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第10話

 「絶対!やめた方がいいって!マツリ!」  後ろから追いすがる井岡の手が手首を強く握り込むのが分かり、浜崎はその手に引かれるがまま、半身をそちらに向けた。  「大丈夫。試すだけ」  足元がふわふわする。視界も少し揺れていて、振り向いた拍子にぐらついた身体は、井岡の手に救われる。眉を寄せて、怒ったような困ったような表情を浮かべる井岡に笑いかけ、直後、思いきり手を振って井岡を振りほどく。アルコールで加減が利かなくなった身体の全力はそれなりに威力があり、井岡はよろけて数歩後ずさり、浜崎の腕からはごきりと嫌な音がしたが、何の痛みも感じなかった。すぐに踏み留まり顔を上げた井岡に向かって浜崎はもう一度笑みを向け、くるりと踵を返してスタジオに足を向ける。  「っ、試すって何!?」  止めるのを諦めたらしい井岡が背後から怒鳴るのを聞いた。  EndLandのレコーディングの後、彼らには声もかけずにそこを出、井岡に今日の練習は行くと連絡を入れたのが午後3時。コンビニでウイスキーの小瓶を買い、3駅分を歩く間にそれを空にした。安いアルコールはびりびりと口内を刺激し、喉と腹は焼けるように熱かった。練習は4時からで、現在開始5分前。もう何も言わない井岡を引き連れて地下に向かう階段を降りる。入り口扉前で顔見知りのスタッフとすれ違い、目があった彼はぱっと表情を明るくしたが、よろしくお願いしますと口にした浜崎から臭うアルコールに気づいて目を見開き、何か言いたそうに口許が動いたが、それには気づかない振りをした。重い外扉を開けると、そこには入り組んだ狭い廊下がいくつかあり、初見なら入るのを躊躇うようなその場所に、浜崎は確とした足取りで踏み込んだ。上京してから1年半、休まず通い続けたスタジオは、ひと月半のブランクなど無言で飲み下し、いつも通りの静けさで浜崎を迎えた。  それでも。メンバーが待つスタジオの扉を開けるとき、浜崎の手はノブに触れて一度止まり、熱を持った指先に染み入る冷たさに拒絶の色を見つけた気がして嘆息した。……入りたくない。でも、ここに入らなければ始まらない。覚悟。覚悟を見せるために、もう一度、歌わねばならない。まずは、メンバーに。そうして、藤巻に。最後に、平木に。覚悟、と浜崎は呟く。逃げない覚悟は、もう決めた。ぐっと、ノブを握った手に力を込める。締まりハンドルが確かな手応えをもって回転し、ゴムパッキンの容器を開けるときと似たような音をたてて、密閉された空間が開く。漏れ聞こえる楽器の音色。一思いに扉を引き開けて、顔を上げる。音が、止まる。花田と井岡。二人の視線がこちらを向いていた。  「……また、よろしくお願いします」  二人の目を見返して一呼吸置き、浜崎はその場で足を揃え、深く、頭を下げた。背後の井岡は息をつめて、じっとしていた。そのまま数秒、浜崎は顔を上げずに反応を待ち、花田のドラムが再度、控えめに音を鳴らしたのを合図に井岡がほっと息をついた。数瞬遅れて古澤のギターも音を鳴らし始めたが、その音が心なしか弾んで聞こえるのは多分、気のせいではないと思う。くっと顔を上げる。もう二人とも、こちらを見てはいなかった。花田は淡々と、古澤は口許を綻ばせて、それぞれの準備を始めていた。4時、2分前。花田のドラムを背中に背負う位置に置かれたマイクスタンドが、浜崎の場所だった。  「……お前、あんまりマサルくんに寄るなよ。臭うから」  扉を閉めた井岡が耳元で囁き、壁際に立て掛けてあったベースを取りに走った。その後を追って部屋を横切り、マイクに向かう。声を出すことそのものが久々だと思う。首回り、喉、表情筋と、いつもよりも入念にストレッチをする。時間はすでに、4時を回っていた。  井岡が音を一つ、鳴らした。阿吽のルーティーン。井岡の音を目安に、エッジボイスの声出しを始める。すっと息を吸い、喉を震わせる。ぶつりと、喉奥で違和感。  ガタンと、背後で音がした。浜崎の喉から出たのは、音になりきらない、気の抜けた音一つだった。  「…っ、ふざけてんの?」  間髪いれず、後ろから伸びてきた腕が、浜崎の胸ぐらを掴んで揺さぶり上げた。一回り身体の大きな花田に引っ張り上げられ、背筋が伸びる。  「……お前、何しに来たの?」  怒っている。間近で視線を合わせられ、その目から、全身から、零れ出す怒気に、皮膚がじりつく。ドラムの向こうの倒れた椅子が、余韻で少し揺れていた。  「……歌いに来た」  「そんな状態で歌えるわけねぇだろ」  花田の静かな声には怒気が滲み、抑えた分凄みを増した響きの不穏さに、浜崎の強がりは一瞬で瓦解する。奮い立たせたはずの気持ちが、音を立てて萎んでゆく。  歌えるわけがない。そんなことは分かっている。声を出してみて分かった。アルコールは失敗だった。分かっている。花田が怒るのも、よく分かる。古澤も井岡も、誰も花田を止めようとしない。分かっている。俺が悪い。自分が悪いと、自分でも思う。分かってはいるけれど、どうしたら良いかが分からない。分からないから、困っている。  「……じゃあどうしたらいいんだよ」  泣き出したいような気分だった。気づいたのだ。平木に、こうしろと言って欲しかった。平木の言葉に従うことが“正しかった”。盲目的信頼。迷いなどなかった。でも、このままではダメなのだ。手を引いてもらっている内は、平木はこちらを振り向くことすらない。手を離して歩き出さなければ、ここに居ることすら、分かって貰えない。そう思うのに。手を離した途端、周囲はまっ暗闇だった。踏み出すべき道は、どこにあるのか。そもそも、踏みしめるべき地はあるのか。両足は、きちんとあるべき場所にあるのか。どこを向いても黒しか映さないこの目は?何も掴めない手は?立っているのか座っているのか倒れているのか。俺は、ここに居るのか。  「……分かんないよ……どうしたら良いか分かんない」  弱々しい、声が出た。芯のない声。まるで子供だと、そう思う。何でもいいから、誰でもいいから、教えてほしい。何が“正しい”のか。どうしたらいいのか。こうしろと、言って欲しい。  「……俺らの方がよっぽど訳わかんねぇよ」  ぎりりと、花田の手に力が籠り、じりじりと溢れる怒気がもう一段、温度を上げた。喉元に当たる拳が、震えていた。  真剣を滲ませる花田の目と向き合い続ける苦痛から逃れたくて、思わず目を逸らす。そうして逃げた先で、井岡の険しい顔を見つけて浜崎は更に逃げ、古澤の悲しげな表情にぶつかる。その視線からも逃れたくて身を捩るが、花田の手がそれを阻んだ。逃げない、と決めた側から逃げ出す自分を、“まるで”じゃないと、浜崎は自嘲する。子供だった。今までずっと、子供のままだった。手を引いてくれる人について歩くだけの、小さな子供。意思のない、人形のような。  目も合わさない浜崎に焦れたように、花田が口を開いた。  「……急に理由も言わずに練習来なくなって、マジですげぇ迷惑。そんでも練習続けてたんだよ、俺らは。本当はお前なんか戻したくない。真面目にやる気が無いんなら出て行けって言いたいんだけどさ、腹立つことに、お前がいないと曲になんねぇんだよ。仕方ないから黙って入れてやってんのに、その弱気は、何なんだよ」  どっと喉元を突かれてバランスを崩し、無様に尻餅をついた。押し込まれた拍子に喉が詰まり、反動で咳き込む。生理的な涙が滲み、水の膜の向こうで、世界が歪む。  「ふざけんな。俺らの邪魔すんじゃねぇ。歌う気ないなら戻ってくんな!」  語気を荒げた花田が頭上で唸り、その言葉に、身体の中心がびくりと反応する。気がついたときには、怒鳴り返していた。  「っ……歌う気がなきゃ戻ってこない!」  顔を上げた勢いに押されて、涙が一筋、頬を伝った。格好悪い、なんて。思う間もなかった。歌いたいから、戻ってきた。平木の前に立って、歌いたい。最高の歌を歌いたい。そう思ったから、戻ってきた。花田と古澤と井岡がいる、とびきりの歌が歌えるはずのこの場所に、戻ってきた。仲間のところに、戻ってきた。  じっとこちらを見つめる目を真っ直ぐに見返す。潤んだ視界越しでもびりびりと伝わる本気に、逃げ出しそうな身体を叱咤する。床に着いた手をぎゅっと握り、震えを押さえ込む。目を逸らしてはいけないと思った。言葉にし得ないこの気持ちを、花田には、古澤には、井岡には、伝えなければならないと、そう思った。  叫んだ声の反響が収まると、そこにはしんとした静寂だけがあり、見つめる目と目の間を遮るものは何もなかった。  「……じゃあ何で来なかった」  花田の声が、静寂に溶けた。この1ヶ月、どうして来なかったのか。なぜ、逃げたのか。瞬きで涙を払う。見下ろす瞳に、怒りはなかった。  眼球の動き一つで視線を外し、知らず詰めていた息を吐き出す。  「……何が“正しい”か分かんなくなったから。何を目指せば正解なのか……俺はどうなれば売れる?」  どうなれば、平木の目に留まるだろう。どうなれば、人の心を動かす歌が歌えるんだろう。どうなれば、ケイに勝てるんだろう。どうなれば、俺らしいんだろう。どうなれば、満たされるんだろう。正解が、欲しい。  「……知らねぇよ」  頭上から、声が、降ってくる。にべもない。が、その声はどこか柔らかい。  「正解なんて知らない」  花田が腰を屈めたのが、気配で分かった。ついと視線を戻すと、差し出された手が目の前にあり、変化に乏しい花田の表情がいつもと少し、違っていた。怒りとは違う、じわりと滲む柔らかな色が、瞳から零れて浜崎に触れる。  「……お前は、どうしたいの」  ゆっくりと噛み締めるように、花田が問うた。どうしたいのか。どうなりたいのか。お前は、どこに向かって歩いていきたいのか。お前が決めろと、その目が言う。  ふと、気づく。そうか。決めていいのか。……決めるのは、俺なのか。  形のない正解を追いかけてきた。追いかけて、追いかけて、見失って、ここにいる。けれど、本当に、正解があるのなら。見失うはずはない。1+1の答えは2で、地球は丸くて、空は青い。不安になる隙もない。間違っているかもしれないと、迷うこともない。正解があるならば、そこに揺らぎは生じ得ない。  凪いだ瞳を見返して、浜崎は暫し口を閉ざした。燃えるような熱はない、が、ガラス玉とも違う。生きた人間の目。まっすぐに、自分を見る、目。拒絶するでも、暴力的に入り込もうとするでもなく、ただ、待つ者の目。報いたいと思う。ただ向き合い続けてくれたこの目に、この信頼に、報いたいと、そう思う。  乾いた唇を舌先で湿らせる。俺がしたいこと。  「……平木さん、みたいに」  なりたいと、思う。花田の目元が、ぴくりと動いた。  平木のようになりたい。  そう、それは一つの夢だ。浜崎が歌う意味。けれど、平木のレプリカになりたい訳ではない。音楽を通して、叶えたい夢はある。確かに、ある。けれど多分、それは二次的な希望だ。  暗闇の中に、光を見つけた。青く燃える光。俺が、したいこと。  歌を通して、誰かを幸せにしたい。歌を通して、誰かを動かしたい。全部。全部。最初にあるのは、もっとシンプルな願い。ただ、歌いたい。歌いたいから歌っている。歌うことそのものに、意味がある。  「……あの人みたいに、人を惹き付ける歌を歌いたい。ケイみたいに、自分らしく歌いたい……Hi-vox.にしか、出来ない音楽をやりたい」  覚悟だ。自分の歌を歌を歌う覚悟。誰かの模倣ではない、誰かに言われたままでもない。自分の歌で歩む覚悟。  全てを賭して歌う、その姿に惹かれたのだ。藤巻にしろ、平木にしろ、その魅力の根底にはそれがある。がむしゃらに、実直に、生のエネルギーを迸らせて。届かないわけがない。その想いが、見る者に届かないわけがない。  「俺たちの音楽を、平木さんに認めさせたい」  届けたい。平木の目の前で歌って、あの人に、もう一度、歌いたいと思わせたい。俺たちの歌が、起爆剤になる。そんな音楽を、やってみたい。  差し出された手に向かって、手を伸ばす。花田はすぐにその手を取った。  「いいんじゃないの」  唇の端で笑った花田に引き起こされ、立ち上がる。浜崎が立ち上がりきるのを待たず、そのままの勢いで花田は首を回し、古澤に向かってシュウと呼び掛けた。  「お前さ、曲あんでしょ」  「……え?なに?」  「曲。書いてんだろ」  俺ら用の、と続けた花田の言葉に、浜崎と井岡の視線も自然、古澤に向いた。かっと、古澤の頬に朱が上る。  「は?……え?何で知って、」  「ライブ終わるといつも譜面持ってくんだもん。いつ出すんかなって思ってたけど結局出さないから何も言わなかったけど」  バレバレ、と花田は事も無げに言い、浜崎の手を離すと何曲ある?と続けた。  「すぐ使えそうなやつ。何曲ある?」  赤い顔でええととしどろもどろになる古澤から視線を外し、井岡と目を見合わせる。全然、知らなかった。  「……5曲くらいはある?もっとか」  「……えっと、すぐ……すぐ使えるかは分かんないけど、10くらい?はある、かな?……あ、でも、歌詞がない」  「ふうん……まっ、こっからやるならどっちにしても1曲だな……カイト」  頭のついてこない3人を置き去りにして花田の言葉は止まらず、井岡の名前を呼びながら自分はドラムの裏に戻り、少し前に倒した椅子を自分の手で元に戻す。  「お前、マツリとセトリ練り直して。……マツリがトーヤさんの真似しないで歌ってる曲がいい」  「っ!真似って、」  「してるだろ。真似」  思わず声を上げた浜崎を、ついと振り返った花田の一言が封じる。すっとこちらに向いた流し目には、別段なんの感情もない。ただ当然の事を口にしたまでという花田の態度に、浜崎は続く言葉を飲み込んだ。平木のように、歌おうとしていた。見透かされている。ぐうの音も出ない。拳を握りしめて唇を噛む。理想の形。浜崎の目標。ああなりたいと、思っている。流し目の花田が一つ、ため息をついた。とんと足を鳴らして体をこちらに向ける。  「……お前は、トーヤさんにはなれない」  確固とした口調で告げられ、どきりとする。ずきずきと痛いほどに、心臓が暴れだす。平木には、なれない。  「けどさ、」  トーヤさんも、マツリにはなれないよ。  ぐらりと、根底が揺らぐ。見えていた世界が、形を変える。  「お前の歌は、お前にしか歌えない。だから、トーヤさんみたいになりたいってお前がいくら言っても叶えてやれない……でも、俺達にしか出来ない音楽なら、いくらでもやれる」  やるぞと、花田は言った。  俺にしか歌えない、歌がある。俺たちにしか出来ない、音楽がある。平木に出来ないことが、俺たちになら、出来るかもしれない。  「……で、手始めにシュウの曲を1曲仕上げる。あとは既存曲の見直し。今日はこれで解散。俺はシュウと新曲仕上げるから、カイトとマツリでセットリスト考えて。新曲はラストに持ってこよう……高校の時にやってたオリジナルとか、やってよければ入れちゃっていいよ。トーヤさんの指導入る前の歌の感覚戻るんじゃない?シュウと俺は譜面あれば1日で合わせる」  てきぱきと指示を出して、さっさと帰り支度を始めた花田の背中を浜崎は声もなく見つめていた。  考えたこともなかった。平木に出来ないことがあるということも、平木に出来なくて自分に出来ることがあるかもしれないということも、想像したことすらなかった。  「……あ、のさ」  おずおずと、声を上げる。花田は手を止めずに、何と応じた。ちらりと横に視線を振ると、動き出せないでいるのは浜崎だけではなく、突っ立ったままでいる井岡と、すっかり赤みの引いた顔でぽかんとしている古澤を順に見遣り、浜崎は全員に聞こえるように少し声量を上げた。  「シュウの曲、歌詞ないなら俺が書いてもいい?……やったことないから、時間かかるかもしれないけど」  井岡と古澤の目が、こちらを向いた。花田の手が止まる。  「……うまく出来るか分かんないけど……新しいこと、やってみたいから」  やってみたい。何が出来るか、試したみたい。  「……いいよ。やろうよ。新しいこと」  わずかな沈黙後、口を開いたのは古澤で、自分自身に確かめるように一つ、大きく頷くと、浜崎を向いてにっと笑った。その隣で、井岡がおずおずと口を開く。  「……前から思ってたんだけど…マツリの声なら、バラード寄りの曲の方が良さ出ると思う、から……もし新曲やるなら、そういう方が刺さるかも」  「バラード……」  なるほどと花田が呟く。  「高校の時はコピバンだったからオリ曲はないけど、こいつの曲で特に人気あったのは女性ヴォーカルのバラードが断トツ」  「……確かに、向いてるかも」  井岡の言葉に頷いた花田を見、浜崎も口を開く。  「でも俺は、ガンガン押してく曲の方がアガるかも。ライブの時なんか特に」  うんと、頷いたのは古澤だった。  「マツリって気持ちで歌うタイプじゃん。それ考えると、セットリスト的には前半はガンガン行きたいな……って、マサルくんもこの前言ってたよね?おれもそう思う。あとマツリってさ……隠れ緊張しいでしょ?アップしてても最初声の出悪いから、一発ガツンと行っといた方がいいのかも。でも新曲バラードは賛成。Hi-vox.としては今のところほとんど歌ってないし」  じゃあ、新曲はバラード、セットリストはこの前組んだの元にしつつ、曲数絞っていく感じでと再び立ち上がった花田がまとめ、最後にくるりと浜崎を向いた。  「……で?マツリは、トーヤさんに認めさせるんだっけ?」  そう。認めさせる。認めさせて、ぞくぞくさせて。歌わずにいられなくさせる。あの動画の中の平木を、もう一度。ポーカーフェイスの奥から、引きずり出す。俺が、あの人に灯を灯す。  手を離して、暗闇に一歩を踏み出す。真っ暗に見えたその場所には、青い光が点っている。傍には、仲間がいる。怖いばかりではないと、そう思う。進む。前へ。  浜崎が戻ったと連絡があったのは、EndLandの練習を見に行った翌日だった。  『来ましたよ、あいつ』  風呂上がりに携帯を取り上げて花田からの不在着信を確認し、濡れ髪にバスタオルを被った中途半端な格好のまま慌てて折り返すと、電話の向こうの男は開口一番そう告げた。  そうかと応じて、平木はどっとソファに腰を落とした。戻ってきた。力が抜ける。知らず、安堵のため息が漏れた。  『マツリから連絡ありました?』  ほっと息をついた直後、花田の問いに一瞬言い淀む。  「……いや、特には」  『ああ、じゃあ一応。しばらくはカイトのとこに泊まるみたいなこと言ってましたよ』  「……分かった。悪いな、わざわざ」  『いいえ。心配してると思ったので』  心配、している。当然だ。あんな不穏に別れておいて連絡の一つも寄越さない浜崎を、心配するのは当然だと、そう思う。そんなことも想像できない浜崎ではない。知っている。人付き合いにはそつがなく、誰とでもうまくやるタイプ。だから、連絡を寄越さないのはきっと、意図的なのだ。といって平木は、心配を態度に出すようなかわいい性格ではないし、何も言ってこない相手にこちらから声をかけるのも癪だから、結局もやつくのは自分の方で、多分浜崎は、それも分かってやっている。だから余計に、腹が立つ。  ……とはいえ、何が言えるのかと、平木は思う。今、浜崎と向かい合ったとして、自分に何が言えるだろう。平木の嫉妬と憎悪に汚された赤黒い心臓をどくどくと鳴らして、沈んだ目でこちらを見る浜崎に、一体自分は、どう声をかけるつもりなのだろう。謝るのは、違う気がしていた。浜崎への言葉が全て、間違いだったわけではない。偽りだったわけではない。浜崎の本気を軽んじたことは、一度もない。それは断言できる。ただ、何も言ってやらなかった。浜崎が望んでいる承認を、これまで一度も与えなかった。羨ましくて、手放しに言葉にできなかった。それを今更。何と伝えればいいのだろう。  唐突に、電話の向こうで花田がふっと笑んだ。トーヤさんと、笑いを含んだ声が呼ぶ。  『……今俺ら、すごい調子いいんで、』  ライブ、楽しみにしててくださいね。  ざわりと、全身に鳥肌がたつ。反射的に噛み締めた奥歯が、ざりと鳴った。花田は滅多に、こういう言い方をしない。割合とクールな方で、バックバンドで鳴らす音とのギャップが面白いと、平木は最初そう思ったのだ。  ー……トーヤさんて、マツリのこと嫌いなんですか?  どういう流れでそうなったのかは覚えていない。ただあの日はなぜか、花田と二人きりで飲んでいた。薄汚れた赤ちょうちんの大衆酒場は、適度に込み合って賑々しい。  唐突な言葉に、平木はほっけを崩していた手を止め花田に視線を投げた。が、当の本人は手元のメニューを眺めるばかりで、こちらには一瞥もくれなかった。  ー……嫌いだったら面倒見るわけないだろ  言って、うつむいた花田の顔から目を逸らし、魚をつつく作業に戻る。花田はそれもそうかと軽く応じ、通りかかった店員を呼び止め、先ほどとは違う銘柄の日本酒を2合ぬる燗でオーダーした後で、くっと顔を上げ、軽く首を傾げた。  ー……んー……うん。そりゃそうっすよね……うん……嫌いな訳じゃないんですよね。……でもじゃあなんで、  マツリの曲、作ってやんないんですか?  心底不思議だといった風に、花田は言った。  ーマツリが歌ってんのって、BONDSの曲ですよね?……って、言い方おかしいかもしれないですけど、トーヤさんが歌うための曲だなって、思うんすよね。違いますか?  ー……違う  その言葉にどうしてあれほど乱されたのか、その頃の自分にはその理由が分からなかった。  ーあいつの曲はあいつのための曲だし、BONDSは何も関係ない  ざわつく気持ちを断ち切るために、意識して強い口調で言い切って、冷めきった日本酒をひといきに煽る。未知のものは怖い。怖いものからは、目を逸らそうとする。  今ならわかる。多分、図星だったのだ。  ー.....トーヤさんがそう言うなら、そうなんですかね?俺のは感覚だけだし……でも、じゃあどうして、俺たちの音もBONDSのサウンドに寄せんですか?  ぴくりと指先が跳ね、握っていた箸を取り落とす。皿とぶつかって、かちゃりと軽い音を立てたプラスチックの箸は、そのままテーブルの下まで転げ落ち、花田があ、と声を上げた。  ー新しいの貰いますね  身軽に腰を屈めて、落ちた箸を拾い上げた花田の旋毛に、そんなつもりはないと呟いてみる。そんなつもりはない。Hi-vox.をBONDSの代わりにしようとしている訳じゃない。浜崎を、自分の代わりにしようとなんて、していない。していない、はずだ。  ー……ああ、じゃあ、無意識なんですね  拾った箸を摘まんでこちらに顔を向けた花田は、そう言って肩をすくめた。  ー……レプリカは絶対オリジナルに勝てないって、これ、絵画の修復師やってたばあちゃんの受け売りなんすけど。まあばあちゃんのは、勝とうとしちゃダメって話だったんですけどね。忠実に、正確に、描いたときの描き手の気持ちまで再現できれば完璧って言ってましたからね  落ちた箸をテーブルの端に置き、花田はにっと笑った。  ーでも、俺はばあちゃんみたいに奥ゆかしい性格じゃないから、勝ちたいわけですよ。で、勝つにはどうしたら良いかっていうと、つまり、オリジナルになればいいんだなって思って  だから、誰かの真似は嫌なんすよ。  表情は笑っていたが、その、目は。爛々と、煌々と、燃えていた。内に秘めた熱。音を通して滲む熱の片鱗を、見つけた気がした。  ー主張のバランスは大事だけど、バックバンドでだって俺らしく叩こうと思ってますし、あとは、自分のレプリカにだってなりたくない。いつも同じように出来るのは安定感があるってことなんだろうけど、それじゃあもう、それ以上にはなれないじゃないですか  平木になにがしかの狙いがないのなら、自分は好きに叩かせて貰いたいのだと、花田はその時そう言って、以来確かに、Hi-vox.のサウンドはどこか変わった。明確に、どこが、と言えるほどの変化ではなかったが、確かに。それまでとは違う音に聞こえた。そうしてその音の中で、変わらずに歌い続ける浜崎に、平木は安堵したのだ。忠実に、正確に、BONDSのトーヤを体現しようとする浜崎の姿に、平木は深く、安堵したのだ。  それなのに、と平木は思う。それなのに、浜崎が帰るのは彼らの所なのだ。“俺ら”と言った花田に感じた敗北感を、寂寞を、うそ寒い胸中に反響させて、せめて内に響く軋みだけは届かぬようにと口元だけは笑って見せる。練習は予定通りの日程でやりますけど、トーヤさんもう来られる日ないんですよね?という問いには、動かせる仕事もないではなかったし、様子を見に行きたい気持ちもないではなかったが、そこはもう意地で、次に行けるのはライブ当日と答えて電話を切った。  携帯を持った手をぱたりと落とす。もう一方の手で、被ったままになっていたバスタオルを引き下ろすと、髪から滴る水が首筋を伝い、ひやりと冷えた水の感触に平木はぶるりと身を震わせた。  「……嫌になるな」  ため息と共に呟く。嫌になる。染み付いた思考回路が平木の内を身勝手に蹂躙する。浜崎が自分以外を選ぶことが許せない。跪かせたい。俺の前に跪く、お前が見たい。  みっともない嫉妬も羨望も、もう辞めたい。辞めたいと思った。向き合えない自分のところに、浜崎が戻ってくるはずがない。それも、分かっていた。分かっていても、変わらない。瞬間に反応を示す自分を、止められない。嫌になる。  かくりと首を折ってうつむくと、濡れ髪から滴る水滴がこめかみから筋になって流れ、目尻に小さな水溜まりを作り一瞬動きを止めた。平木はしかし、瞬きすれば瞼を濡らすその水を拭うことはせず、後を追って流れ込んだ水が表面張力を破って決壊し、頬に一筋の透明な線を描きながら滑り、重力に従ってこぼれ落ちるに任せた。目元で暖められた水はもう、冷たくはなかった。

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