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 なぜかよくわからない含みのある声で囁かれた俺は、訝しむ視線を返し、間抜けな相槌を打つ。  あぁ? 愉快なこと?  いや、普通にひたすら飲んで反抗期になるぐらいだと思うけどよ。あとはキャパ超えたら記憶喪失になる程度だぜ? 暴れるわけでもねぇらしいしな。  思い当たらずキョトンとする。  ズルズルとそばを啜っている冬賀がわはわはと笑っているが、シカトしよう。腹立つ野郎だなクソが。 「っていうか唾ってなんだよ。この世の誰にもつけさせねぇわッ」  一瞬悩んだ俺だが、それより聞き捨てならない言葉を受けてグルルと唸りかかる。 「へぇ」 「わぷっ」  すると三初がいきなりペロンと俺の頬を舐め、直後、後ろから密着していた体を素早く離した。  理由はもちろん、俺が直後に拳を振るったからである。  ──こいつの危機察知能力どうなってんだ!? いい加減にしろよオイッ! 「この……っ舐めんなッ! 避けんなッ! コケにすんなッ!」  パシパシと拳を繰り出すが紙一重で軽々避けられ、苛立ちがマッハで頂点に達した。 「ほら無防備。ガードしたら固いのに、するのがワンテンポ遅いんだよなぁ」 「は!? 暴論すぎんだろアホか! 人様の顔突然舐める野郎がそうそういてたまるかッ!」  それに引き換え相変わらずなにを考えているのか読めない三初は、俺をおちょくることに尽力する。  ほっとけ。断固やり返すからいいんだよ。  いやよくはないが、そもそもやるやつが悪いに決まっている。  騒がしい食堂内の喧騒に紛れて殴り躱しからかいキレる俺たちは、紛れもない恋人同士でもあった。詐欺だ。 「そうそうって、ここにいるでしょ? 先輩こそ簡単に舐められないでもらえます? 殴りかかってないで大人しく俺に虐められててくださいよ」 「いや俺は誰にも虐められたかねぇんだよ! 人の話聞けよッ!」 「あーあー聞こえねー」 「真面目に今日一クソウゼェ」 「先輩は今日一クソウケるかな」 「結局の言いたいことはわかんねぇけど、俺に喧嘩を売ってることだけはわかったわ。やっぱり殴らせろコラッ!」  視界のすみで冬賀が呼吸困難になりそうなくらい笑っているが、目を血走らせる俺の知ったこっちゃなかった。  座っている俺と立っている三初とではリーチが違うので、振り回す拳は軽く身をずらすだけで避けられていく。  薬が効いたのか、気がつけば二日酔いの頭痛すら気にならなくなっていた。殺意という脳内麻薬のおかげだろう。  最終的には── 「先輩、とりあえず今日しこたま飲ませますね。んで俺の隣固定で、勝手に動くごとに一つあんたの恥ずかしいこと暴露しますから」  ──なんていうとんでも暴君ルールを課されるにいたり。  俺は頭の血管をいくつかぶち切る勢いで渾身の拳を振るったのであった。  誰がわざわざテメェの近くに座るかッ! 一番遠い席に座るわこの独裁政治上等野郎ッ!

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