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第1話
火曜日の午後5時、先ほどまで2人で眠っていたベットのシーツは温もりを失いつつある。足先の冷たさから尋人は分厚い毛布を新調する算段をぼんやりと立てながら冬の訪れを感じた。
開かれた窓は、空気がこもってしまてしまうのを嫌う旭が、昨夜徹夜して完成させたレポートを提出し終えベットにて力尽きた尋人に添い寝する際に開けておいたのだろう。2人で選んだオレンジ色のカーテンとその下の白いレースが晩秋の風に吹かれて翻りそこから同じ色の夕日がその纏う光を2人の暮らす小さな部屋へと差し込ませていた。外からは目の前の国道を通行する車の唸り声や家へ帰る子供達の高い声、遠くからは冬にしか聞こえない最寄駅の電車の音が聞こえてきた。
手をそっと伸ばせばそこにサラサラとした髪の感触がある。秋の風に揺れるススキのような柔らかくて色素の薄い髪を撫でると旭はむにゃむにゃと何とも取れない言葉を呟きながら口元を小さく緩ませた。
幸せ
としか言い表せない穏やかで優しい時間を今の尋人は過ごしている。しかし彼の心のはまだそれを飲み込みきれていなかった。飲み込もうとするたび喉に何か引っかかってしまったような感覚がある。
かつて、尋人には安らげる場所を失い、居場所を失い、信頼できる人までも失ってしまった時があり旭に手を引かれるままに逃げるように今の生活を手にしてしまった。そのことがきっと彼の最後の棘となって尋人の幸せを拒むのだ。刺さった棘が何かの拍子に刺激されてしまったらそこからじんわりとした痛みが広がり傷口から血が滲み出てくるように、ふと意識してしまった時に、尋人は逃げてしまったことへの背徳感と、旭の未来を自分の犠牲にしてしまったことへの罪の意識に苛まれ胸の痛みに耐えきれなくなる。
今も彼の棘は心を刺激して痛みを生じさせている。尋人は物理的には何もないはずの胸元を握りしめる。次第に息をするのも苦しくなってきて呼吸が浅くなる。
自分は本当に幸せになってもいいのか。あの時逃げてしまった、そして今でも嫌なことから目を背け、決断の時を先延ばしにしてそれにともなく責任を旭や身の回りの人に肩代わりしてもらっている自分が果たして他者を差し置いて幸福を謳歌する権利がどこにあるというのか。
1秒でも早く旭を自分という呪縛から解放しなくてはいけないのに、弱い自分は彼の優しさに漬け込みそうできないでいる。そんな自分が嫌いでたまらない。
俺には幸せを感じてもいい資格がない。
だからもう優しくしないで
そうでないと・・・
「ヒロ」
耳元で息混じり少し低めの声がした。胸を抑える尋人の手に温もりが重なる。そのまま体を抱き込まれもう一方の手で肩を撫でてくれる。
「俺がそばにいる。何か不安なことがあるなら言って」
その言葉に幾度救われてきたことか。この大きくて温かい手が幾度尋人の凍ってしまった心を溶かしてきたか。ここで本当のことを打ち明けてしまったら、優しい旭は必ず尋人を受け入れまた温もりをくれることだろう。だが、尋人にはそれを受ける資格がないのだ。強くならなければ、自分さえいなければ彼は俺が今まで奪ってきた輝かしい未来を取り戻すことができるのに。
「なんでもないよ。大丈夫、心配させちゃったね。少し寒くなって起きてしまっただけなんだ、まだ寝てていいよ」
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