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glasses
ダダダダダッ……バアアァン!
「藤堂 先生!」
「また君か……三枝 君。準備室の扉を乱暴に開けるなと何度言ったら……」
「ただいま!はいお土産!」
先生の眉間の皺が完成する前に、それをずずいと差し出した。
仰け反った身体を追いかけると、白衣の裾がはためく。
訝しげな視線が俺の指の間に挟まったそれを捉えると、刻まれかけていた溝が一気に消えた。
代わりに額の皮膚が寄り合わさり、白目の多くなった瞳がみるみる好奇心に満たされていく。
「これは……琥珀 か!」
先生は壊れ物を受け取るように恐る恐る手のひらを開くと、もう一方の手で黒縁の眼鏡をはずした。
「ここまで損傷の少ない虫入りは初めて見たな……琥珀 自体もほんのり温かく、柔らかい……素晴らしい!」
「よかった、絶対喜んでくれると思ったんだ!」
透き通った黄金色の欠片の向こう側で、先生が瞬きする。
その様子がまるで大人っぽくなくて、つい笑ってしまった。
「鉱石の中で琥珀 が一番好きだって、先生前に言ってたでしょ?」
「ああ。琥珀 には地球のロマンが詰まっているんだ。恐竜が生まれ、生き、死んでいった古代の息吹がここにある。興味を持ったのは自分の名前の意味を――」
「調べたのがきっかけだったけど、でしょ?藤堂琥珀 センセ」
何度も何度も何度も聞いて一言一句間違えずに言えるようになったフレーズの最後を奪い取ると、先生は眉尻を下げた。
高鳴る鼓動を必死に隠しながら、向けられた淡い笑顔に見惚れる。
「とても貴重なものだ。大事にしなさい」
「えっ」
「悪いが、教え子の君からこんな高価な物は貰えないよ。親御さんにも悪い」
反射的に差し出してしまった手の上に、いとも簡単にそれは舞い戻ってきた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!親は関係ないじゃん!?そりゃ、夏休みの家族旅行で行き先ポーランドってなんだよとは思ったけど、ポーランドが琥珀の産地で有名って聞いてから俺、一生懸命バイトしてお金貯めて……」
「うちはバイト禁止のはずだが?」
「そ、そんなの今はどうだっていいじゃん!とにかく、これは!俺が見つけて!俺のお金で買ったんだから!もらってください!ていうか、返品は受け付けません!」
それに、こんなお土産喜んでくれるの先生だけだし!
「……なぜだ」
「へ?」
「なぜ、私なんだ?」
「そ、れは……」
「私は教師としても、人間としても異質だろう。人から忌み嫌われた記憶はないにしても、ここまで好かれた経験はもっとない。そんな私に、なぜ君はここまでする?」
真剣な思いを携えたふたつの瞳が、俺を見下ろしてくる。
乾いた喉が、勝手にごくりと鳴った。
「言ってもいいけど、笑わない……?」
「ああ、笑わない。……たぶん」
「たぶん……ま、いいや。先生ってさ、石を見る時だけ眼鏡外すよね?裸眼を通してしか感じることのできない、その、石の……」
「呼吸?」
「そう、それを感じたいからって」
初めては偶然だった。
移動教室に近道しようと『地学準備室』の前を通ったら白い人影が見えて、それが藤堂先生で、確か石マニアの変なヤツって有名だったな、と本当になんとなく見て、そうしたらもう――
「石を見つめる先生の眼鏡越しじゃない横顔がたまらなくカッコ良かったっていうか、一目惚れしちゃったっていうか、そしたらそんな先生の顔を毎日でも見たくなったっていうか、そのためなら石だって集めちゃうっていうか……いい加減笑ってよ、先生」
向かい側ですっかり沈黙してしまった空気がいたたまれなくて俯いたら、頭の上で髪の毛がぽふぽふと音を立てた。
「ありがとう」
「えっ……あ、ああ、石のこと……」
艶々の黄色い琥珀 が、先生の石コレクションの中心にそっと加えられた。
こだわりの強い先生らしく、ずらりと横並びの鉱石たちは左から右へと綺麗なグラデーションになっている。
新入り君の右側にある薄橙色のは確か……あれ、なんだっけ。
俺が悩んでいる間に、先生はコレクションの右の方から青い石を摘み上げた。
「これを持っていきなさい」
「なに、これ?」
「ラピスラズリだ」
「ラピス……?」
「ラズリ。古代エジプト人はこの石に魔力が宿っていると信じてお護りにしたり、ミイラの心臓に埋め込んだりしたらしい」
「ミ、ミイラ!?」
「ラピスラズリという名は『天』や『空』を意味する原語が元になっているんだが、和名は……」
ふいに、先生が言葉を切る。
そして、前のめりになっていた俺の身体を押しやり、笑った。
「いい機会だ、自分で調べてみるといい」
「え、な、なんで!?教えてよ!」
「学生の本分である学びの機会を教師自ら奪うわけがないだろう?」
コロン、と手のひらの上を真っ青な石が転がる。
琥珀 と違い、ラピスラズリは重くて固いし、冷たい。
それに、こんな綺麗なブルー、初めて見た。
もちろん単純すぎる俺にとっては、先生から貰ったっていう事実だけで一生の宝物になったりするんだけど。
「さあ、そろそろ帰りなさい。仕事の邪魔だ」
先生はすっかりいつもの表情に戻ってそう言い放ち、黒縁の眼鏡をかけた。
始業式までまたしばらく会えないのはものすごく寂しい。
でも先生の大事なものの中に俺が見つけた琥珀 が仲間入りしたと思うだけで、ほっぺの筋肉がひくひくしてくる。
この琥珀 を見るたびに、きっと先生は俺のことを思い出してくれるんだ。
「それじゃあ、先生。さようならー」
「はい、さようなら。あ、三枝君」
「はーいはいはい?」
「はいは一回。それとね、私も君の笑顔は嫌いじゃないよ」
振り返って見たのは、白い背中だった。
言葉にならない声が出そうになるのを制するように、ひらひらと手を振られる。
「ちゃんと宿題、するんだよ」
いかにも教師らしい台詞が飛んできて、でも俺は反応すらできなかった。
蒸し暑いばかりの廊下でひとり佇む。
先生の言葉を反芻したくて、でもぐるぐる回る頭の中ではそれもうまくいかなかった。
「なんだったんだ、今の……?」
そしてその夜、俺は新たな真実に気づくことになる。
『ラピスラズリ――和名「瑠璃 」』
「く、くっそぅ……」
三枝瑠璃、十七歳。
どうやら、悪い大人に捕まってしまったようです……。
fin
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