1 / 1

第1話

 最初から期待していない。  自分には縁が無いもの。自分だから縁が無いもの。  だから、欲しいと思わない。世界中から除け者にされたっていいのだ。このままひとりで死んでいく。俺は、それを願っている。 【一】  あいつはどこにいるんだろう。  この時間だからか、ホールのエントランスにはごった返すほどではないものの、だが縫わなければならない程度の人を横目に看板が示す矢印に従い足を動かす。角を曲がると、近い場所に設置された受付には誰ひとりとして見覚えが無いが、多分何度もすれ違っているんだろうなあという女の子達が楽しそうに談笑していた。 「まだ大丈夫だよな?」  俺を見るなりぽかんとした表情になった受付係たちに、あらかじめ渡されていたハガキを見せる。『高宮優(たかみやすぐる)先生へ』、と癖っ気のある字が書かれた下には、『油画専攻・佐山貴昭(さやまたかあき)』の文字。だが渡した子はそれを確認しようともせず、『ど、どうぞ』と吃り気味な声のままパンフレットを渡してきた。面は割れているから当たり前だが。 「せんせー」  受け取った瞬間軽く肩を叩かれ、『お前駅まで迎えに来てくれるんじゃなかったのかよ』と思わず口に出してしまいそうになったが多分、そんなことを言ってもこいつには毛ほども響かないだろう。 「……貴昭、」  振り返ると、やっぱり悪びれてなさそうな貴昭が居た。割と近くに居たものだから威圧感が凄い。ほとんど日常生活で他人に威圧感を感じたことはないけれど、やっぱり貴昭だと感じるんだよな。もちろん物理的な意味で。でかい図体なのは俺も同じだが、そこに加え熊のようなおっとり感というか、余裕感がある。 「遅かったじゃん」 「いやお前が『迎えに行く』って言ってたから駅で待ってたんだよ!」 「え、そうだっけ?」  ほらやっぱり。全然悪びれていないどころか話の内容まで忘れていやがる。なにが『遅かったじゃん』だよ、こっちは早々にこの可能性を見出してたかだか十分程度しか待たなかったわ。 「…えっ、なんで高宮いんの?」  ふと聞こえた声に、思わず耳を傾けてしまう。 「ほんとだ! え、高宮こういうとこ来ないんじゃないの?」 「佐山が出してるからでしょ」 「いとこだっけ」 「かわいがられてるねー」  広い入り口の反対側、隅の方から聞こえる声はひとりのものではない。小声で話しているつもりかもしれないが、ガッツリ反対側の俺に聞こえる程度の声量は、とてもじゃないけれど抑えられているように思えなかった。 「入ろ。案内するよ」 「あ?ああ、」  腕を引かれ、中に進んでいく。貴昭は全くというほど気にしていないらしい。というか、多分聞こえてないんだと思う。聞きたい言葉以外は聞かないよう出来るのが羨ましい。  まだパンフレットも見られていないのに、と会場案内図を見た瞬間、ふわりとシンナーの香りがした。塗装剤の匂いが落ちきっていない。彫刻科の生徒か、ぎりぎりに完成させたやつが居るらしい。作品展ともなれば当日に完成、開場してからの運び込みと設置を行う奴は毎年必ず居る。担当教諭達の苦労をありと感じてしまって心苦しいというかなんというか。  足を止めながら、ひとつひとつを見る。油絵のタッチ  いわゆる癖は、特に顕著だ。自分が受け持っているコースではないものの、貴昭と同期のやつらに対しては名前を見なくとも描かれたものから特定できてしまう。  こいつはなにが表現したいのかわからない。こいつのはバランスが悪い。こいつのは不安定。こいつのは良くも悪くもない。こいつのは俺と感性が合わない。こいつのは色作りが甘い。心の中でアルファベットの判定をつけていく。  そうして、一枚の絵に行き当たる。いつのまにか離れて歩いていた貴昭を横目に、作者の席札を見るとなんと、綺麗にはがされていた。 「タッチ変えた?それとも不調?」  振り向きながら絵を指差して言う。 「せっかく名前外したのにー」  言いながら、貴昭が手のひらを見せた。『佐山貴昭』という小さなパネルに、こいつどこまで本気出してんだと少し笑ってしまった。 「まあ、お前ってイメージじゃないよな、この絵は」 「模索中だからじゃなーい?」 「成長途中?」 「そんなとこ」  筆の跡が残るキャンバスは、湿度を考えて貼られたのが伺える。乾燥した場所で仕上げると布自体が緩みやすくなるから。  絵に関して、貴昭はこれでもかというくらいに突き詰めるたちだ。さすが芸術家一族の本家なだけはあるな、と嫌味ったらしく思って、ちょっと笑えてきた。どの絵をリスペクトして制作したのか分かって、だからさらに面白い。俺も貴昭と同じくらいの年代だった時は、ばあちゃんの絵を見ながら技術を盗もうとしていたものだ。  「もうちょっと丁寧に色作れよ。書斎の、ばあちゃんの絵見てやったんだろ?」 「いやいや、さすがにあそこまでは無理でしょ」 「……でも、悪くないと思うよ。お前らしさ残ってないけど」  こいつの勢いが抑えられたキャンバス。これはこれで愛嬌があって良い。いつもの死ぬほど疾走感のある『貴昭の色』が出た絵もいいけど。 「せんせーのはいつも『せんせー』って感じするよ」 「まあね。作ってるの俺なので」  製造工場が同じだったらそりゃあそうだ。もっと他の例え方はできないものなんだろうか。 「あっねえねえせんせー、これのんちゃんの作品」  貴昭の絵の前で腕を組みながら一族の血を感じていると、また腕を引っ張られる。貴昭が、ちょうど隣にあった作品を指さしながら言った。席札名は『畑屋のぞみ』。 「相変わらずプライド高そうなタッチだな」  目力の強い、無表情な偏屈男が頭の中に浮かぶ。所々に飛ぶインディゴブルーはちょっと怒りながら散らしたに違いない。絶対にそうだ。 「俺のんちゃんの絵好き」 「お前畑屋の作品だったらなんでも褒めるじゃん」  いいとか悪いとか好きとか嫌いだとか、貴昭には一切関係ないのだ。一度好きだと思う作品を作った作家ごと好きになる。その代わり、滅多に好きな作品に出会わない。基本的に目が肥えているというのもある。ひとことで言えば偏食のような、好きなものは嫌になるというくらい浴びなければ気がすまないタイプの人間。ちなみに、貴昭が俺の作品を褒めた事は一度も無かった。 「せんせー?」 「ん? ああ、」  さて、まだまだ先が長い。終了時刻まではあと四十分。ペースを上げないと、時間内に見終わることができなくなる。  大学主催の展覧会で、これほど多岐に渡る科が集まったものは年一回のみ。外部の総合美術展は凝り固まった思考の人間ばかり集まり、停滞する国内の芸術分野は既に海外と雲泥の差がついているといっても過言ではない。そんな中、学内だけとはいえ設立された展覧会は、過去自分も応募したことがある思い出深いものだ。しみったれていない、あらゆる意味合いで『新しいもの』と銘打てる。グローバルな視野を持てるのはいいことだ、と思うのはきっと、日本の美術展で一度も受賞したことが無いからなのかもしれない。日本で評価されない代わりに、海外の美術展で賞をもらい、その評判が日本まで届いたといういわゆる『逆輸入』の恩恵を授かったおかげで今の俺が居る。その基礎を作ってくれたこの大学には感謝しているからこそ、縁が縁を呼び『先生』なんて自分には到底似合わない立場を引き受けたのだ。  といっても自分が卒業して以来一度も来たことはなかったし、自分がこの大学の客員教授になってからは先生という立場、そして貴昭との繋がりもあったので、さらに足が遠のいた。まあ、元々人の作品が展示されているのは苦手というのもあるけれど。  じゃあ何故自分がここに居るのかというと、答えは簡単。マイペースないとこに『せんせーもきてよ』という一声を掛けられたから。それだけ珍しかったのだ、貴昭がそんな風に自分を誘うだなんて。  そうして蓋を開けてみると、『作風変えたんだけどどうよ』ということだったらしい。貴昭の色は素直に落ち着く。雰囲気に、なんとなく自分たちの血を思い出させるから。 「……もういいかな」  彫刻エリアに差し掛かった瞬間だった。悪寒のようなものがして、遠目からでも分かるその異質に自然と足が止まった。 「え、向こうのエリア彫刻だよ?せんせー彫刻好きじゃん」 「今日はいいや」 「いやいや会期今日までだっつーの」 「あ、もしかして合わないやつあった?」  正直に言うと、これ以上近寄りたくない。本当は全部の作品を見て回りたいのだ。学内規模の展示だと思って悠長にしていた結果がこれか。 「せんせー影響受けやすいからなー。誰のでダメージ受けそうになったの?」  ごめん、と言いながら、とりあえず彫刻エリアに背を向ける。自然と口を押さえてしまい、その動作で貴昭には『何故足が止まったのか』というのが分かったらしい。 「近寄ってもいない俺に聞くなよ、知らねえから驚いたんだよ」 「左から数えて何番目?」 「……多分、三番目」 「あ、一番おっきいやつ?」  あんな作品作るやつ、学内に居たんだ。よくも分からない不安にかられ、自分の心臓がいつもより早く動いているのを実感してしまうともうダメだ、余計視界にも入れたくないと思ってしまう。 「食わず嫌いかもしんねーじゃん? 間近で見たら印象変わるかもよ?」 「……いや、無理」  威圧感に恐怖さえ覚える。気づかず近寄らなくてよかった。幸い、このあとは作品をいじる予定も無い。大丈夫、どこにも影響は出ない。 「来週一週間は校内に置くんだろ?」 「そそ、」  施設の外まで見送ってくれた貴昭は、会期終了後自分の作品を学校に持ち帰る為このまま残る。 「あ、今日おばさんにご飯呼ばれてるから夜いらない」 「……お前、断ってもいいんだからな?」 「や、大丈夫。おばさんのごはんおいしいし。せんせーのごはんがあんま美味しくないだけ」 「わがままか!全部食べ尽くすくせに!」  それどころか深夜作業の最中、わざわざ俺の部屋まで来て『夜食作って』、と言いにくるくせになに甘えたこと言ってんだコイツ。味付けの部分でいったなら全部一緒だわ。大差ないわ。  でも、それならばちょうどいい。どうせ店屋物を取るよう言わなければと思っていたから、手間が省けた。 「俺も今日夜居ないから。アトリエ使っていいけど、母屋の鍵だけはかけていけよ」 「はいはい」  だが、本人が言うならばまあいいか。ゆきこおばさんも気の良い人だから育ち盛りのコイツにたらふく食べさせてくれることだろう。  ほぼ断る二割確率の俺とは違い、誘ったら十割  つまりは振る舞いを断らない貴昭が可愛くてしようがないのだ。 「じゃあ帰るわ」 「ねえせんせー」 「あ?」  背中を向けたところで声をかけられ、つられて振り返る。貴昭は目を見開いて、ゆっくりと言った。 「……デート?」 「違う違う、ただの呑み!」 「あはは!」 「笑うな!」  適度に交際相手がいた貴昭とは違い、俺にとっては全然笑えないネタだから腹が立つほど困る。どうせ彼女出来たこともねえわ。どうせ、三十一歳を迎えても未だに童貞のままだわ。馬鹿にすんな。  貴昭には、『ただの飲み』といった。俺にとっての『飲み』とはそもそも、居酒屋だとかそういう、気軽に飲めて気軽に枝豆を食べることができるようなしみったれた場所のことで、コイツと飲みに出かける時は少なくともそういう項目に当てはまる場所ばかりだったし、だから誘いに乗っているというところもあった。 「…おい、ここ、」 「まあまあ」  重厚な雰囲気漂う室内には中世ヨーロッパを彷彿とさせる調度品がそこかしこに飾られていた。一見はどこぞのお高いホテルのスイートルーム、とでも例えればいいのか、触らなくともわかる見目のベルベット調カーテンと年代物の、いたるところに細かい細工が入った家具。腰を下ろせば一瞬で沈むソファは典型的なダマスク模様の布地が貼られ、頭の中が勘違いしそうになる。気を抜けばどこかの迎賓館に居る、と自分自身に思い込ませてしまう事も簡単だ。  だが、オーガンジー素材のカーテンからちらちら見える人影がその想像を容易く打ち破ってくる。薄暗い室内の中、各小部屋に灯されているのだろう小さなランタンのせいで浮かぶ  うさ耳。  ちらちら見えていたその姿。頭にうさ耳、後ろには丸く、ふわふわとしたしっぽ。どれだけ目をこらしても女性とは思えない胸つき。いや、もしかしたら胸が控えめな子がたまたま通りかかっただけなのかもしれないと思った。でも違った。  顔立ちは皆中性的だ。でも、決定的な部分があった。申し訳ない、とおもいつつ、横切る子の股間を見る。  あの子も、あの子も、全員  ふくらみがある。 「……っオトコばっかじゃねえか!」  ぎりぎりを攻めるかのごとく申し訳なさ程度にしか肌の重要部を隠せていないローライズなパンツから伸びる長い足。気づいたら早い。異性と見間違えないほどには角ばった身体。 「あれ? 僕言ってなかったっけ?」 「言ってねーよ!」  小声になりきれない自分のせいで、先ほどからうさぎ男(仮)達が俺達の小部屋を横切るたび視線が合う。キャバクラならわかる。イメクラも。でもこんな、まさか、まさかの男。え、男?なんで男がうさぎの格好してるんだ。 「失礼します、お飲み物は」  頭が混乱していた最中、カーテンから一匹のうさぎ男(仮)が入ってきた。横切っていたうさぎ男(仮)と同じ衣装を身にまとった黒髪の男は、膝を着きながら小さな丸テーブルにメニューを置き、真ん中で分けられた前髪を長い指たちですくい耳に掛けた瞬間、隠れていた顔が現れる。 「っ……」!」  言葉に詰まった。  何故詰まったのか分からない。  どこか既視感があるような。  でもどこで見たのかは分からない。  ノースリーブから伸びた白い腕は華奢だが、確かに男。 「……お客様?」  声を掛けられ、自分が彼の身体を隅々まで見ていた事に気付いた。 「えっ! あ、えーとっ、」 「ボトルを出して。彼もそれでいいよ」 「かしこまりました」  にこりとも笑わないうさぎ男(仮)は早々に広げていたメニューを閉じ、用は終わりました、と言わんばかりにさっさと部屋から出ていく。  だれかの友達?いやそんな訳は無い。そもそも友達だなんて呼べる人間は居ない。どこでの知り合いだろう。そもそも知り合いなのか。でも見たことがある。人の顔を覚えられない俺が?  だが確かに、雰囲気もなにもかも、どこかで触れているのだ。 「……タイプ?」 「ばっか男だぞ!」  食い気味に言うと、やれたれ、とでも言いたげに首を振られた。いつの間にネクタイを外していたのか、涼しそうな首元になっている。スリーピースのスーツにはいつものごとくシワひとつ無い。だから、自分の格好がいかに庶民なのかというのを思い知る。よれよれのシャツに履き古したジーンズ。こんなナリでよく入れてもらえたな、と思ってしまった。髪型だってそうだ、綺麗に固められ、耳に流している風のこいつとは違い、パーマを掛けたままなんの手入れもしていない自分といったら。貴昭に『まじでキモイおっさんになるから髪型だけはちゃんとして』と言われて以来、仕方なく一ヶ月に一回は美容室(貴昭に紹介してもらった)に通うようにしているだけに、劣等感が凄まじい。 「きょうびそんな部分にこだわり見いだしてるの君位だよ。オメガなら男も女も関係ないだろ」 「春日井の周りではそうかもしんねえな!」 「高宮くんって本当に真面目っていうか……偏屈なアルファだよね。息してるだけでも疲れちゃうんじゃない?」 「それを言うならお前こそ性癖曲がりまくってるアルファだろうが」  でも、だからといってこればかりは。 「いや、別に僕の周りだけじゃない。高宮くんは世間と関わらないから知らないだけだよ」 「……帰る」 「……いいけど、帰ったら今後一切、うちのギャラリーで『高宮作品』は取り扱わない」 「ひ、卑怯者!」 「なんとでも」  立ち上がろうとした最中、そんな言葉を出されてしまっては動くに動けない。とりあえずまたソファに座りなおしたものの、それでも納得は出来なかった。 「高宮くんは、もう少し羽を伸ばした方がいい。遊ぶことも覚えなよ」  店に入る手前。ちらりと見た看板の文字を思い出す。口が上手く動かずどもり気味になってしまったが仕方ない。 「だっだからって、オメガ専門のキャバクラ……しかも全員男とか……お前、頭おかしいよ……」 「なんで、楽しいよ? うさぎちゃんたちと遊ぶの」  こいつおかしい。絶対どっかおかしい。いや、芸術を仕事にしているやつらは全員どっかおかしい。それが仕様なのかもしれない。 「あれ、帰るの?」  いてもたってもいられなくなり、その場から立ち上がった。 「……っ、ちょっと、トイレ!」  どうにか頭の中を整理したかった。だからってなんで『オメガ専門のキャバクラ』なんだよ。こういう遊びは違う人間とやってほしい。 「帰ってもいいよー」  カーテンをかき分けた瞬間、後ろから笑いを堪えているのがまるわかりな声が飛んでくる。 「うるせえ!」  とりあえず冷静にならなければ。あれ、トイレってどっちだ。  俺が考えなければならないことは、『いかにあいつの機嫌を損ねずこの館から出るか』という部分だと思う。いやでも待てよ、このあとの流れを知らない。俺だって嗜みはしていないが、キャバクラの流れというのは知っている。まず時間を決めるだろ。そういえば俺達は何分コースだったんだ。春日井から聞き出しておけば良かった。  もう十分経ったか、と携帯を見ながらトイレを出る。バカみたいに豪奢なつくりをしたドアノブを回し、つい十分前歩いた廊下なのにどこへ向かえばいいか分からない。とりあえず歩き出して、壁にぶつかる。左にも廊下、右にも廊下。俺左曲がったっけ右曲がったっけ。  うんうんと唸りながら左右の道を見比べていた時だった。左の廊下途中にあったドアから、一匹のうさぎ男(仮)が出てきた。 「っ、あ……!」  さっき、俺達のテーブルに飲み物を聞きにきた子だ。俺の存在に気付いたのか、そのうさぎ男(仮)が少し会釈をして、控えめな笑顔を携えた。考える間もないまま、自然と足がその方向へと向かう。背中を向け歩き出したその身体目掛けて走り、思わず腕を伸ばしてしまった。 「……なあっ君!」  掴んだ腕は細い。驚いたうさぎ男(仮)が一瞬目を見開いたから、ヤバイと思って咄嗟に両手を上げた。危害を加えるつもりはてんで無かったからだ。ただ、身体が勝手に彼を追いかけてしまっただけで。 「……、はい?」 「……俺たち、どっかで会ったことある?」  絶対あるよな。こんな既視感滅多に無い。でも自分では思い出せない。会ったことがあるとすればどこだろう。大学か?  だが、貴昭と同じ科の子達だってろくすっぽ覚えていないような自分なのだ、追いかけてしまうほど覚えているような子なら名前を知っているはず。 「……僕、口説かれてます?」 「えっあ、いや、そういうのじゃなくて」  そう言われ、まったく他意は無かったから慌ててしまう。場所も場所だ、俺以外の人間からもよく声を掛けられるのだろう。 「ごっごめん、勘違いだったならいいんだっ、わ!!」  無意識に両手を振っていた最中だった。目の前に居た彼の手が、素早く動く俺のてのひらをぱしりと捕まえる。 「……お気に入りのバニーは決まりましたか?」 「……、バニー?」 「あれ? お客様、宿泊コースでは?」 「えっ?!」 「お連れ様は先にスイートルームへ行かれました」  パニックどころの話ではない。一度に複数の情報が入ってきて、もう何がなんだか。お気に入りのバニー、宿泊コース、春日井は俺が席を外しているうちにスイートルームに行った。  まず、お気に入りのバニーってなんだ。指名ってことか。指名ってなんだ。宿泊コース。ということは、どういうこと。この場所に宿泊する。誰と。何のために。そしてスイートルーム。春日井はスイートルームに行った。じゃあ、連れの俺も、ってこと? 「……、帰る」  俺にはそんな不健全なことできない。童貞にそこまでの覚悟とポテンシャルは無い。培おうとも思ってない。だから帰るしかない。お会計は。お会計はどこだ。途中からコース変更って出来るのか。春日井には悪いし、俺も痛いが仕方ない、自分の作品を扱ってくれる新しいギャラリーを探そう。  足元がおぼつかなくなっていた中、ごめん、と手を握っていてくれた彼のてのひらをやんわりと解こうとした時だった。突然強い力で引っ張られた。 「っうわ、」  ふらついて、彼の方に倒れ込んでしまう。 「なに……」  彼を抱きしめる形になっていたことに驚いて、身体を離した瞬間だった。 「決まって居ないのなら、会ったことがあるかもしれない『僕』はどうですか』  自分の影の中から、ちらりと光が見え隠れする。天井のライトが反射した目。大きな瞳は、楽しそうな三日月型になっていた。  自分は一生、そういうことには無縁な人生を送るものだと思っていた。多分誰のことも好きになれない。今は完璧な『形』をしているからいいが、それも少し前までは保てていなかった。どっちつかず。  性別は嫌いだ。何もかもはっきりと分けてしまうから。アルファ。ベータ。オメガ。どれにも当てはまらない人間だなんて気味が悪くて仕方ない  それが母親の口癖だった。  捨てられて当然だと思った。だって、自分は他の人間と『違う』。四六時中そう言い続けられて、信じるものが親しか居ない世界で、信じないでいられる訳が無い。親は唯一無二だ。小さな箱庭の、たったひとりの神様。子どもの頃は彼女が全てで、彼女に逆らえば殴られ、なじられ。 「えっいや、あの、」  知らない部屋、知らないベッドの上。  四つん這いのうさぎ男(仮)は、真っ白になった(心情的な意味で)俺を見ながら楽しそうにずいずい這い迫ってきた。 「ちょっ待って、俺っこういう、男同士ってかっ経験、ない、から!」 「大丈夫、女性と変わらないです」  だから、女性ともないんだってば。なんでこんな部屋に連れ込まれたんだ。ライトはつけておらず、真っ暗闇の中月明かりだけが頼りの部屋。ぐいっと引っ張られすたすたと足早に歩かれ、拒むこともできず気づいたらここだった、なんて笑えない。自分よりも小さい男に、さも赤子の手をひねるかのごとく、だなんて恥ずかしすぎるし違う意味でも恥ずかしすぎる。童貞には理解できない。 「……君、な、なんでこんなところで働いてるんだ。こんな……いかがわしい、みせ」  とりあえず冷静に彼をたしなめなければ、と思った瞬間に出た言葉は大層安く薄っぺらい、そこらへんの酔ったサラリーマンが道端でキャッチの女の子に説教垂れ込んでいるものと同じくらい知能が低いものだった。情から訴えかけようとしてこの言葉しか出てこないとか本当に俺終わってんな最低な人間じゃねえか。 「……ふふっ、学校の先生みたいなこと言ってる」  言いながら、彼の手が俺の太腿にかかる。背中は既にベッドヘッドについており、これ以上は逃げられない。 「じゃあ、『先生』って呼びますね、」  そのまま辿るようにして、小さなてのひらが服を這い回った。肩までくると、俺の足を跨ぎ座る。ダイレクトな人の体温に肌が粟立つのが分かった。先生、だなんて。まさに自分の職業だ。 「僕のことは『ハルナ』って呼んでくださいね、先生」  迫ってきた綺麗な顔に、声も出せやしない。温かい唇が、敏感になった耳に付けられた。  罪悪感に打ちひしがれるのは、自分が童貞ということもあるし、風俗初体験ということもある。  でもなによりその感情を助長させているのはきっと、『ハルナ』という男が、自分のことを『先生』と呼んでくるからなんだろう。 「……お、お前、おかしい、」  ハルナの口が愛おしそうに俺のモノを喰む。初めての腔内に、腰が引けてしまうほど感じた。感じている場合ではないのだ。でも、気持ちいい。これがうまいのか、それともそうでないのかすら分からない。何にも例えられないほど新しい感覚に、気付けば口からそんな言葉が出ていた。 「……先生もおかしいですよ」  器用に手と口を使って俺のモノを扱いていく。視覚的な刺激も相まり、さらに極まってくる。そうだ、こういう場所に居るのだからきっと、こいつは手練手管。イかせるだなんて朝飯前。だからこんなに極まりが早くとも仕方のない話。さらに募った罪悪感。耳の奥でもうひとりの自分が囁く。  いいじゃねえか、この子も望んでる  やめてくれ、そんなにも割り切った考え方なんて俺には出来ない。  出る、と思った瞬間だった。それが分かったのか、ハルナが手を止め口を離し、満足気に上半身を起こした。フェラチオしていたせいでぬらぬらになった口元を拭い、思わせぶりに自らの下衣に手をやる。ちょうちょ結びに手を掛けると、面白いほど綺麗に解けた。中心で締め上げられたズボンが、するすると左右に開いていく。現れたのは心もとない紐の下着だった。さながらどこぞのストリップショーのようだ。目が離せないほど様になって、気が付けば唾を飲み込んでいる自分がいた。 「僕達、一緒ですね。同じ。匂いも、感じ方も」  そうしてまた乗り上がってきた細い身体。言葉の意味は分からない。なんなら全部の意味が分からない。拒もうと思えばどれだけだって嫌がれるのに、俺にはそれすら出来ない。 「うしろのひも、わかります?」  耳元で囁かれ、手を取られる。ゆっくりと誘導された場所は、ハルナの背中側、下着についている紐だった。 「これ、外して?」  ハルナの手が俺の指を補助する。掴まされるままその紐を引くと、はらりと彼の下着が自分たちの間に落ちた。  屹立するハルナの局部には、本来あるべき毛が一本も無い。はっとして、思わず頭一つ分高い位置にあるハルナの顔を見上げる。視線に気付いたハルナは微笑みを携えながら、背中側に手を回し俺のモノを支えた。 「っ、!」  左右のふくよかさに挟まれた自分の鋒。ハルナが腰を下ろしていく。みち、という音とともに、ひどく狭い場所へと誘われる。だめだ。これは、だめだ  手とか口とか、そういう次元の気持ちよさじゃない。完全に突出している。比べようがないのだ。 「ッ、ああ……、おっき、おっきい……ッ」  悲鳴にも似た息で、ハルナが俺の頭を抱える。道につられ、自分の皮が根元へと最大限まで下げられる。ぴりりとした痛みさえ感じる性器への直接的な快感。自然と彼の腰を支えてしまった手のひら。気持ちよさそうな吐息が、間を開けず降り注いでくる。 「ッ、全部入りました、?」  息を止め、苦しくなってから慌てて呼吸を整えて、また息を止める。ハルナが腰を下ろし終えるまで俺の息継ぎは続いた。  苦しそうな彼の声に、確かめることもなく細い腰を持ち直す。全部は入っていない。これを、むりやりでもいい、ねじ込みたい。 「……、あと、ちょっと、ッ!」  そして、反動をつけ思い切りハルナの中に自分のモノを埋めた。 「アあっ……!!」  びりびりと電流が走ったかのように震える身体は、必死に縋ろうと俺の身体を抱きしめてくる。 「だめ、なん、そんな、いきなり、ッ……」  彼が涙声になっているとか、そういうのも全く考えられなかった。熱い。溶けてしまう。こいつの腹はどうなっている。頭を殴られたようなひどい衝撃と共に、極まった波が容赦なく襲う。腹の中に思い切りぶちまけてしまったのだ。  だが足りない。全然足りない。頭は強制的に切り替えられ、目の前の彼を味わうことしか考えなくなっている。俺に抱きつく彼を強制的に外し、そのままシーツに押し倒す。見下ろした先は、確かに彼と繋がっていた。彼のつるつるの局部に手をかざし、だらだらと汁を垂れ流していた陰茎に触れると面白いほど純粋な、高い音が上がる。 「あ! あ、だめ……っまだ、まだ……!」  何も聞こえない。だから、腰を動かす。出して入れて、繰り返して、自慰をするかのごとく竿を、彼の内壁で扱く。動きやすいよう体勢を変えて、一番やりやすいのが太腿を抱えることだと気付いた。 「っあ、ア、だめ、だめ、イっちゃ……ッ!!」  結合部からじゅぶじゅぶと白い泡が出て、『ああ、これは俺が出した精液か』とぼんやり考えてしまった。締まったナカに、引きずられるようにしてまた極まる。転がしていた彼のモノからは、俺と同じ白く濁った精液が吹き出した。  緩やかな温かさ。それが、全身に這い回る。出会ったことのない気持ちよさに、自然とそれを追いかけてしまう。そして、たどり着いた柔らかさ。人の肌、肉。縋るようにして腕に閉じ込めると、細かなくすぐったさが頬を撫ぜた。 「先生」  喉元に湿ったあたたかさを感じた。その音に、誘われるようにして目を開く。 「おはようございます」  まだ開ききってないまぶたのまま、音の方向を見る。まず視界に入ってきた色。艶々とした黒髪が、自分の腕の中で綺麗に広がっている。そして白く広い額に、大きな瞳。その頃には視界も明々としていて、少しの泣き跡と赤みがやけに映える。  俺の腕から起き上がった身体には、たくさんの赤みが散らされていた。寝ぼけた頭のまま、胸の下から、へその横、脇腹と赤痕を辿る。といってもこれはまだまだ一部だ。多分彼の全身、くまなく付いてる。 「シャワーを浴びましょう」  俺の手を取った彼に囁かれ、自主的に起き上がる。彼の身体は白い。その中で、綺麗な黒髪と同じくらい艶のある首元のネックガードだけがぼんやりと浮かんでいるように見えた。やけに目に付く。  『こっちです、』とベッドを降りた彼に、雛鳥が親に付いていくように、跡を辿りってベッドから降りた。  温かいシャワーをかぶり、身体中洗われているうち霞掛かっていた頭も明瞭になってくる。だからなんだというのだ。犯した後悔は拭えない。  湯船に入らされると、彼が俺の脚の間につま先を沈ませた。並々になったバスタブから、湯が面白いほど逃げていく。肩まで浸った彼は俺の胸に背中を預け、ふう、と一息吐いた。 「……ハルナ」 「はい?」  洗ったばかりの黒が目の前にある。中心で分けられた生え際に、自然と鼻を乗せ、そのまま誘われるようにして首元のネックガードにたどり着く。 「……お前、なんでこんな場所で働いてるんだ?」  聞いてもどうしようもないだろ。だからどうだっていうんだ。昔から俺は物に愛着を持つタイプだったから、余計に虚しい。事情だなんて、それこそ人の数だけあるものだ。分かっているのに、何故彼がこの仕事なのかというのが知りたくて仕方なくなっている。仕事に貴賎も何もない。どれもきっと、皆がプライドを持って従事しているというのに俺という人間は。  ちゃぷり、と水面が揺れる。身体を動かし、俺に正面から向き合ったハルナの瞳からは、何色とも取れないような、水のように澄んだ視線のみが寄越される。 「……じゃあ、先生が僕のこと買い上げてくださいますか? そうしたら働かずにすみます。先生以外の、他人の汚い手のひらで嬲られることもなく、蹂躙されることもなく」  昨日の自分は多分、狂いに狂っていたんだと思う。でないと初対面の、しかも男と一晩ベッドを共に出来るはずがない。  これでもかと触り尽くした。例えば、俺のてのひらに赤色のペンキが付いていたとする。ハルナの身体は髪の先から足の親指の裏側まで、真っ赤になっていることだろう。それくらい自分の手垢を彼に擦り付けた自覚はある。 「昨日は、本当に気持ちよかった、ふふっ、最初は驚きましたけど……僕の穴に先生の素晴らしいモノがねじ込まれて、全部をくまなく擦って、意味も分からず僕も締め付けてしまって、またあなたの腰つきが激しくなって、中に出されて、奥まで埋められて……僕、妊娠しちゃったらどうしようかなあ?」  どうしても止められなかった。妊娠、だなんて現実味がありすぎる言葉を出されたのに、思考は一切の拒絶を示していない。 「僕はいつでもここに居ます……また、とびっきりのセックスしましょうね?」  そうして、施しのように受けた頬への口づけ。そうだな、最中は一度も口を合わせていなかった。 「ッあーくそ、うるせえ、」  リビングのソファはもうそろそろ替え時なのかもしれない。ギシギシとスプリングがうるさくて構わないのだ。ついでに自分の部屋のベッドも買い換えよう。あのスプリングもやけにギシギシと鳴るものだから、だから。ダメなのだ。 「センセーどしたの。この前からめっちゃ機嫌わりいじゃん」  キッチンに居た貴昭が、ひょいと顔を向けたのが横目に分かる。 「別に!」 「ほら! そういうとこ! そういうとこだよ!」  機嫌なんて、全然悪くない。俺はいたっていつも通りだ。いつも通りだろ。いつも通り以外のなにものでもない。  また募ったもどかしさに、そのまま寝返りを打つとソファからギイ、と音が鳴る。ああもうこのクソソファー今すぐにでも外に放り投げてやろうか。もういい。向こうも分かってたんだ。いいように踊らされてたんだよ俺は。多分バレてただろうし。ああ、恥ずかしい。 「ねえせんせー」  マグカップ片手にリビングへとやってきた貴昭は、ソファに座らず直接カーペットの上に腰を下ろした。多分ここでソファの音が鳴っていたら殴り倒していただろうからそこだけは評価出来る。お前いいやつだな。 「んだよ」 「なんでそんなちくちくしてんの……恋わずらいみたい、」 「うおあーっ!!」  反射のまま起き上がり、可能な限り声を張り上げながら聞こえた貴昭の言葉を遮る。 「ちげえっつーの! なんで俺が! なんで俺がそんなもんしなきゃならん!」  そんな訳無い。俺があいつの出勤予定を気にしているだなんて。  あのあと、どこか後ろ髪を引かれて店舗に問い合わせてみた。この六日間で、二日に一回を一度。そして一日に一回が四度  結果、全滅。  一日も出勤していないのだというあの『ハルナ』は、もともと稀に、しかも数時間だけというシフト構成だったらしい。何が『いつでもここに居ます』だよ全然居ねえじゃん。 「……こっ……恋、と、か……!!」  違う違う。全然違う。気になるだけだ。抱いてしまったからそうなっているだけだ。こんな感じになっているだけ。それ以外だなんてありえない。そもそも男でオメガで風俗勤めだぞ。こうやって貢ぐ男に仕立て上げられるのか。まんまと引っかかったという訳だ。ダサ。恥ずかしい男だな俺。 「せんせー……それ……、」  悶絶していた俺に、貴昭から地を這うような声が上がる。やめろ。それ以上は何も言うな。認められないから。認識したら終わりだから。 「やっぱ恋じゃーん!!」  聞こえた言葉に、とうとう追い詰められ膝を抱えざるを得なくなった。 「う……うう……!」  違う。違うのに。今無性に、あの身体に触れたい。  ずらりと並べられた作品展の作品たちに気付いたのは展示終了後だった。受け持った授業終わり、帰る準備をしていたら彫刻科の学科長に呼ばれ彫刻科棟に行くと、来年の彫刻科作品展示においてのスペースを紹介してもらえないか、という話を聞かされた。  自分の顔が利くギャラリーであれば、ということで真っ先に思い浮かんだのは春日井グループだ。あいつだったら彫刻作品も好きだし、多分他のギャラリーや貸しスペースよりも協力してくれるはず。今までの彫刻科作品展で使用していたスペースが老朽化による建て直しで短くとも三年は使えないらしい。外部の人間に見てもらう為には大学内展示より、断然街中展示の方が人の出入りを見込める。  話し終わり、来た道を戻るよりこの校舎の裏門から出たほうが早い、とあまり歩いたことのない廊下を進んでいると、通りがかった教室内に、撤収された彫刻科の作品がずらりと並んでいるのが見えた。エントランスに飾られていたのだという全作品から、彫刻科の作品のみこの教室に引き上げられたのだろう。 「ヒッ!! ……、あ、あれ?」  思わず足を止め、その場で固まる。だが、あの会場で見かけた時より受けるものが薄い。  なんでだ、と不思議に思いながら教室の引き戸を開ける。ゴミが詰まっているのか、引き戸が開きにくいのは完全なる美大あるあるだと思う。  ドアを力づくで開けているうちスライドしやすくなって、ようやく中に入れた。恐る恐る、その作品へと近寄り、今度はじっと、真剣に目を向ける。 「でもやっぱ、……きもちわるい、よな」  あの時ほどのダメージは無いものの、どうしてか首の裏側がぞくぞくとした。どこにその要素があるのだろう。嫌だな、と思ったモノに対しては、多分死ぬまで一生嫌なのに、この作品に対しては不思議と『嫌悪感』というものが薄まっている気がして。  そうだ、これは誰が作った作品なんだろう。学科長に聞けば分かるだろうか、と考えていた最中だった。 「ッ!!」  何かに引っ張られ、そのままバランスを崩して暗闇の中を転がる。急いで顔をあげると、自分が転がった先が備え付けられた準備室なのだと分かった。 「うわっ!!」  唐突に暗くなる視界。目を塞がれている。 「誰だ、っ、」  質の悪いいたずらか、と思い切り拳を握った瞬間だった。 「……先生」  聞こえてきた、声。何かが自分の膝に乗り上げる。体重を掛けられ、それが驚く程しっくりときた。拳を握っていたはずなのに動かせない。自分に乗っかっているのが『誰』というのが、分かってしまったからだ。 「ッ、え、おまえっ……」  そのうち緩まってきた目隠しに、顔を振って邪魔な布を退かす。教室の光は、彼に背負われているせいで逆光気味だが、間違えるはずがない。  綺麗な黒髪。白い肌。大きな瞳。 「ハル、ナ……?」  恥を忍び、風俗店に問い合わせをせざるを得なくした元凶の張本人  ハルナが居た。 「毎日出勤の問い合わせ下さってたんですよね。そんなにも僕に会いたかった?」 「えっ、なん、なんでおまえ、」 「……何がダメなんだろう?構成が嫌なのかな。そんなにも気持ち悪い? 会場でも言ってたもんね、『右から三番目』って」  頬を辿るハルナの指先に、あの作品を見た時と同じ感覚が首の裏を占めていく。自分が感じたものは、本当に嫌悪感だったのだろうか。それすら分からない。 「これは『俺』ですよ。『先生』、」  嫌な予感がした。こんな形で『人』と『物』を同一視したこと、今まで一度だって無い。 「……これ作ったの、お前……?」  つなぎ姿の彼に言うと、こてり、とハルナが小首を傾げる。携えられた笑みに今度は背中のあたりがぞくぞくとする。これは間違いなく悪寒だ。 「先生、『どっかで会ったことある?』とか言っておきながら全然気付かないんだもん。あの時も途中で笑っちゃいそうになってた」  ということは、こいつは俺の身分を知っていたという事だ。 「お前、ここの生徒だったのか……なんだよ、なんなんだよ、」  弱みを握ろうとでも思ったのだろうか。ここでも会わないのに何故。自分の作品が悪く言われたから?  全く意味が分からない。 「お前おかしい、絶対おかしい」 「はっ、なに……同族嫌悪?」  それにしては執念が深すぎる。ハルナが出した、言葉の意味も分からなかった。  じゃあ何か、たかだか一度くらいの酷評で、当てつけに俺と寝た、ということか。あの風俗店には、しっかりと在籍確認をとってある。それじゃあ、たまたま俺が連れられて行った風俗店にこいつが居た、ということなんだろうか。そうして手を出させ、思わせぶりな言葉を残した?  怒りを通り越しておそろしさすら感じる。 「ね、先生さ、……もしかして童貞だった?」 「ッ……!」 「ははっやっぱり!! やけにがっついてると思ったあ。つい一ヶ月前まで童貞だったのに……もう忘れられないよね?ナカの感触」  じ、と俺の顔を見つめたまま動かなくなったハルナが、なにを思ったのか俺の唇に指を添えた。 「ねえ、欲しい?」  呟きと同時に、俺の唇を撫ぜていた指が、胸を通って、下腹部へと滑らされる。その瞬間頭に血が上った。 「おまっ……!」  馬鹿にしているどころの話ではない。お前は楽しめるだろうが俺は無理だ。そんな酔狂に付き合っていられない。 「……ッ、お前がこの学校に在籍してるってことは、腐っても教師と生徒だ!! いくら俺のこと馬鹿にしたいからって、」 「はあーっ……」  言っている最中、ハルナの表情が分かりやすく変わっていく。先ほどまで携えていたはずの笑顔は見る影を無くし、変わりに現れたのは。 「めんどくさ」  心底うざったらしそうな、愛嬌なんて一ミリもない表情だった。 「うるさいな、ごちゃごちゃ言うなよ。アンタ気持ちいいこと好きじゃん。俺も気持ちいいこと好き。それじゃダメとか  そんな訳ないよね。あんだけ俺ん中で出したのに否定する気かよ。探してたじゃん。忘れられなかったんだろ。俺のこと思い出してシコってた癖に。俺のせっまいアナに入れて、ごしごし扱いて欲しかったんだろ?」  言葉に合わせてハルナが腰を振る。ぐりぐりと彼の重さに刺激される下半身。強制的に、あの日の熱を呼び起こさせる。 「っあー、やめろ、やめろやめろ……!!」 「……ココは素直で、可愛げあるのになあ」  ほおら勃起してきたよ、という声と共に、ハルナの手が本格的に俺のズボンへと向かう。 「やめろ!!」 「ッ、」  目をつむり右手を宙へ滑らせた瞬間だった。はっとしてハルナを見る。  ちょうど俺の手の甲が彼の口に当たったのか、下唇を拭った細い親指には赤い、血のようなものが付いている。ハルナの眉間が思い切り顰められる。 「……ねえ先生、いいじゃないですか。誰も来ないですよ。だから大丈夫、思う存分気持ちよくなってください……僕のココ、気持ちよくして……?」  今までの声より、断然冷たい音だった。マウントを取られてしまった。ハルナの手が再度俺のズボンに掛かる。ボタンを外しチャックを下げ  寛げた前から出てきたのは、既にガチガチになり、我慢汁さえ滴るほど興奮した、俺の雄だった。  乗せられるがまま乗っかり、乗せ、どれだけ出しただろう。どれだけ絞り取られただろう。全てはこいつ  きゅんきゅんと締まりながら俺を惑わせてやまない、狭い穴の中だ。  全部がどうでもいい。自分の決意だなんてそんなものだ。最悪な展開というのは、迎えてみたら案外どうでもよくなるもの。  胸に乗ったままの黒髪が汗でまとわりついて気持ち悪い。でも長い髪の扱い方が分からないから、丁寧に梳くことしかできない。 「お前さてはセックス依存症ってやつか」  言うと、俺に全体重を掛けていた身体が上半身だけ持ち上がった。 「セックスは好きだから、見る人が見たらそう思えないこともないかもしれないけど、そうなったら全人類がそうなるんじゃない?」  いやさすがにお前ほどじゃないだろうよ。思春期の頃みたいに、オナニー覚えたての猿が一日八回抜くような。それほどまでに局部が痛い。悲しいほど身に覚えがあるこれをまさか三十路過ぎで再度起こしてしまうだなんて。 「なあ、約束してくれ」 「なに」 「……今後、絶対俺に近づくな」  でもこればかりは駄目だ。初めてハルナを抱いた日より深い罪悪感に、自分自身が押しつぶされそうでかなわない。 「……わかった」  起き上がったハルナが、準備室のシンクに掛けてあった雑巾で自分の股ぐらを拭く。太腿に垂れていく精液を拭うと、また垂れてきて。何度も繰り返す様子に思わず手のひらで顔を覆ってしまった。俺、生徒相手になんてことしたんだろう。いくら大学生とはいえこれはさすがにダメだ。大人として間違った道に身を置いてしまった。 「先生も拭いたほうがいいよ。俺が出したやつで腹べとべと、」  その声と同時に、手首に何かが当たる。見ると、乾いた雑巾。ハルナはいつの間にか、ここで出会った時と寸分違わぬつなぎ姿に戻っていた。 「あ、それと」  彼の足がドアに向か最中、思い出したかのように振り返った彼は、なんともこ憎たらしく、にっこりと笑った。 「俺、あの場所で客として取ったのはアンタが初めてだった」  じゃね、と彼が準備室から教室へと出て行った。しばらくして聞こえてきたドアの開閉音。裸のままの自分、散らばる拭く、転がった荷物、つんと鼻につく精液の匂いが充満する室内。 「……、ハア?!」  こんなにも腹から声を出すタイミング、早々無いんじゃないだろうか。  あいつ、宇宙人だ。絶対宇宙人。思考も行動もなにひとつ読めない。  だからなんだ。それがどうした。初めて、って。じゃあなぜあんな場所に。童貞というのはバレていた。じゃあ初モノ好きか。でもなぜ、俺が童貞だって分かった?  頭は真っ白。身体も真っ白。ああ神様。これは何の試練だというのでしょうか。  彫刻科三年、春名久也(はるなひさや)。  『ハルナ』の正体は、あのあと直ぐに調べた。この大学へはストレート合格。中々に優秀なのに外部の作品コンペには一切出品せず、残っていた記録では高校二年の頃一般公募に出品し、最優秀賞を取ったところで終わっている。『今まで学内作品展にすら出さなかったのに、どういう風の吹き回しか今回のは出品してくれた』と向こうの先生がざわめくほど有名。俺は知らなかったけど。  授業態度はいたって真面目。だから優秀なのかは分からないが、先生方からの評価も高い。他者との関わりは取らないタイプなのか、黙々と制作し休憩時間は風通しの良い階段の踊り場で寝るらしい。それが俺の調べられる範囲で分かった、『ハルナ』のという男だ。 「……なんでだよ」  疲れ果てて声も出ない。  リビングに入った瞬間更にやる気がなくなって、二階にある自分の部屋に向かう。足音が付いてくるのは気のせいだと思いたいしなんなら幻だったと信じたい。  開けっ放しの自室のドアを潜り、そのままベッドにダイブするとギイイ、と耳障りなスプリング音が鳴った。暫くして、同じく足音が自分の部屋に入ってくる。ゆっくりと感じた背中への重み。亡霊の方が百倍良かった。 「……お前、なんでココに居るんだ」  やめろ。絶対に答えるな。俺は亡霊説を推したいから。 「佐山に開けてもらっちゃったー!」  なんて、俺の願掛けなんて知ったこっちゃないだろう『ハルナ』もとい春名久也が、元気にネタばらしをしてくれた。お前は馬鹿なの。何なの?  枕を力いっぱい抱きしめながら小さく舌打ちを出す。聞こえないだろうと思ったのに、バッチリと春名の耳には届いていたらしい。 「なーんで怒んの?」  耳元で囁かれ、ついでと言わんばかりに耳にキスを落とされる。なんだこれ。なんだ、この感じ。 「……お前が、勝手に来たから」 「友達んとこ遊びに来ただけじゃん。そこにたまたま先生が居た。それだけでしょ?」 「それはそれ! これはこれ!」  こいつの脳みそは何でできてるんだはっ倒してやりたい。ついさっきのさっき、二時間前『絶対俺に近づくな』って言ったよな聞こえていないとは言わせない。こいつは『分かった』と、確かに声を出して言ったのだ。今日の今日だぞ、こいつ狂ってる。 「……ガキかよ」 「ああ?!お前子どものくせにッ」  僅かに聞こえてきた声につられ身体を起こすと、背中に乗っていた春名がシーツに滑り落ちた。 「……へへっ」  悪びれてすらいない、腹の立つ笑顔を携えた春名が、嬉しそうに擦り寄ってくる。教師と生徒で、生徒が家に居て、実はその生徒で教師は童貞を卒業した、なんてエロ漫画でもなしに、こんな展開有り得るものなんだろうか。

ともだちにシェアしよう!