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第1話
コンビニレジ横のおでん、肉まん。吹き付ける乾燥した風、凍てつくような寒さ。吐く息の白さに、1年の終わりが迫っていることをひしひしと感じる。
コンビニ以外何もない住宅街。静かな夜道をひたすら歩き、家に入ると寒さは多少マシになる。ドアを開けて部屋に足を一歩踏み入れた途端、空気が張り詰めたのがわかった。日常ではなかなか味わうことのできない捕食者と被食者との間に流れる緊張感を肌で感じながらテーブルに近づき、中央にコンビニで買ってきた物が入ったビニール袋を置く。すぐ近くには自分のものではないスマートフォンが立てかけられていて、俺が留守の間も椅子に縛り付けられた男の姿を撮影し続けていた。
「ぅ」
ビニールの音に反応して彼が低い呻き声を漏らしながら顔を上げた。ボールギャグを噛んでおり、口の端とボールの穴から唾液を垂らして服が汚れていた。目には黒のボンテージテープを巻き付け、視界を遮ってある。後ろで手首を縛り、胴体と背凭れをテープで巻き付ける。足はそれぞれ椅子の脚に括り付けた。
「あうああん」
彼は恐らく俺の名を呼んだのだろう。テーブルの前の椅子を引いて腰を掛けると、彼はまた静かになり、電池が切れたかのように項垂れた。ボールの穴から垂れた唾液が長く糸を引いていた。
金髪に、高い鼻。背丈は俺と同じくらいだが、腰の位置は明らかに彼の方が高かった。一見外国人のような容姿ではあるがれっきとした日本人で、髪の根本は黒くまた近々染めに行くと言っていた。
「う、ぅう」
しばらく眺めていると身体を揺すってテープを外そうともがきだした。コーヒーを淹れようかと思っていた矢先だったが、そろそろ限界が近いと判断して彼の元へ向かう。椅子が床を擦る音を聞いた彼は勢いよく顔を上げ、あうああん、と叫び声を上げながら立ち上がろうとした。まずい。速足で彼に近づき椅子の肘置きを下に向かって押さえつけた。使用している椅子はどこの家庭にもある木製の椅子で、重量がないためひっくり返ったり椅子が破損する恐れがあった。彼は酷い興奮状態で、何かを叫びながら身体をくねらせ、そのたびにギシギシと椅子が悲鳴を上げた。
ここにいるよ、と声を掛けると、彼がピタリと動きを止める。
「おおええ゛、う゛あ゛ああっえ゛」
声の位置から、俺が正面にいることがわかったのだろう。何かを懸命に訴えながら俺に向かって首を伸ばした。何を言っているのかはわからないが、何を言いたいのかはなんとなくわかる。答える代わりに傷んだ髪に手を乗せると、男が上を向いた。下に向かって撫でると、男はもっと撫でろを言わんばかりに頭を押し付けてきた。彼とは出会い系サイトで知り合い、実際会うのはこれで3回目になる。SMにおいて信頼関係は欠かせないものであるが、ネット上で知り合い、たった3回しか会っていない相手にここまで心を許してしまうなんて、この先大丈夫だろうかと他人ながら心配になる。
動画撮影していたことを思い出し、彼の背後に回った。写真や動画は苦手だったが、彼があまりにもいい反応をするから初回からカメラを回すようにしている。
手が離れると、男は左右に首を振ったり上を向いたり、俺の手を探すような動作をした。
「口枷外すから、おとなしくしてて」
彼は言われたとおりに黙って下を向いた。後頭部で締められていたベルトを外してやると、はぁ、と苦し気に息を吐いた。外した口枷を膝の上に置くと、それだけでビクリと肩を跳ねさせた。
「水要る?」
「……うん」
その場を離れようとすると、待って、と彼が鋭く声を上げる。
「どこ行くの?」
「どこって、水取り行くだけだよ。すぐそこのテーブル」
聞いた話だと、SM行為は全く未経験らしい。それは俺も同じで、だからこそ会うことになったのだが、それはまた後ほど話すことにしよう。
テーブルの上に置いた袋の中からミネラルウォーターを取り出して彼の横に立つと、パキパキと音をさせながら蓋を開け、キョロキョロと落ち着きのない彼の下唇に押し当てた。彼が少し上を向いたのでそれに合わせてペットボトルを傾けると、喉仏を上下させて飲み下した。彼が下を向くのに合わせてペットボトルを戻すと、3分の1ほどがなくなっていた。蓋を締めていると、彼が不自由な中でも重心をこちらに傾けていることに気付いた。口は閉じるのを忘れたように開きっぱなしで、こちらを見上げていた。
「ちょっと待ってて」
彼を縛り付ける椅子と、テーブルの間の距離があるのが煩わしい。椅子を下げたのは、テーブルを三脚代わりに彼の様子を撮影するためだった。次があるなら、三脚を用意しよう。だが、次はない。今日で終わりにするつもりだった。
テーブルの上に飲みかけのペットボトルを置くと、ウエットシートと電マを持って彼の元へ戻る。電マは、物音を立てないように静かに足元に置いた。ソワソワして落ち着きのない様子でいる彼に顔を上げるように言うと、ウエットシートをケースから抜いて顎に当てる。シートが顔に触れた途端、彼が顔を背けた。
「冷た!何!?」
「ただのウエットシートだよ。顔汚いから、拭いてやる」
有無を言わさずに顎を掴んでこちらを向かせ、乱暴に唾液と鼻水を拭った。シートは近くのごみ箱に捨てた。俺が少しでも離れると、彼は不安そうにあたりを見回す仕草をする。背後に立ち肩に手を置くと、一瞬ビクッと肩を跳ねさせた後首を伸ばして擦り寄ってきた。どうやら、触られるのは好きらしい。猫にするように縦横無尽に髪を掻き回し、首を撫でた。それだけで充分感じるようで、ビクビクと身体を震わせながら浅く、荒い息を漏らしていた。
「あうッ!」
肩から身体に触れながら両手を下ろしてゆき、服の上から乳首をぎゅっとつまんで左右に引っ張ると、潰れたような呻き声を上げながら上体を反らせた。
「いだッ、それ痛い、やだ!!」
髪を乱しながら喚くのもお構いなしに乳首に爪を食い込ませると、彼の爪先が床を押し上げ、椅子の前足が浮いた。ゆっくり椅子が後ろに倒れてきているがわかって、慌てて肘置きを前に押すと、ガタンと大きな音と振動を立てて元の位置へ戻った。彼には何が起きたかわからなかったようで、呆然としていた。
仕切り直しだ。床に置いてあった電マを拾い上げ、電源を入れる。その音にビクリと彼が身体を震わせ、ガタっと椅子が音を立てた。
「待って待って!やだ、う」
今度はひっくり返らないように片手でを背凭れに添えた。平らな胸に電マを押し付けると、彼は身体を強張らせて息を詰めた。右の胸に当て、ゆっくり横へ滑らせていって左の胸に当てる。最初は息を殺していたが、だんだん呼吸が荒くなっていって時折喘ぎ声を漏らした。乳首に触れるか触れないかの距離で振動させると、ビクビクと身体を震わせながら甲高い声で喘いだ。
「まちださ、もう……」
拭いたばかりだというのに、また顔が鼻水と涎でぐしゃぐしゃになっていた。
「嫌?」
とびきり優しい声色で彼の言葉の続きを紡いでやる。
「本当に嫌だと思ってる?」
背凭れから彼の肩に手を置き替え、耳元で囁いた。弛緩しきった身体をまた緊張させ、手から彼の恐怖が伝わってくるようだった。彼が、前を向いたまま小さくうなずいた。安心させるように、彼の頭を撫でる。
「わかった」
彼が安心したであろうのも、束の間。電源が入ったままの電マを力いっぱい彼の股間に押しつけた。
「あ゛!?や゛、あ゛、う、ああ゛ああ」
その声は、もはや獣の咆哮だった。手で鼻と口を覆って声と呼吸を奪うと、ビクビクと大きく身体を痙攣させながらすぐに達したようだった。
すぐに手を離してやると、一瞬呼吸を忘れたように息を吸うことも吐くこともしなかったが、すぐに息を吸い始め大きく肩で呼吸していた。
お疲れ様、と口にする代わりにくしゃっと髪を撫でた。まだ何かされるのかと、彼は身体を強張らせて身構えた。そう、これでいい。
テーブルに向かって歩いていき、ビデオ撮影を終了する。椅子に縛り付け、目隠しをするところから録画を始めたが、それから48分が経過していた。
キッチンの引き出しを開けてはさみを取り出し、彼の元へ戻る。足音で俺が遠ざかっているか近づいてきているか判断しているようだったが、俺が近づくと彼は身体を強張らせた。
「はさみ持ってるから、動くなよ」
彼の正面にしゃがみ、黒いテープを切る。両足を開放してやると、今度は目隠ししていたテープを慎重に切った。テープの中は涙で濡れていた。視界が開けると、彼はほっとしたように表情を緩めた。椅子と胴体を縛り付けるテープを切ると、後ろ手に縛られたままで重心を前に倒して俺に頭を預け、町田さん、と甘えた声で呼んだ。
「はさみ持ってるんだから危ないだろ」
引き剥がそうとするが、片手にはさみを持っていたので力いっぱい引き剥がすことができなかった。ぐりぐりと顔を押し付けられ、しっとりと涙で服が濡れた。
「…俺、今お前に殺されかけた……」
「何か言った?」
「いや、別に……。でも今のは酷いよ。本当に死ぬかと思った」
拭いたばかりの頬に新しく一筋の涙が伝った。よく見ると、小さく身体が震えているのがわかる。長時間拘束され、視界を奪われて身体を好き勝手されることがよほど怖かったらしい。少なからず心が痛んだ。
「サクラくん、場所交代」
「え?」
腕を引っ張って立たせると、膝に乗っていた口枷が床に落ちた。彼が座っていた場所に腰を下ろすと、目の前に彼を座らせた。
「え、何?もう終わりでしょ?解いてよ」
目に見えて動揺している彼の目の前でベルトを外し、勃起したペニスを露出させる。
「え?は、ちょっ、嘘でしょ?俺ホモじゃないんだけど」
後頭部を引き付けると、当然抵抗されて反発にあう。
「俺もホモじゃないんだけどね。口でされるなら男も女も変わらないでしょ」
縛るだけなら男も女も変わらないでしょ? 初めて顔合わせしたとき、彼はそう言った。俺は出会い系で知り合ったサクラという女の子に会いに、のこのこと待ち合わせ場所に足を運んだ。そこで出会ったのが彼だった。声を掛けられたときは一瞬頭が真っ白になったが、すぐに騙されたと思い帰ろうとした。だが必死に食い下がられて、そこまで言うならと試しにホテルに入った。
「セーフワード使っていいよ。そしたらやめてあげる」
彼は相当負けず嫌いらしい。もはや意地になっているだけとしか思えない。大きく口を開き、自ら顔を寄せてきた。彼の思い切りのよさに、仕掛けた俺の方がたじろいでしまう。
「待った待った」
肩を掴んで引き離すと、席を立ってテーブルに向かう。コンビニで買ってきたコンドームの封を開けると、ひとつ持って椅子に掛け直した。片足を彼の肩に掛け、ぐっと引き寄せる。
「さすがにいきなりで生は可哀想だから。ほら、続きは口でして」
半分まで自分でコンドームをつけると、彼の後頭部を下腹部に引き寄せた。抵抗はなかった。
「ん……」
根本までゴムがかかったとき、彼の喉が先端に当たった。俺の手を押し返してすぐに口を離した彼の目には涙が溜まっており、舌を出して苦悶の表情を浮かべていた。
「誰が休んでいいって言った?続けて」
再び後頭部を引き寄せたときには、さすがに身体を強張らせた。だが、抵抗しながらも受け入れた。彼のフェラチオは決して上手いとは言えず、ただ大きく口を開けて舌を出し、涙を零しながら喉を犯され続けた。俺はというと、快楽を感じるどころではなくいつ噛まれるかと気が気ではなかった。
腰が揺れていることに気付き、足で彼の性器に触れると、ん゛、と呻き声を漏らして身体を強張らせた。先程達したばかりだというのに、もう硬くしている。初めて会ったときは縛られたい願望があるだけでマゾではないと言っていたが、充分に資質があると思う。力いっぱい踏みつけると、もうフェラチオどころではなく言葉にはならない叫び声を上げながら上体を反らして悶えた。
足を離してやると、えずいたり咳き込んだり、肩で息をしたりと忙しない。ぐったりと俺の太腿に頭を預けてそのまま動かなくなった。達したのか、痛みから萎えたのかはわからないが下も落ち着いたようだった。俺の方も、下手くそなフェラチオのおかげですっかり萎えていた。身なりを整えると、彼の頭を軽く叩いて意識をこちらに向けさせる。涙と鼻水と唾液でぐしゃぐしゃになった顔が俺を見上げた。
「風呂沸かしてあるから入ってこい」
虚ろな目をしていて、今、彼に何を言っても届かないのではないかと思う。椅子に座ったままで大きく腰を曲げ、後ろ手に拘束している黒テープを切ってやる。だらりと両手が床に落ち、そのまま俺に寄りかかっている身体も崩れそうだった。
「はーあ」
しばらく経ち、やっと動いたかと思ったらわざとらしい溜息を吐きながら右腕を俺の太腿の上に乗せ、その上に自分の頭を乗せた。
「女だって嘘ついたこと、怒ってるの?」
口調は穏やかだったが、俺を見上げる充血した目からは怒りが滲み出ているようだった。
「怒ってないよ」
「ふーん、ならいいけど。風呂借りる」
俺の太腿を支えにのろのろ立ち上がると、どこか頼りない足取りで部屋を出て行った。殴られても仕方ないことをしたが、殴られなかった代わりに目を合わせてもらえなかったことに気付いた。
彼が風呂に入る間、鍋に水を張り説明書通りに口枷を煮た。消毒のためだ。水が温められるのを待つ間、椅子の片付けや清掃をした。
「じゃあ、自己紹介してもらおうか」
「ちょっと何で撮ってるの!?」
「合意だって証拠を残すためだよ。ほら、名前は?」
初めて会った日、待ち合わせ場所からほど近いビジネスホテルに入った。腰に巻いていたベルトで後ろ手に縛り、彼のベルトで両足首を一纏めにしてベッドに座らせた。彼の正面に椅子を持ってきて腰掛け、彼の痴態を撮影する。これは彼を信用していなかったからに他ならないが、恥じらいながらも反抗的な態度を見せる様子に加虐心をそそられたことは否定できない。
「咲良亮、です」
「サクラって本名だったんだね。ずいぶん若く見えるけど、未成年じゃないよね?」
「うん……って、おい!!何してんだ、ふざけんな!」
ハンガーに掛けられた彼の上着から財布を抜き取り、中身をチェックする。身分証明できるものに、運転免許証と学生証が入っていた。身分証明書もしっかり記録しておく。ブリーチで痛めつけられた髪にキツイ目つきから、頭はよくなさそうだという先入観があったが、高学歴の医大生だった。財布を取り返そうと、拘束されていることを忘れて彼が立ち上がる。財布を放り出し、前のめりに転びそうになっていた彼を支え、はずみでベッドに押し倒した。
「危ないから動かないで。それから、壁薄いから声抑えて」
「……すみませんでした」
目を丸くした彼が、気まずそうに目を逸らした。居心地悪そうにしている様子を見て、馬乗りになったまま撮影を続行する。
「じゃあ続けるけど、サクラくんが望んでこうして縛られているんだよね?これは合意で間違いないね?」
「……はい」
こうして、出会い系は初めてであること、SMの経験はないことなどを聞いた。女性と偽って登録したのは、ゲイではないからだと言っていた。縛られたい願望があるだけで身体の関係は求めないので、ヘテロ男性の方が都合がよかったらしい。わざわざこんな危険を冒さなくても風俗に行けば済む話なのでは、と言ってみたが、プライドの問題だと理解に苦しむ答えが返ってきた。人のことは言えないが、難儀な性癖の持ち主であることはわかった。
最初は彼がサクラという女性の彼氏でリンチするために呼び出されたとか、もしくは仲間がいて未成年者をホテルに連れ込んだところを撮られて脅されるというような悪い展開を想像していた。すぐにその心配はないとわかったが、なんとなく、この時撮った記録は俺のスマートフォンに残り続けている。
撮影をすごく嫌がっていたから次はないだろうと思っていたが、彼から連絡があってまた会うことになった。こうして、この関係に疑問を抱えながらも2回3回と逢瀬を重ねている。
「腹減ったー。何かない?」
ジャージに着替え、首にうちのタオルを下げて戻ってきた彼の態度に少なからず面食らった。怒っていたかと思いきや、何事もなかったかのように普段通りなのである。それどころか、初めてうちに上げたはずなのにすっかり馴染んでいる。怒っていると思ったのは気のせいだったのだろうか。
「そこの袋の中、カップ麺入ってるから食べていいよ。今お湯沸かす」
「ねえ、今何やってたの?」
椅子を引いて席につくと、無遠慮に袋の中身を漁った。カップ麺を机の上に出し、交互に見比べながら俺に聞く。
「さっき使ってた口枷の煮沸消毒。あげるから、持って帰っていいよ」
やかんに水を注ぎ、火に掛けながら答えるとえーいらない、と言いながらふたつのうちひとつのフィルムを剥いでいた。
「町田さん、一人暮らしなんだよね?いつもご飯どうしてるの?」
「コンビニで買ってきたり、スーパーのお惣菜だったり。それは明日のお昼にするつもりだった」
「身体に悪いよ。自炊しなよ」
お節介を言われても腹が立たない。もし、無断で冷蔵庫を開けられたとしても相手が彼ならば気にならないだろう。俺の嗜虐性を理解する唯一の相手だからなのだろうが、一緒にいると楽だった。
「それ食ったら帰りなね。まだ終電まで時間あるし」
彼が麺を啜る前で、俺はインスタントコーヒーを淹れた。彼が箸を止め、目を丸くする。
「ドライヤー貸してあげるし、髪乾かしてからでいいから」
「え、服持って来いって言うからてっきり泊めてくれるもんだと思ってたんだけど?」
「いや、汚れるかもしれないから着替え持っておいでってそういう意味だったんだけど」
理解が追い付いていないようで、麺を持ち上げたまましばらく固まっていた。おかしいと思った。俺は流行に疎いからイマドキのファッションはさっぱりわからないが、彼はいつもかっこよく服を着こなしていた。靴下も履かずにジャージで外を歩いている彼の姿など想像できない。脳の処理が追いついた彼は、硬い表情のまま麺を啜り始めた。
麺を全て食べ終えると、汁を残して席を立った。ジャージの上に上着を羽織り、バッグを持って玄関に向かう。首に掛けていたタオルは机の上に置いた。見送りなど必要なかったのだろうが、玄関まで後ろを付いて行った。
「なんとなく気付いているかもしれないけど、会うのは今日で最後にしよう」
靴を履く彼の後ろ姿に声を掛ける。えんじ色のジャージに、厚底の黒いスニーカーはひどく不似合いだった。最近急に冷え込んで、刺すような冷気が玄関を満たしていた。
「好きって言ったら、困る?」
靴紐を結び、立ち上がった彼がドアの方を向いたまま呟くように言った。背丈は俺と変わらないはずなのに、一回りも二回りも小さくなったように見えるのは、土間とフローリングの間の僅かな段差のせいだけではないと思う。
「ただの吊り橋効果だろ」
「そうかもね。でも、俺町田さんの優しくて大きな手が好きだったよ」
ホモじゃないと言っていた彼から好きと言われたことにさほど驚きはなかった。なんとなくそうだろうな、と思っていた。
「俺は男のパートナーが欲しかったわけじゃない」
「そっか、そうだよね」
「女のふりして知らない人に会うのはやめな。知らない男の家にのこのこ上がるなんて不用心すぎる。もうアプリは消して、縛られたいならちゃんと風俗行きな」
「アプリはもう消してあるし、これからは風俗に行く。知らない人とはもう会わない。今までありがとう」
淡々と言葉を交わし、彼はあっさりと暗く、寒い夜に消えていった。ドアが閉まるのを見届けてから、鍵を掛け電気を消して来た道を戻る。机の上に置きっぱなしのカップ麺のゴミや割りばし、机から人ひとり分離れた椅子。彼のいない部屋に、彼の痕跡が残る。この部屋は、元々こんなに冷えていただろうか。玄関の冷気を連れてきてしまったようだ。
彼の言動から、自分に向けられた好意を感じていた。別に好きと言われたわけでもないし、愛情を求められたわけでもない。ただ会って、お互い欲求を満たすだけならば何ら問題はなかった。彼の好意に触れて、自分がどうしたいのか、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
椅子を机の下にしまい、割り箸はゴミ箱に捨てた。残った汁を捨てるためにカップ麺の容器を流しに持っていくと、チャック付きビニール袋に入った口枷が目についた。帰る間際に渡そうと思っていたのに、すっかり忘れていた。使い回すわけにもいかないし、もったいないが捨てるしかない。それから、初めて会った日に撮った動画も消さなければならない。思い立ったらすぐに行動しないと気が済まないので、カップ麺の容器をそのまま流しに置き、スマートフォンの電源を入れた。
時として、人には自分でも驚くような行動をとることがある。動画を削除しようとしていたはずなのに、手が勝手に彼の番号に発信してスマートフォンを耳に押し当てていた。
「……はい」
相手が向こうで待っていたかのように、電話はすぐに繋がった。電話越しにず、と鼻を啜る音が聞こえた。寒さで鼻が出ているだけかもしれないと思いつつも、それだけでたまらない気持ちになる。
「まだ駅に着いてないよね?そこで待ってて」
早口でそれだけ言うとすぐに電話を切り、コートを掴んで部屋の明かりも消さずに玄関に駆け出した。出ていた靴に足を突っ込み、家を飛び出す。街灯で照らされた夜道を走りながら、呼び止めて自分はどうしたいのだろうと自問する。彼との距離は、確実に縮まっている。その答えは、彼に会ったら自ずとわかるだろう。2本向こうの通りの街灯の下に、ぽつんと人影があった。夜空にはたくさんの星が瞬いていた。
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