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プロローグ

   いつもと変わらない一日だった。少しばかり周りの目が冷たい気がしたのも、気のせいだと思える程度だった。  兄のマンホークと二人、山へ遊びに出かけて、日が暮れるまで過ごしたら温かい家に帰る。家では母のガナーシャがちょっと料理を焦がしながらも、舌を出して笑いながら出迎えてくれて、三人で笑い合ううちに父のトールが帰ってくる。  そんな、いつもと変わらない一日があって、明日も明後日も、その先もずっと変わらない日々が続くのだと信じて疑わなかった。    二桁にやっと届くか届かないかくらいの年齢の二人の男の子が、転がるように険しい山道を駆けていた。普段、この山は彼らの遊びの場として最適な環境で、知り尽くしているのだが、それも陽が落ちるまでの間だった。頭上に高く昇っていた太陽の光はやがて西日に変わり、夜の訪れを告げようとしている。 「マン、早く」  小声で急かしながら、自分よりも体格のいい兄の腕を引いて高く生い茂った叢の陰に隠れた。息を殺し、そっと叢の間から辺りを伺うと、4、5人の大人が険しい声と顔つきで辺りを見回している。 「こっちにはいないようだな。くそ、早くしないと夜になっちまうぞ」 「やはり犬を離して匂いを追ってもらった方が早そうだな」 「そうだな、日が落ちたら一旦戻って犬を調達してくるか」 「しかし、あの親も全く協力する気はないようだぞ」 「強硬手段に出るしかなかろう。そもそも、あれを隠していた奴らが悪いのだ」 「一家全員に制裁を与えないといけないな。家に火をつければ、出てくるかもしれないぞ」 「それはいい。名案だ」  彼らの会話を聞いた兄が立ち上がろうとしたのを押さえつけ、哄笑を響かせる大人たちが過ぎ去るのを待とうとした。 「離してくれ、レディ。あのままでは、父さんと母さんが」 「分かっている。でも、どうしようもないんだ。俺たちは自分たちのことだけを考えよう。山を越えれば街があると父さんたちは言ってた。そこで助けを求めるしかない」 「俺はそんなことはできない。お前だけでも逃げてくれ」 「マン!」  兄は弟の腕を振り払い、叢から飛び出した。そして、それに気付いた大人たちに捕らえられて連れていかれようとした。  一瞬も迷うことはなかった。親と離れ離れになるよりも、兄と二度と会えなくなるのは何よりも辛かった。たとえ、二人共に生き延びることが叶わないとしても。  ちろりちろりと舐めるような動きで、赤々とした灼熱の炎はレイドールの肌を嬲っていた。激痛、悲鳴、怒り、あらゆる感覚や感情が綯い交ぜになり、しばらくは獣のように叫んでいたのだが、喉まで熱にやられたのかうまく声が出せなくなり、そのうちに虚ろになる。  すると、周囲の大人たちに目を向ける余裕ができた。殺せ、殺せと歌うように、歓声を上げるように嬉々としてこちらを見上げた人々の顔は、まるで修羅や悪鬼、あるいは悪魔のようだった。だが、人々からすれば自分たちの方がそれそのものの存在なのだ。 「……ル……」  微かに自分の名前を呼ぶ声に応えて、燃え盛る炎の中で伸ばされた手を掴む。この世で唯一無二の味方であり、絶対の存在。自分たちに未来はないというのに、それを掴んでいるだけで、共にいるというだけで希望が生じた。  目を向けるが、大事な片割れの存在を見ることさえ叶わない。もう目も開かないのか、と思った時に、闇の中で兄の骸がレイドールに覆いかぶさってくる幻影を見た。実際には、彼の姿は崩れ落ちてすでにそこにはなかったのだけれども。  金属が擦れ合うような耳障りな音に驚いて飛び起きると、見慣れた自分の寝室のベッドの上だった。全力疾走でもしていたように呼吸が荒い。何か悪夢でも見たのかと思うが、その全容がまったく掴めずに、苛立たし気に額に張り付いた金と銀を混じり合わせたような奇妙な色合いの前髪を掻き上げる。  しんと静まり返った室内を怪訝に思い、窓に目を向けると、眠る前には激しい雷雨で煩いほどだったのがすっかり小降りに落ち着いたらしく、ただ底のない闇ばかりが広がっている。  暗闇に慣れてきた目で壁に吊るされた大層古い柱時計を見ると、ちょうど鐘を三つ鳴らした。起きるにはまだ早い時間だが、再び眠りに就く気分にはなれなかった。何か酒を一口でも口にすればいいかもしれないと、掛け布団を捲り上げてベッドを降りようとしたが、腕を掴むものがあり、動きを止めざるを得なくなった。  何故だか、苛立ちや焦燥、嫌悪といった理由も分からない感情がこみ上げかけ、そんな自分に首を傾げながら背後を振り返る。ちょうどレイドールが横たわっていたところの隣に当たる位置に、ある男がいる。女性のように華やかで線の細いレイドールとは似ても似つかないのだが、このがっしりとした体躯の男はレイドールの双子の兄である。そのマンホークが、レイドールの片腕を捉えたまま、深い藍色の瞳でじっと見つめてきていた。  昔からマンホークはでかい図体のくせに、レイドールに甘えてくるところがある。ふと生じた違和感にも満たないずれのようなものは、それですぐに霧散し、いつものように乱暴に手を振り払った。 「酒飲んでくるだけだ。お前は寝てろ」  そう言い捨てて立ち上がり、暗闇の中を迷いなく台所へ向かっていくと、背後に人の気配を感じて瞬時に振り返る。そして、振り向きざまに寝るときも肌身離さず持っているナイフを相手に突き立てようとしたのだが、その相手を確認すると乾いた笑いが漏れた。  なんのことはない。マンホークがついてきていただけだ。職業柄常に背後を気にするのは仕方がないにしても、気配でそれと分からなかった自分がおかしかった。 「マンホーク、寝てろと言っただろ」 「俺も酒を」 「持っていくから、俺の背後に立つな」  マンホークはレイドールの言葉に頷く代わりに、背後から腕を回して抱擁してきた。実際には、抱擁とは呼べないほど短い間だったのだが、それがかえって意味深長なものを含んでいるような気がした。 「マンホーク」  説明を求めるように名前を呼ぶと、彼は低く言った。 「時期が来たら」  と、それ以上でもそれ以下でもない、尚更意味を掴めない一言を言い置いて。

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