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第4話 無花果

 頼隆は、ぐったりと経机にもたれかかっていた。陽もずいぶんと高くなっている。初夏の汗ばむ陽気が気怠さをいや増していた。 ーまったく---。ー  正気の沙汰ではない。としか言いようがない。身体の節々が折れているのではないかと思うくらいに痛み、下半身の重怠さは尋常ではない。直義に毎夜の如く弄られて、頼隆は精も根も尽き果てていた。  憂鬱この上ない気分ではあるが、近習の少年が小走りにやってきて、来訪者がある---と言う。その影が視界に差し掛かって、ようやく身を起こした。 ーご正室さまがおみえです。ー  はぁ---と息をつき居住まいをただした頼隆の眼に絢姫の穏やかな微笑みが佇んでいた。 「おやすみかとも思ったのですが---」 絢姫は、侍女に目配せして、膳と衣装盆を頼隆の前に置いた。 「水菓子と、新しい小袖をお持ちしました。 ちょうど無花果が成っておりましたので---。先にお作りした小袖も少しばかり丈が短くなっているように見えましたので---」 「酔狂なお方だ---」  半ば呆れつつも、近習の少年が格子の内に運びこんだ無花果を口に運んだ。濃密な乳のような甘さが口中に広がり、ほんの少しだが、気鬱が和らいだ。   二言三言、差し障りの無い言葉を交わし、和んだところを見計らって、絢姫が遠慮がちに口を開いた。 「頼隆さまは、お嫁さまはまだ---」  頼隆は極めて素っ気なく答えた。 「縁組みがどれも整わなんだので---」  嘘なわけではない。盛衰の激しい乱世に迂闊に他国と縁組みすれば、命取りになる。かといって家中の娘は皆、頼隆の容貌に気後れして、ただ仰ぎ見るばかりだったし、元々色事に然したる興味もなかった。父も兄も特に縁談を勧めなかったし、頼隆も求めなかった。直義の暴挙はまさに青天の霹靂だったが、それに惑わされて愚挙に走るほど、父も兄も、そして頼隆自身も暗愚ではなかった。 「むしろ、幸いであったやもしれませぬな。」  精一杯の皮肉であり、本音だった。夫が他の男の妾に獲られるなど、これ以上の屈辱も無いだろう。それに---。 「では、お跡目は---」 ー貴女が案ずることではない、と思いつも、優しい穏やかな口調に答えていた。 「兄の、幸隆の子がおります。弟の政隆も、先年、元服いたしましたので---」  頼隆は、故郷の佐喜の国があろう方向をじっと見詰めた。佐喜は、安能の城は、自分ひとりがおらなくても、大丈夫だと、頼隆は信じていた。 ー兄上が、政隆がいる。ー  庶兄の優しい穏やかな微笑みが、また脳裏に浮かんで、消えた。 ー私は子を成すわけにはゆかぬ---。ー 「ご兄弟の仲が、お宜しかったのですね。」  絢姫の言葉に、頼隆は黙って頷いた。  白い雲がひとつ、佐喜のある北に向かって流れていった。  頼隆が安能の城に生まれたのは、春もまだ浅い頃だった。母親の真朱(まそほ)は、都から下向してきた貴族の娘だ。ありがちな勢力拡大の一手のようで、少々風合いが違っていたのは、真朱が土御門の血を引く巫女姫だったことだろうか。何気に浮世離れした容貌は、頼隆とよく似ていた---という。  その頃、既に十歳を幾らか出たばかりの長子、幸隆は幾らも年の違わない父親の後添いの正妻とその幼子を遠目からではあるが、眩しく見詰めていた。  幸隆の母親は、家中のさして身分の高くない家臣の娘だった。気立ての良さと文武両道をこなす豪胆さを気に入られて、父の隆久の側室となった。先の正室とは反りが合わず、反目ひとかたならなかったが、真朱に対してはまったく違っていた。 『ご本宮の姫様ぢゃもの。』  不思議そうな幸隆を尻目に甲斐甲斐しく、真朱親子の世話をする母親の口癖だった。幸隆が母親の出が地元の神主の家柄と知ったのは、ずいぶんと後のことだ。  残念なことに、頼隆の母は、頼隆が三つになるのを待たずに世を去った。ある雪の朝、真朱は幸隆とその母親をふいに訪ね、二人の前に深々と頭を下げ、凛とした声音で言った。 『あの子を、お頼み申します。』  病---といった風情でも無いのに、いきなり何を---と首を傾げるふたりに、真朱は言葉を継いだ。 『私はもぅ逝かねばなりません。幼いあの子を残していかねばならないのは、如何にも心残りではありますが---』 『お待ち下さい、御前様、何故に急にそのような----』  泡を食ったように慌てふためく幸隆の母に、真朱は諭すように言った。 『天命です。』  神仕えの家に生まれたなら、わかるでしょう?----とでも言いたげな真朱の眼差しに母親は、それ以上の言葉を持たなかった。真朱は、ゆっくりと幸隆の方に向き直り、じっとその目を見た。 『清之助どの。』  まだ元服前だった幸隆の幼名を丁寧に呼んで、うら若い、御前様、は言った。 『貴方に、あの子を託します。貴方はあの子にとって、とても大事な方。面白からざることもありましょうが、あの子を支え、扶けてあげてください。』  そう言って、御前様、は年端もいかぬ幸隆に向かってあらためて深々と頭を下げた。  そして、独り言のように呟いた。 『あの子は---人にして人に非ず』  そして、十数年が経ち---頼隆は、元服を迎えた。だが、父の隆久は、いっこうに頼隆の縁組みを進めようとはしなかった。  理由は、母、真朱御前の言葉にあった。 『この子は---人ではありません。』 ー何を言い出すのか---と隆久はいぶかった。  灯りを落とした居室で、小さな頼隆がすやすやと眠る顔をじっ---と見ながら、真朱御前は絞り出すように言った。 『仏も魔も、人の中におりまする。けれど、この子には、それを制する、人の「気」が無いのです。人の情に慣れ染まるまで、どうかしばし、時間をかけて見守ってくだされませ。』  隆久は、当初はその意味が呑み込めなかった。が、頼隆の成長に伴い、否応なしに亡き妻の危惧を知ることになった。  『情』が無いのである。希薄といってもいい。薄情なのではなく、喜怒哀楽の揺らぎが殆ど感じられない。  小さな者をいじめたりはしない。だが、無関心なのである。笑顔を見せるのは、本当に稀なこと---兄、幸隆とはしゃいでいる時くらいのものだ。それも、ーそうするべきーと真似ているように思えた。 『番が---』 と、真朱御前は言っていた。 『番と巡り合えれば、この子も人になれるやもしれませぬが---』  心を、否応なしに揺すぶり、目覚めさせる者が要る---。隆久は、息子と共に、その時を待つことを選んだ。  後継ぎなら、なんとでもなる。妻を娶らずとも、立派に国を治めることはできる。  そう信じて、頼隆に家督を継がせ、先年、みまかった。 ー父上---兄上---ー  確かに、国を治めることはできる、できていた---。けれど、頼隆の胸の中は空虚だった。その事に気付きもしてはいなかった。国を、役目を奪われた今、どうして自分が生きているのかすら、分からなかった。 「殿は---」  絢姫の言葉に頼隆は、ふっと我れに還った。 「殿は頼隆様に、真剣に恋をしておいでです。」 「恋?」  頼隆は怪訝そうに眉をひそめた。絢姫はゆっくり頷いた。 「意味がわかりません---。」  書物なら少しは読んだ。そして---兄に笑いかけられると嬉しかった。胸がはずんだ。ずっと傍にいたかった---。  けれど、幸隆は、直義のように無遠慮に触れたり、あまつさえ己のが欲望を満たそうなどとしたことはないし、そんな素振りもなかった。頼隆には、そもそもそういう『欲望』自体が分からなかった、理解出来なかった。それに--- 「あなたが、いらっしゃるではありませんか。」  訝る頼隆に、絢姫は、ほほ---と笑った。 「私は、恋のお相手ではありませんのよ。」 「は?」 「私と殿は姉弟のようなもの。私は殿があなた様に惚れた---と仰せられた時、嬉しかった。」 「はぁ?」  頼隆は、ますます分からなくなった。  絢姫は、柾木に促され、す---と立ち上がった。 「いずれ時が経てば、頼隆さまにもお分かりになります。殿が如何に真剣に頼隆様を愛しておいでになるか---。」  にっこりと笑って、柾木に会釈し、 ー頼みますよ---。ー と一言残して、絢姫の背中は静かに奥御殿に消えていった。

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