き、直後、蕩けるように笑う。 「……うん。ありがとう」 頬を撫でる戸塚の手に頬を擦り寄せて古川は目を瞑り、空いている方の手は戸塚の腰に周り、柔く引き寄せられ、腰から下がピタリと密着する。甘やかな所作とよく知った体温につられて、戸塚は無意識に甘い息を漏らし、それに気づいた古川がさらに笑みを深くする。 「……シたくなっちゃった?」 こつんと額同士をぶつけてさらに距離を詰めた古川に囁くように問われ、戸塚はごくりと喉を鳴らす。可愛くて格好いい、男の声に、言葉に、煽られる。ゾクゾクする、けど。 「……今日はシない」 週末まで待ってな、と答えると同時に、至近距離にあった古川の唇に噛み付くようにキスをして、ちゅっと音を立てて離れるとすぐに、戸塚はするりとその腕から逃れた。 「ほーら、鍋も酒も準備オーケー。冷めないうちに召し上がれ」 えー、と不服そうな顔の古川に笑顔を向けて。 週末はたっぷり寝かせて、あのクマを取ってやろうと、そんなことを思った。

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