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蛇足・鷹は老木に羽を休める
「しまき様、大丈夫ですか? もう少しで村に着きそうですから、どうかご辛抱を……」
「大事ない……そう、大袈裟に心配するな」
「ですが……」
足元のふらつくしまきに肩を貸し、ざらめは心の底から案じて彼を見上げる。もたれるしまきの呼吸はやや早く、そこには、ひゅう、という木枯らしのような異音が混じっていた。着物ごしに伝わる体温も高く感じられる。
数日前、行き先も知れずに彷徨う彼らの道中に、通り雨がかかった。冷える季節である。しまきはざらめを案じて、その防寒具を分け与えた。ざらめがそれを返そうとしても「頑丈だから平気だ」と、首を縦には振らなかった。当然ながらしまきは雨に濡れそぼった。
加えて疲れも出たのだろう。しまきは咳気を得て、苦しそうにしている。いやそれは、一概に病のせいとも言い切れない。ざらめを不安にさせている不甲斐なさ、そんな気持ちがいっとう強く、しまきを苦しめている。
「ああ、しまき様。灯りが見えてきました」
仄暗い黄昏時、ざらめの安堵した声が、農村への到着を告げた。どこの家でも夕餉支度をしているのだろう。勝手の小窓からは竈の前で動く人影や、煙道を通った白い煙が見えた。人家の灯りは、なぜそれだけでほっとさせるのだろうか。
「どこかの方に、せめて馬小屋でも借りられたら」
風をしのぎ、横になれる場所を。
己はともかく、しまきをどうにか休ませてあげたい。そんな藁にも縋る思いで、ざらめは目についた農家の戸を叩いた。この家もやはり勝手の窓から、煮物の匂いがかすかにただよう。
「もし、もし。旅の者です」
「どうなされた。このように辺鄙な村へ」
「突然申し訳ありません。どうかお助けを」
そうして現れたのは、白い髭をたくわえた初老の男であった。いかにも人の好さそうな彼はすぐに自体を飲み込み、彼ら二人を家に迎え入れた。やはり勝手では、その妻である老いた女性が夕餉の支度をしていた。しかし彼女もそれを一度止めると、しまきたちのために白湯を沸かし始める。
「ふむ、咳気か。幸い軽いものじゃな」
安心しなさい。そうほほ笑む男は、農家にしては手慣れた様子で、まるでしまきを診るように様子を探った。そして棚の奥深くから大切にしまっておいたであろう、煎じ薬まで取り出してしまきへ与えてくれたのだ。さらに老夫婦は、同じく温かい部屋で寝ることまで許した。
「おばあ様、葱はこれくらいの大きさでしょうか」
「……ほほ。本当に、ざらめさんは料理に慣れていないのねえ」
その手厚いまでのもてなしに、しまきの体は三日目には回復した。
ざらめといえば看病の礼、そして寝食の礼を兼ねて、家事の手伝いを申し出ていた。老婆というより老婦人と称すのがふさわしいその女性は、切り分けられた葱に手探りで触れ、そして静かに笑った。そこに嫌味はなく、純粋な笑いだった。
「すみません……。ではもう少し小さく」
「いいんじゃよ。大きい方が歯ごたえもあってうまかろうて。なあお前」
「ええ。小さくしたら顎も弱まるばかり」
再び笑う老婦人の瞼は閉ざされたままだ。数年前に病を得、その視界は以後暗闇に包まれたという。彼らはそれを機に、商いを閉じてこの農村へ移住したらしい。
それでもそうとは感じさせない生活ぶりで、ざらめなどは家事では敵わなかった。もともと苦手ということもあるのだが。
「じじ殿、薪割り終わりましたよ」
庭からそう声をかけたのはしまきだった。たすき掛けに袂をまとめ、総髪には鉢巻きをしている。なんともはつらつな様子だ。
「ああ。しまき殿、これは助かった」
「ほかに何かありますか? 鶏小屋の柱が一本腐りかけていますが、補強しましょうか」
すっかり顔色のよくなったしまきもまた、手伝いを買って出ていた。そうして老夫婦と彼らは穏やかに時を共にした。
しかしいつまでも厄介になるわけにはいかない。しまきとざらめは夕餉ののち、密かに庭へ出ると、今後の行方を話し合う。濃紺の空に月が窓のように浮かんでいる。まるで月の窓から誰かがこちらを覗いているようだ。
「ざらめ、本当に心配をかけたな……俺はどうしてこうも不甲斐ないのか」
「いいえ。すっかりお元気になられてよかったです。お二人には感謝してもしきれませんね……ですが、そろそろ」
「……明朝には、発つか?」
「はい。そういたしましょう」
その誰かにも聞こえぬように声を潜めて、彼らは言葉を交わす。涼しい風が吹き抜けて、しまきの総髪をゆるやかに撫でた。しまきはどうにも気がかりな様子で、やや黙してから口火を切った。
「…………いいのか、本当に」
「もちろんです、私はあなたとならどこへでも――」
「そうではない。お前さん、気付いてないのか?」
「気付く、とは……」
しまきのその問いに、何故かぎくりと肩が強張る。なぜ……? なにもやましいことなどはない。だというのに、しまきの視線が痛いような気がしてならない。ざらめは頬がじりじりとする気配に、軽くかぶりを振った。
「――お前さんとあの老夫婦……まるで親子じゃないか」
弾かれるごとく、ざらめはしまきを見る。顔も名前も覚えていない両親の姿を、知れず彼らに重ねていたのだろうか。ざらめは考え込むように視線を落として、爪先を差した鼻緒を見つめる。
「似てるよ。人の好さそうなところとか、雰囲気とか」
「そんな、こと……」
ふいに、足音が影を伴って現れた。腰を折る、あの老主人であった。
「お二人、旅立ちの算段ですかな」
――はい。ざらめがそう答えようとした刹那、唐突に地面に伏し、彼は拝むように手を合わせた。その眦には、月光に照らされた雫が光る。
「どうか、どうかこの地に留まってはいただけませんか」
「……じじ殿?」
「あんなに嬉しそうな妻は、久方ぶりに見ました……不躾ながらお二人は訳ありの道行きのご様子……この村であれば腰を落ち着けても問題はありますまい」
悲痛な願いに、ざらめの胸は引き絞られる。なんと答えたらよいか分からなく、しまきを見やると彼は優しく手を伸ばし、老人を支え立ち上がらせた。
「ではじじ殿、ひとつだけ聞かせてくれないかい」
「はい、はい。なんでも答えましょう」
「――お二人には、子息がいたのでは?」
「しまき様!」
不思議とざらめの喉に緊張が走る。開けてはいけない箱の蓋に手をかけたような、そんな心持ちで袖をぎゅうと握り締めた。
「…………もう、十数年前のことです。我らには、確かに一人息子がおりました」
しまきの問いかけに面食らいながらも、老人はその乾いた唇を震わせて、その箱を開く。それは、秘められた寄木に包まれた奥のものを取り出すように、とても慎重であった。
「彼は、いまなにを」
「行方知れずに……いえ、我らが借金のかたにして、売ってしまいました……」
「名前は?」
「――音々助 、と」
ざらめは、何も答えられなかった。
◆ ◆ ◆
「ざらめさんは、元は芸人さんだったかしら」
「ええ……」
「でしたら、野良仕事の歌も何かご存じ?」
「もちろんです。唄いましょうか」
膝の上まで着物の裾をたくし上げ、婦人と共に畑へ向かうざらめは、穏やかに野うさぎの歌を唄う。
しまきとざらめは、その後彼らの元へ留まった。とはいえ住まいまでは共にせず、以前に老人が裏手の丘に作ったという柴刈り小屋を手直しし、住処とした。陽の温かく照らす日にはこうして畑へ出て、あまりにも健康的な汗を流す。
体のいかにも頑丈そうな強面の男が、少年の手を引く。逃げようともがいても、あっけなく馬へ引き上げられる。
『振り返るなよ。お前はもう、おれたちの商売道具なんだからな』
その言葉が恐くて、馬の上で縮こまるしかできない。遠ざかっていく両親の声に答えたくても、何もできない。最後に一度だけ、その声に答えたいのに。
――音々助。
彼らは確かに、少年をそう呼んでいた。
「……本当に、言わなくていいのか。お前さんがそうだってこと」
「言えません。たった一人の息子が、春をひさいで生きてきたなんて……私には到底」
そう、か。しまきは溜息をつきながら、そっとざらめを引き寄せる。囲炉裏の火が柔らかく、鉄瓶の底を撫でている。ざらめのその気持ちも理解できた。だからこそ、しまきはもうそれ以上は何も言わない。
「この記憶を秘めること。それを私の罪にします。……だから、分かち合ってもいいですか?」
「ああ……もちろんだ。行く先は地獄、そうだろう」
密やかに密やかに、比翼の鷹たちは、羽を休めた。
完
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